2009/1/2
「処女神話の処女を愛する神の役割」
青年,否,人間一般が生涯の各時期に自分を完成したと思うことが出来て,真であると偽りであると,貴きと卑しきとを問ふことなく,自分の適ふもののみを求める無智こそ幸福である。
<ゲーテ・詩と真実>より
太陽の動画を見てみよう(クリック)。90度マイナス地軸の傾き=66.6=666。
第二部の動画をご覧になると『Vernal Equinox precession』という春分点歳差(運動)がすべての宗教の出発点であることが理解できるでしょう。
地軸の傾斜が過去にポール・シフトが起ったことを現している?
黄色いこまうぐいす参照
いかなる物体も神ではない。表象から表象へ,やがて沈黙に行きつくほかはないのだ。それが叡智の偉大な掟である。やがて神は現れるだろう。
It began as a search for Atlantis. But Charles Hapgood's discovery of our shifting planet is perhaps more profound. If his data is correct, we've got to face some unsettling facts about our Earth's past and-- and more importantly-- our future.
2012年12月21日というタイミングで、私たちのいる太陽系は銀河系の一定の位置を通過する。そして、銀河の中心と太陽と地球はその日に一列に並ぶ。マヤ暦の終わる日である。
地質年代におけるこのつかの間の出来事は,太陽の熱が極地を溶かし,それにつづいて地球が暖かく湿潤になるおよそ10万年ごとに起こる。サハラ,シナイ,そしてオーストラリアの砂漠に湖ができ,緑が生い茂り,短い地質年代の春に花が咲きそろう。しかしこの暖かい期間はごく短いもので,北アフリカの天候の門は移住者たちにとっては死の罠となることもあった。この200万年のほとんどを,人類は更新世の氷河にさいなまれて震えてきたので,短いながら著しく地表が温暖化し,エデンの門が開くこの時期のことを,地質学者は最大間氷期とよんでいる。
原生人類は地球上に現れてから,そのようなパラダイスを二度しか見ていない。最近の最大間氷期はわずか8000年前のことで,その秋の日差しの名残に浴していられる私たちは幸運なのだ。
私たちの次元で昨日起きたことは、別の次元(4次元)で、それと全く同じことが今日起きているし、私たちの次元で明日起きるはずのことが、4次元で、今日起きている。
時間とは、歴史上のあらゆる瞬間が、全てエーテルの周波数の違う空間に、4次元的に重なり合って、それぞれの次元で同時に進行していることになるが、私たちには、現在以外の時間は全て周波数が違うため、物質ではなくて、反物質として存在しているため、それを見ることも、手で触れることもできない。
しかし、世の中には特殊な能力を持った人々がいて、普通の人には決して見ることのできない、エーテルの周波数の違う空間(4次元)で、今起きていることを見ることができる人々がいる。
それが“ノストラダムス”,“エドガー・ケイシー”,“ジーン・ディクソン”……などの予言者であって、今4次元で起きていることは、必ずそれと全く同じことが将来私たちの次元で起きることになっている。
エドガー・ケーシーは異次元でこのアトランティスを見ているはずだ。
従って、「未来のことなど誰にも分かるはずがない。未来の予言などいいかげんなことに決まっている。」などとは決して考えるべきではない。
確かにノストラダムスの「1999年7の月空から恐怖の大王が降って来るだろう。」という予言は、はずれ、その年のその月には、何も起こらなかった。しかし、その予言は、人類の何千年という長い歴史の中で、ほんの数年ずれただけのことであって、これから起きることであり、根本的にはずれたわけではない。
「そのような予言は、今後決して起こりえない。」などとは、決して考えるべきではない。
Faust depicted in an etching by Rembrandt van Rijn (c. 1650).
