2008/11/16
「アラビアのロレンス」
当時の伝記者アンタニー・ナティングはThomas Edward Lawrenceを評して「厳密な真相は永久の謎である」と言った。
ローレンスが丁度「ジンの荒野」を執筆中の1914年7月第一次世界大戦が勃発して,イギリス陸軍省はロレンスを陸軍省作戦部第四班(地図班)に採用する。1914年12月から1916年10月までアラブ叛乱にその運命を投じる二年間のカイロ時代,数多いアラブ人秘密結社に関する知識は,あたかもシャーロック・ホームズの小説を読んでいるようでもある。第一次大戦の最中,トルコの圧制に抗して決起したアラブ人を率い,砂漠をラクダに跨り,颯爽と駆け抜ける姿だけみても何も分からない。
アカバでの成功によって中佐に昇進するローレンスを描いた映画「アラビアのロレンス」はいきなり交通事故死で幕が開く。地平線の彼方の蜃気楼を背景にロレンスがラクダに跨って白い砂漠を駆け抜ける場面は映像として美しいが,それはあくまで映画の世界である。「智慧の七柱」カイロ,バグダッド,スミルナ,コンスタンチノーブル(イスタンブール),アレッポ,ダマスカス,メディナの七都市を書いたローレンスの本は亡き父の書斎にあった。実際に,被圧迫民族(アルメニア,クルド,アラブ)に対してローレンスの頭がいっぱいであったかという事については,疑問符がつくという意見も多くある。
同性愛者でマゾヒスト的な記述もあるが,サイクス=ピコ協定,フセイン=マクマホン協定,バルフォア宣言などを詳しく研究すると,イギリスという国がいかに二枚舌以上で,イスラエルとアラブ諸国との争いの原因を作ったのかが,よく理解できる。米国が嫌うイラクが誰によって建国されたかもよく分かる。
美しい国をつくるという日本の首相(阿部さんのこと)の言葉は美しいが,歴史を振り返ると二枚舌,三枚舌の国が世界を制覇しているわけで,民主党の鳩山さんがかつて「政治は愛」ですなんてお門違いのことを言って,肯いている国民とは180度違う現実の世界があるわけです。
アラビアのロレンスを理解するには,下にあげた中野好夫のアラビアのロレンス改訂版を読むのが,一番手っ取り早い。
サイクス=ピコ協定とは次のようなものである。(イギリス側:マーク・サイクス フランス側:ジョルジュ・ピコが委員として1916年5月16日に成立した)
1.南は今日のレバノンから,ダマスカス,アレッポの線を繋ぎ,さらに北してイスケンデロン湾を囲む地中海沿いの海岸地帯と,奥はティグリス河上流一帯から遠くアルメニアに接するあたりまでを含む地域,これを青色に塗って「青色帯」と称し,フランス統治下に置く。
2.バグダッドの北からペルシャ湾に至るティグリス,ユーフラテス流域,これは「赤色帯」としてイギリス統治に予定された。
3.アラビア半島部に「A帯」「B帯」を設定して,ここにはアラブ人の独立国家を許すにしても,A帯はフランス勢力下に,B帯はイギリス勢力下に,それぞれ置く事を決定した。A帯はアレッポとガリラヤ海をつなぐ線を底辺とし,モズルの東,ペルシャ国境を頂点とする。横に倒れた三角形の地域であり,B帯は西はガリラヤ海,死海,ガザ,アカバをつなぎ,東は赤色帯に接する北部アラビアの大部分を包括する地域である。
4.ところがその後,英仏側はこれをロシアにも示して,その分け前として青色帯の北につらなり,黒海岸のトレビゾンドからグルジア,アルメニアに接する一帯を与えることを約束した。
5.青色帯のアレキサンドレッタ港(現在のイスケンドロン)は自由港とする。
イギリス,フランスは七面鳥の両翼をとり,ロシアは胸をとった。(アラビアのロレンス改訂版47,48,49ぺージ)
アラブ人の衣装が好きだったロレンス
フセイン・イブン・アリ一家四人の息子(アリ,アブドウラ,ファイザル,ザイド)の一人ファイザルが土民べドウイン戦士の陣頭に立つ姿。(写真なし)
バーナード・ショーがロレンスに書き送った文がある「君は一生涯,いや,いわゆる近代史というものの続くかぎり,依然としてロレンスであることを免れることはできないであろう。丁度私にとってG・B・S(バーナード・ショー)がそうであるように,そしてまたフランケンシュタインのつくった人間がそうであったように,君にとってもロレンスは,時々厄介きわまるお荷物になることがあるかもしれない。だが,結局ロレンスを作り出したのは君自身なのだ。仕方がない,出来るだけ彼を我慢するよりほかないと思う」
ピーター・オトウール,オマー・シャリフの主演する映画「アラビアのロレンス」は実はとんでもない映画なのです。この前の記事で「サイクス=ピコ協定」を書きました。英仏で七面鳥の両翼を,ロシアが胸肉を分け合う様子は,まるで禿げ鷹のようにアラブを山分けする協定でもありました。
1916年フセイン=マクマホン協定があり,英国がアラブの独立の承認と支持を約束した協定がありますが,そんな協定も吹っ飛ぶ「バルフォア宣言」があります。
