2009年01月16日

具体的ってなんだ

これは反応しておくと、自分のためになりそうな気がした。

ロジカルシンキングの練習:反例を作ること
http://d.hatena.ne.jp/idadi/20081116/1226848629
「論理的」とは、「経験との対応が明確に表現されている」ということである。言いかえれば、「具体的」ということである。
日本語,わかりにくいですね.「言い換えれば」という部分なんですけど.たぶん,「論理的⇔具体的」を言ってるんじゃないの?きっと.
引用された部分は、宇佐美先生の文章なんで、こっから書くことは、あくまでフラスコの解釈です。できれば原典を読んでほしいけれども、たかがフラスコのエントリのためにほいと買えるほど安くもないですからねえ。

まず言い換える前の部分を考えてみましょう。

りんご

頑張って描きました。

こいつは何でしょう?
普通に考えれば「りんご」ですね。
(絵が下手とか言わない)

「りんご」は「経験との対応を表現できている言葉」だとしていいでしょう。
みなさん「りんご」という言葉から、赤くて、丸くて、甘酸っぱい果物を想像するでしょう。みなさんの経験に対応した言葉だからこそできるわけですね。

おいおいフラスコ、ちょっと待てよ。
「りんご」だからといって、赤いとは限らないんじゃないのか?
青りんごの立場はどうしてくれる?

うーむ、それは困りましたね。
そこまで厳密に言いたいのでしたら「赤いりんご」と言いましょうか。
または「ふじ」「紅玉」など品種名で呼べば、間違いなく赤いですね。
これらの言葉は、先ほどよりも経験を厳密に規定しています。
この方向性が原文で「明確に」と表現されている部分であり、そのことが「具体的」なのだと、フラスコは理解しております。

「りんご」→「赤いりんご」→「ふじ」→「長野県産のふじ」→「○○さんが育てたふじ」
と言うように、現実の事象をこまかく表現する方向性を「具体的」と述べていたんだと思います。

反対に
「りんご」→「赤い果物」→「果物」→「植物」→「有機物」
というように、より広いくくりの区切りの分類していく方向が「抽象的」なわけですね。

「抽象的」ってのは、広辞苑に以下のように説明されています。まだ第五版だけどたぶんかわってないといいなぁ。
抽象的:(1)抽象して事物の一般性をとらえるさま。(2)現実から離れて具体性を欠いているさま。
抽象がわからんと説明になりませんのでこっちも引用。
抽象:事物または表象の或る側面・性質を抽き離して把握する心的作用。その際おのずから他の側面・性質を排除する作用が伴う。これを捨象と言う。一般概念は多数の事物・表象間の共通の側面・性質を抽象して構成される。


遠い昔のエントリで、問題解決するときにゃモデル化してるんじゃといったときのモデル化が、まさしく抽象だったわけです。

当時は、まじめに勉強していなかったのか、エントリの中に抽象の「ちゅ」の字もないですねえ。あらあら。

とりあえず、「具体的」ってのは、なるべく抽象化しない方向です。
一般的に抽象化はおこなえばおこなうほど、論点がボンヤリしてしまいます。
物理系についての反論がありましたが、それはまさしく、
「一般的に抽象化はおこなえばおこなうほど、論点がボンヤリしてしまいます。」という抽象的な議論の論点がぼやけていることを指摘されていたわけです。捨象された部分なわけですね。

なんで捨象されるかと言えば、物理系が例外だからなんだと思います。
物理学は、取り扱う問題のために、最適に抽象化されています。それゆえに抽象化されていても、問題に曖昧さが入ってきません。そのように設計された理想的な場なのです。
が、一般的にそんな理想的な場は、そうそうつくれません。
あとは、数学と論理学ぐらいですかねえ。(ほかにもこれはどうよ、という突っ込みはコメントにどぞ。記号論とかですか?←まだよくわかってない)

で、そのお三方は、その素晴らしさを讃えて、ちょっと脇によけてもらうことにしましょう。

すると、世の中の議論は、問題に対して適切な言葉のレベルが意識されていないことが多いわけです。
たとえば「学力」
たとえば「弱者」
たとえば「大学」
たとえば「ポスドク」
指し示す範囲が広すぎて、議論をおこなう上で紛れが多くなりますぎます。

では、論理的に議論をするとしたら、どうすればいいでしょうか?