われわれの突きとめようとしている要因は,単一なものではなく複合的なもの,つまりなにかある実在者ではなく関係である。この関係を,二つの非人間的な力の相互作用と考えてもよいし,二つの超人間的な人格の遭遇と考えてもよい。多分それが我々を問題解決の方向に導いてくれるだろう。
二つの超人間的人格の遭遇は,人間の想像力の構想したもっとも偉大な劇のうちのいくつかの筋になっている。ヤーウエ(エホバ)と蛇との遭遇が,創世記の中で述べられている人間堕落の物語の筋であり,シリア社会に属する人々の魂がしだいに啓発されてゆくにつれて変貌した,同じ対立者の第二の遭遇が贖罪の物語を述べる新約聖書の話であり,主(神)とサタン(悪魔)の遭遇がヨブ記の筋であり,主とメフィストフェレスの遭遇がゲーテの『ファウスト』の筋であり,神々と悪魔たちの遭遇がスカンジナビアの「ヴォルスパ」Voluspa(韻文エッダの中に収められている詩で女預言者の預言の意味)の筋であり,アルテミスとアフロディテの遭遇がエウリピデス(ギリシャの三大悲劇詩人の一人)の「ヒッポリュトス」の筋である。
また同一の筋が形を変えたものとして,まさに"原初以来の象徴”とでもいうべき〜処女とその子の父との遭遇の神話がある。この神話に姿を現す人物は,無数の異なった舞台の上で,無限の異なった名前のもとに,振り当てられた役を演じてきた。ダナエと黄金の雨,エウロペと牡牛,雷に打たれる大地としてのセレメと雷を投げつける空としてのゼウス,エウリピデスの悲劇『イオン』の中のケルサとアポロン,などというふうに。同じ主題が変貌して(訳者注:トインビーが変貌,つまりtransfigure,とかtransfigurationという語を用いるときは多くの場合マタイ福音書17章に述べられているキリストの変貌によって象徴的に示されているような,現世的なものから霊的なものへの変化というニュアンスを伴う)受胎告知の中に現れる。
今日の西欧社会においても,この変幻自在の神話が,太陽系の発生に関する天文学者の結論という形で姿を現している。数学的天文学者の口から,全ての複雑な計算が終わったのちに(管理人注:複雑でなく非常に単純なこと)またもや,未開の自然児の口で語り継がれてきたあのおなじみの物語,太陽女神とその誘拐者の神話が飛び出すのである。神々が美しい人間の娘にうつつを抜かし,被害者の名前をずらっと詩の中に並べ立てることができるほど大勢の娘をものにした。あののんきなヘレニック社会の神話の世界においてすら,やはりそういう出来事は大事件であり,いつも英雄の誕生という結果を生んだ。
ヨブ記において「神の子たちがきて,主の前に立ち,サタンもきてその中にいた」<ヨブ記1:6>日は明らかに異例のできごとと考えられている。またゲーテの『ファウスト』の冒頭に置かれている”天上の序幕”における,主とメフィストフェレスの遭遇(ヨブ記の冒頭からヒントを得たもの)も同様である。この二つの劇のどちらにおいても,天上の遭遇が地上にもたらす結果は,途方もなく大きなものである。ヨブとファウストの個人的試練は,無限に多様な人類の試練を,直感的な創作の言葉で表現したものである。
そして神学の言葉では,この同じ重大な結果が創世記と新約聖書の中に描かれている超人間的遭遇の後に起るものとされている。ヤーウエと蛇の遭遇の後に起るアダムとエバの追放は,人間の堕落にほかならず,新約聖書におけるキリストの受難は人間の救済にほかならない。どの場合も物語りは陰の状態からはじまる。ファウストは知識において完全であり,ヨブ記は善行と幸運において完全であり,アダムとエバは罪のなさと安楽さにおいて完全であり,グレートヒュン,ダナエその他の処女たちは純潔と美しさにおいては完全である。天文学者の宇宙では,完全な球体である太陽は,みずからの軌道の上を完全無欠の姿で運行する。陰がこのように完全なときには,それはいつでも陽に移行できる状態にある。
