08.11.7
森田実著『崩壊前夜・日本の危機』を読んで



◆「脱米こそが日本を救う道」
 今年の秋も深まる10月31日、わが国屈指の政治評論家・森田実氏が、新著『崩壊前夜・日本の危機――アメリカ発世界恐慌で岐路に立つ日本』(日本文芸社刊)を世に問うた。
 本著の帯に「世界中を不幸にした『市場原理主義』に決別せよ!」とある。まさに森田氏は「脱米こそが日本を救う道だ」と主張する。
 より端的に言えば、同氏が稲村公望氏(元日本郵政公社常務理事・中央大学大学院客員教授)との対談で述べているように、「米国経済の破綻は日本自立のチャンスだ!」ということなのである。
 ところで、私事だが、私は森田実氏の著作物を編集する日本文芸社のカバーデザインを見るのが何よりの楽しみである。今まで三作、目にしているが、それぞれに深い意味合いと色彩、それにデザインそのものの妙に心から感じ入っていた。だが今回はだいぶ趣を異にしているように思う。前の三作が非常に具象的であったのに対して、今回はきわめて抽象的だという印象をもった。色も赤、白、黄、黒の四色で、タイトル名を浮き上がらせるシンプルなデザインなのだ。
 しかし、よく見ると決して抽象的なものではないことがわかる。これは単に私の個人的印象に過ぎないが、まさに「夜明け前のほのぼのと白みゆく大地」を思わせる構図なのだ。
 「夜明け前が一番暗く、かつ一番寒い」と言われる。だが、これが今の、あるいはこれから数年間の「日本の真実の姿」なのではあるまいか。私には表紙の装丁にかかわった同社の優秀なデザイン・スタッフたちがそのような意図と含意で創作したように思えてならない。そこに私は、編集スタッフの深い意図と卓抜な美的センスを感じるのだ。
 日本国内では、今日、たった一日で数十万冊以上の書籍や雑誌が出版・発行されると聞く。まさに巨大な河の流れを感じる。同書はそんななかの一冊ではあるが、日本全国民にぜひとも読んでもらいたい実にタイムリーな“警世の書”である。その意味で、著者の森田氏こそは現代日本に警鐘を鳴らす“社会の真の木鐸”である。彼が打ち鳴らす警鐘に日本国民の一人一人が耳をすまして傾聴すべきだと思うのだ。
 換言すれば、森田氏は真に“言霊を語れる人”だと思う。今日の日本は騒音や雑音が多く、真に“言霊を語れる人”は非常に少ない。むしろ皆無とさえいえる。だが、そんななか、今日、日本のマスコミに不当に軽視かつ無視される森田氏はかえって真に自由かつ自立した意思と思想をもっている。そして彼は、まさに無心・無欲・無私の精神で、天が彼に命じる“お告げ”を自らの言霊を通してわれわれに伝えているのだ。その「天」とはまさに祖国日本の守護神とも言える方(あるいは方々)だと思うのだ。
 その意味で、森田氏は「現代日本のソクラテス」とさえ言えよう。かつて古代ギリシアのソクラテスは、アテネ市民を前にして、生涯「最後の弁明」で次のように語った。
「諸君、君はアテネという、最も評判の高い偉大な国都の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいということにだけ気を遣っていて、恥ずかしくないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮や真実は気にかけず、精神をできるだけ優れたものにするということにも、気を遣わず、心配もしないというのは。〈中略〉誰でも、精神ができるだけ優れたものになるように、随分気を遣わなければならないのであって、それより先に、また同程度に身体や金銭のことを気にしてはならない。なぜなら、金銭をいくら積んでも、そこから優れた精神が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては精神の優れていることによるのだから」と(プラトン『ソクラテスの弁明』)。
 森田氏はソクラテス同様、われわれ日本国民に次のように言いたいのではあるまいか。
 《わが日本国民諸君よ、君らは、聖徳太子の「和」の精神の栄えある後継者でありながら、その「調和」と「助け合い」の精神を忘れ、かつ蔑ろにし、「金(カネ)がすべて」のアメリカの奴隷と成り果て、時に彼らの真似をして、心底恥ずかしくはないのか。
 理不尽な暴力で世界の諸国民を苦しめ、踏みつけにする現代の「帝国(=アメリカ)」に搾取され、脅され、アゴで使われながらも、文句ひとつ言えず、唯(ゆい)諾々と従属したままで、君らはまったく恥ずかしくはないのか。  君らは信用、勤勉、実直、質素、倹約、努力、精進といったご先祖からの精神的な賜物を、まるでドブに捨てるような所業をして、ご先祖に対して申し訳ないとは思わないのか。
 そればかりか、いまだけでなく今後もアメリカの手先となって戦争のお先棒を担ぎ、平和の尊さを忘れるなど、先の大戦で亡くなった数多くの人びとに対して、誠に申し訳ないとは思わないのか。
 最後に、日本人として、そして一人の人間としての誇りと矜持を忘れ、常に「自分中心」「自己本位」の生き方だけを追求してまったく恥ずかしいとは思わないのか》と。
 以上のような著者の思いを想像しながら本著を読むと、案外読みやすくなると思う。また、全編5章(最後の「エピローグ」を第5章と考えて)に通底する主旋律は、「脱米こそが日本を救う道だ」という森田氏の主張だと思うのだ。