英国外務大臣バルフォアが初代ロスチャイルド家の創始者マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド一族のウオルター・ロスチャイルドに送った書簡で,英国政府はパレスチナ内にユダヤ人国家設立を支持し,最善の努力を払うことを約束した内容の書簡である。
英国外務大臣がシオニズム支持するや,1917年12月英国軍はオスマンを破り,エルサレムに入城する。(1591年からオスマン帝国はイスラエル地方を支配していた)1920年2月8日英国ウインストン・チャーチルは新聞紙上で「ユダヤ人国家」支持を表明する。サイクス=ピコ協定の名残で,1923年英国はゴラン高原をフランス委任統治領(シリアの一部)として割譲する。
そして1948年5月14日ベングリオン首相のもとイスラエル共和国独立を宣言し,1949年5月11日,イスラエルはロシア外務大臣グロムイコの後押しもあって59番目の国連加盟国になった。
1948年5月14日 テルアビブにて。イスラエル独立宣言
時を前後してイスラエルの11あるクムラン洞窟から死海文書が次々と見つかったなんて出来すぎじゃあネ〜のかい。
バルフォア宣言を表明した、バルフォア外相から(ウオルター)ロスチャイルド卿に送られた書簡
November 2nd, 1917.
Dear Lord Rothschild,
I have much pleasure in conveying to you, on behalf of His Majesty's Government, the following declaration of sympathy with Jewish Zionist aspirations which has been submitted to, and approved by, the Cabinet.
"His Majesty's Government view with favour the establishment in Palestine of a national home for the Jewish people, and will use their best endeavours to facilitate the achievement of this object, it being clearly understood that nothing shall be done which may prejudice the civil and religious rights of existing non-Jewish communities in Palestine, or the rights and political status enjoyed by Jews in any other country".
I should be grateful if you would bring this declaration to the knowledge of the Zionist Federation.
Yours sincerely,
Arthur James Balfour
1917年11月2日
親愛なる(ウオルター)ロスチャイルド卿
私は、英国政府に代わり、以下のユダヤ人のシオニスト運動に共感する宣言が内閣に提案され、そして承認されたことを、喜びをもって貴殿に伝えます。
「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力を払うものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解されるものとする。」
貴殿によって、この宣言をシオニスト連盟にお伝えいただければ、有り難く思います。
敬具
アーサー・ジェームズ・バルフォア
ロスチャイルド王朝の初代マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは,フランクフルトのユダヤ人ゲットーに小さな古物商及び金融業を営んでいた。10歳で両親を失った長男のマイヤーは古銭を扱いフランクフルトの領主ヴィルヘルム9世の財産管理業務に食い込んで行く。そしてフランス革命。1806年ナポレオンがフランクフルトを占領しヴィルヘルム9世を追い出す。ナポレオンの目的は9世の資産であった。
しかしマイヤーは二重帳簿で9世の資産を隠し,難を逃れる。1816年6月ロンドンにいる兄弟でもっとも頭のよいネイサンはワーテルローの戦いを機に,国債で当時の金額で100万ポンドの利益をあげる。ネイサンはイギリス政府に資金提供し,イスラエル建国に繋がる政治的役割を果たした。
パリにいるジェームスは,1870年代資金難に喘ぐバチカンに資金援助をし,後にバチカン銀行の投資業務と資産管理業務を行なう主力行となっている。これも父のヴィルヘルム9世に対する守秘義務を果たした産物でもあった。ロスチャイルドは5つのロスチャイルドに分かれている。それは五人の息子達である。