その移行を引き起こすものは何であるか。定義上その本性にしたがって完全な状態の変化は,外部からくる衝動あるいは動機があってはじめて生じる。もしもその状態が物理的な平衡状態だとすれば,もう一つの星をもってこなくてはならない。もしそれが精神的な至福ないしは”ニルバーナ”涅槃の状態だとすれば,もう一人の役者を登場させなければならない。これが創世記の蛇,ヨブ記のサタン,『ファウスト』のメフィストフェレス,スカンジナビア神話のローキ(最初は冥界の悪霊,のちにオーディオンの兄弟であると同時に諸神の敵であった),処女神話の処女を愛する神の役割である。
もし神の世界が完全なものであるならば,その外に悪魔がいるはずはないし,また一方,もし悪魔が存在するならば,悪魔がそれをそこなうためにやってくる完全さは,そもそも悪魔が存在することそれ自体によって,すでに不完全なものであったに相違ない。この論理的矛盾は,論理的には解消することができないが,詩人と預言者の象徴において直感的に超越することができる。詩人と預言者は全能の神に栄光を帰しながらも,神が二つの決定的な制限をこうむっていることを当然と考える。
第一の制限は,神は自分のすでに創造したものが完全であるがゆえに,もはやそれ以上創造活動を行う機会を見出すことができないという点である。もし神が超越的なものと考えられているとすれば,神の創造活動によって造られた作品は,今も昔も少しも変わらず栄光に輝くものであって,「栄光から栄光へと<主と同じ姿に>変えられてゆく」<コリント後書3:18>ということはありえない。神の力に加えられている第二の制限は,外部から神に新たな創造の機会が提供された時には,神はその機会を受け入れないわけにはゆかないという点である。悪魔が神に挑戦するとき,神はその挑戦に応じることを拒むわけにはゆかない。神はこの事態を受け入れなければならない。もし拒絶すれば,神はみずからの本質を否定し,神たることをやめることになるからである。
このように神は論理的には全能でないとしても,なお神話的には敗れることを知らぬものであろうか。神は悪魔の挑戦に応じなければならないとしても,その後に続く戦いにおいて勝利をおさめるに決まっているのだろうか。エウリピデスの『ヒッポリュトス』では,神の役割を演ずるのはアルテミスであり,悪魔の役割を演ずるのはアフロディティであるが,アルテミスは単に戦いを断ることができないのみか,はじめから敗北するように運命づけられている。オリュンポスの神々の間の関係は無政府的であり,アルテミスはこの劇のエピローグにおいて,いつかは自分が悪魔の役割を演じてアフロディテに復讐してやろうと決意することによって,やっと自らを慰めるのである。
結果は創造ではなくて破壊である。スカンジナビアの神話でもやはり同じように,破壊がRagnarok(ラグナロク)〜すなわち,『神々と悪魔たちが互いに殺したり殺されたりする』神々の黄昏における結末である。神と悪魔との決闘のモチーフは「悪魔が明らかに負けることになっている賭けの形を取る」。この賭けのモチーフが構想されている古典的な作品は,ヨブ記とゲーテの『ファウスト』である。問題の点がもっとも明瞭に述べられているのは,ゲーテの戯曲の中においてではあるが,天上で主が悪魔メフィストフェレスとの間で,次のような取り決めが行われる。
ファウスト
このおれがのんきに寝椅子に寝そべるようなことがあれば,
その時すぐにおれはおしまいになるがよい!
お前がおれを甘言でだまし,
おれをうぬぼれにおとしいれることができたら,
お前がおれを快楽でたぶらかすことができたら,その日こそおれの最後の日となれ!
さあ賭けをしよう!
メフィストフェレス
よろしい!
ファウスト
このとおり約束したぞ!
おれが瞬間に向かってこういうことがあれば
まあお待ち!君は実に美しい!と,
そのときお前はおれをふん縛ってもかまわない。
そのときおれは喜んで滅びよう!
そのとき葬いの鐘がなるがよい。
そのときお前は奉公から開放される。
時計は止まり,針は落ちるがよい。
その時こそおれのおさらばする時になれ!