◆日米同盟関係を再検討しよう!
 森田氏は、本書の「はじめに」の最後の部分で、本著を執筆した意図を次のように述べている。
 《本書は、国民の皆さんに、今日の世界と日本の危機の現実とその原因、私の考える長期の展望を示すために緊急に執筆した。全国の皆さんに読んでいただきたい。そして議論していただきたい。批判していただきたい。国民の自覚が日本を救うと考えて、私は、日本が崩壊しないこと、日本国民が不幸にならないことを祈るような心境で本書を執筆した。日本国民の生き方は、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(五箇条の御誓文)である。本書によって大いなる議論が巻き起こることを強く期待している》と。
 森田氏がわれわれ国民に望むことは、「広く会議を興し、万機公論に決する」ことである。そして、同氏がわれわれに伝えたいことは、「国民の自覚が日本を救う」という真実だと思う。その「自覚」のために、彼はかつてのソクラテスのごとく、講演・執筆・出版などのさまざまな活動を通してわれわれ日本国民の魂に警鐘を鳴らしつづけていると思うのだ。

◆本書の構成と「エピローグ」の大切さ
 さて、本書は実質五章で構成されている。それは次のとおりだ。
 第1章 完全に破綻した市場原理主義
 第2章 日本を破壊した小泉・竹中改革
 第3章 アメリカの「戦争計画」に巻き込まれる日本
第4章 従米か独立か――総選挙後の日本はこう動く
エピローグ 日本の独立と再生に向けて
である。
著者の言にもあるように、森田氏は第1章で今日の世界と日本の危機の現実を提示し、第2章でその主要な「原因」を述べる。つづく第3章で今後の日本が抱える危険性を明示し、第4章で彼の考える長期の展望を読者に明らかにする。また結びの言葉ともいえる「エピローグ」は、人物写真家・蛭田(ひるた)有一氏のインタビューをベースに書かれている。本章では、森田氏の「政治評論家の原点」など、まさに著者の肉声が聞かれる「名コーナー」とも言える。
 この「独立と再生に向けて動き出した日本」というタイトルが付けられているコーナーでは、国内で無数の塾が出現した現象は「日本が独立と再生に向けて動き出した」兆しとして、その明るい将来性が力強く論じられている。
 「エピローグ」最後の「そういう日本をつくるためにも、もうひとふんばり頑張っていただきたいですね」という蛭田氏の言葉に対する森田氏の応答が読む者の心を打つ。彼は言う。「私も老骨に鞭打って努力します。これから10年は健康維持して頑張らないといけないと決意しています」と。  森田氏は、今後の10年間が日本の将来にもつ意味とその重要性を日本国民の誰よりも強く感じていると思う。なぜなら、同氏こそは日本の政治経済に関する批評・分析に関して、まさに当世「最大の理性」ともいえる存在だと思うからだ。
 ところで、書物にはさまざまな読み方がある。初めの一字一句から丹念に精読する読み方もあれば、一頁一頁の要点を明確に掴んで文章をまるで一幅の絵のように感じながら速読する読み方まで、実にさまざまである。まさに自由自在な読み方があると思うのだ。
 ちなみに本書に関して、読者の皆さんに一つご提案したいことがある。それは、まず最後の「エピローグ」から読まれたら、ということである。ここでは、蛭田氏の寛くかつ温かいお人柄によるものであろうか、森田氏が腹蔵なくご自分の真情を吐露している。
 それに何より、日本の読者は、ほんの一部の人以外、森田氏が「テレビから消えた理由」をまったく知らない。この真実のなかに、小泉構造改革なるものがいかにイカサマかつ邪悪で、アメリカの圧力と指示を受けたものであったかということが判明する。同時に、どれほど深く今日のマスコミが病み、「厳正中立」という社会的な健全さを失っているかが明白となる。さらには、現代日本が、治安維持法下の日本や、敗戦直後、GHQの言論統制下にあった日本と、まさに“五十歩百歩”であるという事実が明らかとなる。それでは、その興味深い「エピローグ」には、一体何が書かれているのだろうか。