ロスチャイルド(ロートシルト)は赤い楯という意味である。これは家紋にもなっている。
以下の文章はここから
ロレンス Thomas Edward Lawrence 1888‐1935
イギリスの探検家、考古学者、天才的な軍人。通称〈アラビアのロレンス〉で有名。
オックスフォード大学で考古学を学び、ことに中近東に関心をもち、1910‐14 年大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加。
第 1 次世界大戦勃発後、陸軍情報将校としてカイロに派遣され、ドイツ側に参戦したトルコの後方かく乱を計画、トルコ支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に挺身、アカバ・ダマスカスの解放に成功。
19 年パリ講和会議にも出席したが、アラブに対し戦後の独立承認を約束しながら、これを果たさないイギリス政府に失望する。
21 年、W.チャーチル植民相の下にアラブ関係顧問となり、ファイサルを国王とするイラク王国の成立に努力したが、政府のアラブ政策を不満として翌年辞任。その後、偽名で戦車隊、空軍に一兵士として勤務、 35 年除隊、まもなくオートバイ事故で死亡。
主著にアラブ独立運動の記録と自身の哲学を記した《知恵の七柱》(1926) がある。
彼は型破りの性格で波乱の生涯を送ったが、その評価はなお一定していない。
なお、彼の半生は 1962 年、デビッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演《アラビアのロレンス》(作品賞ほか各種アカデミー賞受賞) として映画化されている。
母・セアラは以前、実母をアルコール中毒で亡くし、厳格でヒステリックな女性だったらしい。
彼女は息子達を厳しく育てた。この母との確執によって、ロレンスの複雑な性格が形成されたようだ。尚、セアラは5人の息子を育てたが、結婚をしたのは五男のアニーただ一人である。(ロレンスは二男)
ロレンスは生涯独身で、女性との性的関係はなかったというのが定説とされている。男性として、女性に欲望を感じたことはなかったらしい。
ダマスカス占領(1918)後、ジャーナリスト、ローウェル・トマスが記した「アラビアのロレンス(と共に)」は大西洋の両岸でベストセラーになり、たちまち社交界の女性達が注目した。しかし彼は彼女達を避けるようにしていたという。
彼は古代史の研究の中で、必然的にギリシア文明の同性愛に関する知識は持っていたが、自身は同性愛者ではなかった。
しかし彼はマゾヒストだった。《知恵の七柱》第80章に、彼がデラーの街でトルコ兵に捕まり拷問を受けた体験を記している。そこで彼は下士官から鋲のついたブーツとチェルケス鞭で拷問を受けるのであるが、ロレンスは
「・・・その男に向かって力なく微笑みかけたという記憶があった。というのも、体中が、たぶん性的な、甘味な興奮に満たされていたのだ。すると男は腕を振り上げ、鞭を思いっきり私の股間に突き立てた。私はうずくまって絶叫した・・・」
「・・・あの夜デラーで、私のある部分が死んだ」
と記述している。
ロレンスは、作家バーナード・ショーの夫人に宛てた1924年3月26日付の手紙でこう告白した。
「・・・(あの時)肉体の純潔をくれてやったのです。許されないことでありもう取り返しがつきません。私はまっとうな暮らしをする資格を失ったのです。」
1922年より、ロレンスはそれまでの栄光を捨て、奇妙な生活を始めていた。雑用夫ブルースと共に、偽名を使って一兵卒として軍事訓練を受ける日々を送っていた。
ある日ロレンスはブルースに、教会のパレードに参列しなかったので「おやじ」が腹を立て、罰を受けるように命じてきたと語り、タイプで打った手紙を見せた。ブルースは、しぶしぶ言われるがままにロレンスの尻をズボンの上から鞭打った。ところがその日遅く、ロレンスは
「(おやじに)、罰がまだ足りないと言われた。尻をじかに鞭打たなきゃだめだそうだ」と言い、尻から血が出るまで鞭を打たせた。
それ以来、この奇怪な習慣が続いた。ブルースは度々「おやじ」からの手紙を受け取った。内容は、
「品行は改まったか、もっと鞭で打つように」
であった。(おそらく手紙はロレンスが自作したものであろう)
彼の不幸と孤独は、アラブの独立に捧げた純粋な理想主義が、 イギリス帝国の権力主義的な中東政策によってしだいに裏切られていくところが原因とされている。
一方でロレンスは心の平安を平凡の同義語と考える人間であった。
詩人オーデン(Wystan Hugh Auden 1907‐73)は
「教育の目的は、子供がダメにならずに堪えられる程度の神経症を作り出すこと」
だと言った。
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