<ゲーテ・ファウスト第一部1706行>
新約聖書でも,創世記の中で述べられているもとの形では,どちらかといえば,「ヒッポリュトス』の中のアルテミスとアフロディテの戦いと同様の結末になっているヤーウエと蛇との戦いに,同じ二人の敵対者の二度目の遭遇の啓示によって『ファウスト』と同じ結末が与えられている。ヨブ記でも『ファウスト』でも,新約聖書でも,賭けは悪魔の勝利に終わるはずがないこと,悪魔は神の事業に干渉するが神の目的を妨害することができず,かえってそれに奉仕するだけであること,神はたくみに難局を切り抜け,悪魔に悪魔がみずから首をくくる縄を与えることが暗示されているか,あるいははっきりと言明されている。それでは悪魔はペテンにかかったのか。神は,決して自分が負けるはずはないとわかっている賭けを受諾したのか。そういってしまうのは言いすぎであろう。もしそのとおりだとすれば,この契約全体がまやかしになってしまう。
ヒッポリュトスとオリゲネス参照
実は遭遇でもなんでもない遭遇は,遭遇の必然的結果〜陰から陽への転換という広大な宇宙的結果を生じるはずがない。悪魔が言い出して神が受諾する賭けは,神の創造の一部分におよび,したがって本当にそれを危殆に陥らせるが,しかし全体にはおよばないと考えるのが,おそらく正しい解釈であろう。<Study of Historyサマヴェル縮小版より要約・編集・解説>
以上の記事が全く理解できない場合,下記の過去ログにある『試験制度』を参照ください。これが根本的な相違です。
「ふらんす迷い路 7」
生きることと考えること
森有正との対話
もし他人の内面生活を覗き見る興味からこの本を手にする人がもしいたとしたら,おそらく失望するでしょう。私小説的な自己告発とは別の動機,つまり思想的動機のみがあるのです。
日本ですでに自己形成を完了した私が,ヨーロッパにあってどういうふうに生きてゆくか,ということだけであって,それ以外ではなかったのです。崩壊の瀬戸際に立つかもしれないような歩みは,むしろ現在はじまりつつある。そういう感じが強くしています。
恋愛について
日本人の経験というものは,分析が本当の個人意識まで絶対に下がっていかないのです。最後のところに「親子」の関係とか,「夫婦」の関係とか,「家族」の関係とか,[友人」の付き合いとか,義理とか,そういうようなものが網の目のようにその中に張りめぐらされてある。
だから少なくとも二人の人間で一つの個性というと具合がわるいが,一つの単位を構成しているというところが出てくる。その場合に,自分の個を貫くために,その結びつきを破るかというと,日本人は破らない。それが日本人の根本的な長所であり,また欠点だと思うのです。
個人意識が大事だということは,最後のところになると親子,夫婦,師弟というふうな結びつきが破れて,それが個々に分離していくところにある。ヨーロッパのばあいは,あるばあいには,ほんとうに親も離れ,先生も離れ,国も離れ,社会も離れ,なにもかも離れて,自分一人になってしまうという経験が,事実そこまで行ってしまうのです。
夫婦でも日本みたいに融合しない。親子でももちろん融合しないし,師弟も融合しない。親は自分の責任を尽くして生きてきたのだから,あとから来た子供は,その子供自身の生活なのだから,その生活を自分で営んで,またその次に出てくる子供から離れて一人で死んでいくわけです。そうであるからこそ,ヨーロッパには本当の恋愛が可能なのです。
日本人には本当の恋愛が非常に少ないということです。すぐに親がでてくる。すぐに先生がでてくる。ことに,すぐ友人がでてくる。そのために本当の恋愛は日本では成立しない。恋愛は男の個と女の個との関係です。ですから,孤独ということがなかったら恋愛なぞ,絶対にありえないのです。孤独において成立したもの以外は,多かれ少なかれ,みんな仲人口です。究極において個を貫けないという要素によるものです。
試験制度
学士になるとか,国家試験などでも,一年前に、試験の範囲が報告されます。例えば,フランス文学史の17世紀なら17世紀を勉強してこいとか,どういう著者を勉強してこいとかの指示があります。そういうやり方を通して,単に知識をコントロールするのではなく,試験を準備させることによってその人に勉強させるというやり方をとっている。
中学校などでも哲学が必須で徹底している。デカルト,パスカル,カント,ハイデッカーなど学校用のテキストを正確に読んでおかなくてはいけないわけです。
以上は本の中から抜粋し編集したものです。
グランゼコールへの準備校アンリW世校で講義する生前のアラン
パリQuai d'orsayにあるフランス外務省
まだ一周リードしているその1〜参照ください。
アラン先生とは?