そう、具体的であろうとするしかないわけです。

論理的に、という言葉をきくと論理学ベースの抽象化を想定しがちな我々ですが、実際には、具体的であろうとすればいいのです。
当然、具体的であっても、論理的におかしい部分が出てきますが、そいつは相手に反論されるだけのこと。その結果、論理的でない部分が淘汰され、論理的になっていくはずです。

論理的になろうとしなくても、具体的であろうとすればいいというエントリのタイトルにつながるわけですね。

「論理的」とは「具体的」である、は、よろしくないタイトルでしたね。)

さて、元ネタのエントリに戻りまして、具体的と論理的をいろいろと論じていただきましたが、
そもそも,どんな状態を持ってして具体的というのかわかんないから,否定のしようがないわけでして
と、ご本人が書かれているように、ここがはっきりしてないと話が通じないんですよね。

たとえば上の例で言えば、「りんご」が具体的なのか、「ふじ」が具体的なのか、「果物」が具体的なのかは、問題のレベルによって変化します。
こんな状態をもってして具体的といえるものではない、と。

彼女の好きな食べ物を買っていきたい、という問題があったとき、その回答が「有機物」じゃ困りますよね。かといって「○○さんのつくったふじ」だと具体的すぎて、どんだけグルメなんだ、という気分になります。
でも、それしか彼女が食べたくないと言えば、「ふじ」では、この問題に対して抽象的すぎるということになります。そんな彼女はイヤですが。

具体的とは、抽象化の逆方向です。
捨象される部分に、議論に必要なものが含まれていないのであれば、抽象化してもかまいませんが、抽象化しすぎた言葉は論理的かどうかを判断できなくなります。

適切な抽象化のレベルを選択できないのであれば、具体的であろうとすればいい。むしろ、抽象化して骨抜きの意味不明な議論で終わるなら具体的なことをならべていけ、そして、論理的に議論していけ、と、そのような解釈で、原文を読みました。

できれば直接読んでいただいた方が、このなんか、研究室に配属になったばかりの院生とディスカッションするようなむず痒さから解放されるんじゃないかと思います。いろんな図書館に配架されてるみたいです。

人工言語じゃないと,このあたりは難しいですね.
激しく同意しますが、人工言語に踏み込まずに教えられたらいいなぁ、と思っています。
本当は、このエントリの内容も写像あたりの話として、数式でガツっとやってしまえばまぎれがないんでしょうね。

banner←このエントリの80%は現実逃避でできています。さ、採点、採点。

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これに反応すると自分のためになる気がしたので..... 大学教員の日常・非日常:具体的ってなんだ 問題(でもないけど)はこの一文: 「論理的」とは、「経験との対応が明確に表現されている」ということである。言いかえれば、「具体的」ということである。 ようは,宇佐
[雑記]論理×具体×抽象【Σ m_i=blog】at 2009年01月19日 23:58
この記事へのコメント
唐突ですが質問です。
将来、できれば都内の大学で教授をやりたいんですが、
国立大学のほうが私大よりも教授になりやすいんですか?
私大卒でもでも教授になれますかね?
Posted by 閣下 at 2009年01月20日 23:28
唐突ですが質問です。
将来、できれば都内の大学で教授をやりたいんですが、
国立大学卒のほうが私大卒よりも教授になりやすいんですか?
私大卒でも教授になれますかね?
Posted by 訂正 at 2009年01月20日 23:29
>国立大学卒のほうが私大卒よりも教授になりやすいんですか?

どっちも難しいです。学生、教員を踏み台にして、のし上がる
必要性があります。そういう自信がおありでしたら、ぜひ教授
生活を試してみてください。
Posted by ある at 2009年01月22日 19:38