◆森田氏が「テレビから消えた理由」
 本章「エピローグ」の冒頭、蛭田氏が「政治評論家としての森田さんの信念とは?」と訊ねる。それに対して森田氏は毅然として答える。「戦争反対ですね」と。そして次のようにつづける。「どんなことがあっても再び戦争を政府にやらせてはいけない。戦争に反対して平和を守るというのが政治評論家としての第一の信念です」と。
 実は、この切なる思いが彼がこのたび本書『崩壊前夜―日本の危機』を上梓した最大の理由でもあると思う。なぜなら、それだけの危険性がこれからの日本にあるからだ。
 また、「著述業者になって40年近くになりますが、ずっと反戦平和が原点です」との言葉が読む者の心を揺さぶる。これほど重い言葉は今日、なかなか聞かれないと思うのだ。
 その森田氏が「今の日本の状況で特に心配していることは何か?」との蛭田氏の問いに答える。それは「日本政治には自主的判断能力がないこと」である。森田氏は、切実に訴える。
《日本はアメリカに利用されています。日本の指導者層は“風にそよぐ葦”です。アメリカという風で日本は自由に動かされている。このまま行けばアメリカは日本を食い尽くすと思います。メチャメチャになって日本はアメリカの奴隷国として滅んでいくという恐れがあります。このことに日本の指導者層が気づかなければいけないと思うのです》と。
 ところで、森田氏が「テレビから消えた理由」であるが、それは同氏が2005年8月、当時の小泉首相が無理矢理「郵政民営化法案」を成立させるために衆議院を解散したことを「憲法違反である」と雄々しく公言した結果である。森田氏は言う。「小泉首相は重大な憲法違反をしたので、直ちに責任を取るべきだという発言をしました。これが、私のフジテレビ生番組への最後の出演になったのです」と。
 同氏はこうも語る。
《実は小泉首相が衆議院を解散した一週間後に、アメリカの巨大な広告会社のボスが首相官邸で総理大臣の小泉と会っています。官邸の中で。こういう大掛かりなことが行われて郵政民営化法が成立したのです。それを私が問題にしました。私には悔いはないのです。自分自身をモルモットにして、現代社会における広告の巨大な力を知ることができたのです》と。
 この「私には悔いはないのです」という言葉の何と重いことだろうか。また、政治評論において当代一流の大家をモルモットにさせてしまう日本政治やその社会が“かなり深刻に病んでいる”とは言えないだろうか。

◆人間の悲しみを知ってこそ真の政治家、そしてまことの政治指導者
 森田氏は単なる政治評論家というより、むしろ人間そのものの真価を見抜ける「人間観察」の大家、ひいては“人生そのもの”の達人とも言えよう。
 たとえば蛭田氏の「小泉純一郎と小沢一郎という政治家をどう捉えていますか」とのかなり突っ込んだ質問に対する森田氏の答えが秀逸だ。彼は言う。
《共通しているのは、2人とも人間の悲しみをあまり知らないということです。自分自身に大きな失敗がほとんどありません。挫折がないです。人間というものは失敗や挫折によってどん底を経験し、そのどん底から社会を眺めて人間を知るのです。社会を知るのです。政治家はそういう経験を積んだ人でないとまともな政治家になれないと私は思っているのです。2人は本当の人間の悲しみを知らないと思います。だから2人とも非常に傲慢です。それと2人に共通しているのはアメリカ信仰です。小泉はブッシュと組んでこの数年間を切り回しました。小沢もアメリカには弱い》と。
 「人間の悲しみをあまり知らない」「傲慢」「アメリカ信仰」という共通項で結びつく小泉氏と小沢氏――「人間の悲しみをまったく知らない」と冷たく断言せず、「あまり知らない」と筆を留める森田氏の冷静さ、公平さ、そして人間的な優しさや温かさ。しかし同時に、「(二人は)傲慢」と明言するその峻厳さと大胆さ。まさに同氏こそ、公平無私の当世一流の批評家であると思う。
 また彼は、その慧眼で小沢氏の盲点をきびしく突く。森田氏は言う。《今まで小沢さんはここぞというときには失敗することが多いです。それはなぜか。それはチームをつくることができないのです》と。
 これは私の感想だが、この「チームをつくることができない」というのは、換言すれば「真に腹を割って語り合い、信じ合える友や仲間がいない」ということではあるまいか。それゆえ小沢氏は、人に恐れられても、心底信頼されないのではないだろうか。だが、友や仲間ひいては国民に信頼されない政治家が、真の国民的リーダーだと言えるだろうか。
 「才あれど徳なし」という人間は、世間にかなり多く存在していよう。政治家のなかにもこのような人物は多い。小沢氏がもしもそのような人物の一人であれば、きっと国民の心は彼から離れよう。なぜなら、国民が政治指導者を最終的に判断する基準は何よりも「彼(あるいは彼女)が信頼できるかどうか」だと思うからだ。つまり、指導者に信頼に足る人間的な「徳や徳性」がなければ、国民はついていかないと思うのだ。
 無論、数年前の小泉ブームのように国民がマスコミに踊らされて、真の理性を忘失することもあろう。だが人間、とりわけ日本人はそれほど愚かだろうか? 私はそうは思わない。熱はいつかは冷め、隠しごともいつかは白日の下にさらされると思うのだ。
 むしろ、“さらさなければならない”と思う。なぜなら、そのような「情報開示」がなければ結局、日本には滅んで行く道しか残されていないからだ。そうならないために、森田氏は2005年8月、小泉首相の不正とその邪悪さを正々堂々と糾弾したのだと思うのだ。


森田実著『崩壊前夜・日本の危機』を読んで


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