『私がそこで見いだすことを,プラトンがすでに充分考えていたとしても、それが何だろう,私がそこで見いだすことが,何事かを理解するための助けとなるのであれば』このアランやジャンケレビッチの翻訳者であったN氏は私が20年勤めたフランスの企業で約5年間上司であったことは今思えばとてつもなく贅沢な日々を過ごしていたことになる。
フランスでは試験問題の範囲を予め教える。試験を準備させることによって考える習慣を身につけるようにする。生徒は刑務所の中の囚人ではないのですよ。刑務所には看守がいる。日本ではこれが教師の正体であり,おとなしくしていれば外に出してやる(卒業させてやる)ということ。教師はなんの権限も持っていないが唯一持っているのは落第させたり退学させたりすることである。従って最初からそんなサティアンへ行かなければいいのである。
ラファエル・サンツィオ作「聖体の論議」という作品がある。上部には,聖母とヨハネを従えて座すキリストを中心に,12使徒や聖人達が居並んでいる。下部には,中央の聖壇の左右に教会の権威たちが群生し,さまざまな姿態を示しながら,聖体について議論を戦わせている。アランは言う,「あのように,何事も語られてはいず,また何事も語られることはないだろう。語るべきことが語られたためしはついぞなくまた未来にもないだろう。すべての言葉の上に神は沈黙する。画家以上によく語ることが誰にできようか。」と。ラファエロが描いたその神とは,一人の人間にほかならないのだ。すべて現れは物体の中の物体である。そして,現れを見るというだけで,それが神でないことは感知される。いかなる物体も神ではない。表象から表象へ,やがて沈黙に行きつくほかはないのだ。それが叡智の偉大な掟である。やがて神は現れるだろう。そのときこそ世界の終わりだろう。なぜなら,それは思考の終わりだろうから。思考するとは計量することであり,疑うことである。そのとき,もはや疑いはないだろう。そして,確定された実存のなかでは,徳もまた滅びるだろう。選択のないところに,どうして徳がありえよう。我々を意思の場から開放するような一種の信念を抑えるところに,真の宗教は存在するのだ。
拙稿を読まれるのはご自由ですが『はるかかなたで多くの豚の群れがエサをあさっている<マタイ伝8章30節>ように..........すると,豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み,水の中で死んだ<マタイ伝8章32節>ということにならないように祈っています。
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
<マタイによる福音書7:6>
豚に真珠を投げると?
しかし豚は自分が豚であることを知らないし,仮に知ったとしても認めない。
Then Pilate entered into the judgment hall again, and called Jesus, and said unto him,
Art thou the King of the Jews?
そこで,ピラトはもう一度官邸に入り,イエスを呼び出して,「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
Jesus answered him, Sayest thou this thing of thyself, or did others tell it thee of me?
イエスはお答えになった。「貴方は自分の考えで,そう言うのですか。それとも,ほかの者がわたしについて,あなたにそう言ったのですか」
Pilate answered, Am I a Jew? Thine own nation and the chief priests have delivered thee unto me: what hast thou done?
ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが,お前をわたしに引き渡したのだ。「一体なにをしたのだ」
Jesus answered, My kingdom is not of this world: if my kingdom were of this world, then would my servants fight, that I should not be delivered to the Jews: but now is my kingdom not from hence.
イエスはお答えになった。「わたしの国は,この世には属していない。もし,わたしの国がこの世に属していれば,わたしがユダヤ人に引き渡されないように,部下が戦ったことだろう。しかし,実際,わたしの国はこの世に属していない」
Pilate therefore said unto him, Art thou a king then? Jesus answered, Thou sayest that I am a king. To this end was I born, and for this cause came I into the world, that I should bear witness unto the truth. Every one that is of the truth heareth my voice.
そこでピラトが,「それでは,やはり王なのか」と言うと,イエスはお答えになった。「わたしが王だとは,あなたが言っていることです。わたしは真理について証をするために生まれ,そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆,私の声を聞く」
Pilate saith unto him, What is truth?’.
ピラトは言った。「真理とは何か。」
John, Chapter 18, verses 33-38.(ヨハネによる福音書第19章33〜38節)
Beloved, believe not every spirit, but try the spirits whether they are of God: because many false prophets are gone out into the world.
愛する者たち,どの霊も信じるのでなく,神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
Hereby know ye the Spirit of God: Every spirit that confesseth that Jesus Christ is come in the flesh is of God: And every spirit that confesseth not that Jesus Christ is come in the flesh is not of God: and this is that spirit of antichrist, whereof ye have heard that it should come: and even now already is it in the world’.
イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は,すべて神から出たものです。このことによって,あなたがたは神の霊がわかります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて,神から出ていません。これは,反キリストの霊です。かねてあなたがたは,その霊がやって来ると聞いていましたが,今や既に世に来ています。
First Epistle of John, Chapter 4, verses 1-3.(ヨハネの手紙第4章1〜3節)
• Now the Spirit speaketh expressly, that in the latter times some shall depart from the faith, giving heed to seducing spirits, and doctrines of devils;
しかし,霊は次のように明確に告げておられます。終わりの時には,惑わす霊と,悪霊どもの教えとに心を奪われ,信仰から脱落する者がいます。
Speaking lies in hypocrisy; having their conscience seared with a hot iron’.
このことは,偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。
First Epistle of Paul to Timothy, Chapter 4, verses 1-2.(テモテへの手紙第4章1〜2節)
• This know also, that in the last days perilous times shall come. For men shall be lovers of their own selves, covetous, boastful, proud, blasphemers, disobedient to parents, unthankful, unholy, Without natural affection, truce-breakers, false accusers, incontinent, fierce, despisers of those that are good, Traitors, heady, highminded, lovers of pleasures more than lovers of God; Having a form of godliness, but denying the power thereof: from such turn away. For of this sort are they which [are] ever learning, and never able to come to the knowledge of the truth’.
しかし,終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき,人々は自分自身を愛し,金銭を愛し,ほらを吹き,高慢になり,神をあざけり,両親に従わず,恩を知らず,神を畏れなくなります。また,情けを知らず,和解せず,中傷し,節度がなく,残忍になり,善を好まず,人を裏切り,軽率になり,思い上がり,神よりも快楽を愛し,信心を装いながら,その実,信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。
II Timothy, Chapter 3, verses 1-5, 7. (テモテへの手紙第3章1〜5節)
FINALLY, the line 'ye shall know the truth and the truth shall set you free' IS INVARIABLY CITED OUT OF CONTEXT. The CIA cites the text deceitfully at its George Bush Center for Intelligence depot in Langley, turning the truth into a lie.
The point here is that this promise is CONDITIONAL. The correct and complete text is as follows:
'Then said Jesus to those Jews that believed on him: IF ye continue in my
word, then are ye my disciples indeed;
イエスは,ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば,あなたたちは本当に私の弟子である」
And ye shall know the truth, and the truth shall make you free'.
あなたたちは真理を知り,真理はあなたたちを自由にする」
John, Chapter 8, verses 31-32. (ヨハネによる福音書第8章31〜32節)
これらの聖書の言葉は私と私の英国での友人であるChristopher Story氏からのプレゼントです。
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