2001年 神奈川県の調査
在日同胞を含むオールドカマーが多くの場合「通名(日本名)」を使っている実態も浮かび上がった。オールドカマーの回答者中、本名を使用していると回答した人は22.8%、「通名使用」と「場合によって使い分け」と回答した人は、77.2%に上る。本名使用者の比率は、「18~29歳」と「60歳以上」で若干高いものの、年代別にさほど変わりがなかった。84年調査でも「本名使用」は22.9%だった。オールドカマーの多くが「通名」を使用する現実は15年前と変わっておらず、「通名使用」が世代を越えて受け継がれている実態が浮かび上がった。(朝鮮新報)
韓国人の愛国心など
この程度のものです。
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併合直後から一部のCho/sen人官吏・警察官が日本的な姓名に改め、それを民籍に登録する事例が見られる。官吏でない一般民衆の間でもそのような風潮が見られました。1911年11月1日に施行された総督府令第一二四号「Cho/sen人の姓名 改称に関する件」とそれに附随する通牒によって制限されることになりました。
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↑「内地人式の氏にするのは強制ではない」
1940年 朝鮮総督府 法務局が発行した「氏制度の解説」。
(4)として「日本式の氏を設けるように、強制されているのだと
理解している人があれば、それは誤解です」と はっきり
書いてあります。「従来の姓を ”氏”に用いる人は放って置いてよい」
とも書いてあります。
ソウル大学の講師が法定創氏と設定創氏に言及していますが、
法定創氏というのは何もしなければ、金とか朴とか李が
そのまま氏になるということです。つまり、日本人のような
例えば小泉とか安倍などの氏に しなくても よかったのです。
ちなみに設定創氏とは自分で自分の氏を選び登録することです。
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黄文雄
1938年、台湾生まれ。1964年、来日。
早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。
著書『中国之没落』など多数。
創氏改名の きっかけとなった理由の一つに、満州へ移住したCho/sen人からの要求や嘆願があったことは、あまり知られていない。満州は元々、清国を開いた満州人の祖国であり、清朝時代には 漢人(中国人)の入植が禁じられていた。19世紀未には 入植が解禁されたが、その少し前から満鮮国境にいたCho/sen農民は、徐々に 入植を始めていた。それが 最も多かったのは間島地方である。
入植解禁前に漢人は 既に満州に入って盗伐や盗墾を行っていたが、Cho/sen人は盗伐者たちに雇われて働き、段々と 定着農民となっていった。Cho/sen人の多くが水田、漢人の多くは旱田耕作という棲み分けはあったが、しばしば衝突もあった。最も大きな衝突は「万宝山事件」であり、それをきっかけに韓国人は SEOULをはじめとする大都市の中国人へ報復虐殺を行った。
日韓合併の当時、満州には約150万のCho/sen人がいた。彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。やがてCho/sen人狩りが起こる。Cho/sen人をもっとも嫌ったのは張作霖で、「満州にはCho/sen人を一人も入れさせない」と息巻いていたほどである。このCho/sen人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。
このような歴史背景下で、Cho/sen人にとって唯一の救いは、当時 5強の一つであった大日本帝国の臣民となることだった。
唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、Cho/sen人たちは 進んで創氏改名を強く要求したのである。日本こそが、Cho/sen人にとって合邦国家の民族の誇りであり、中国人の跋扈に対抗できる ただ一つの勢力だったのだ。だから満州事変以後、関東軍が関東州から北上してきたのを 最も喜んだのはCho/sen人だった。
彼らは いたるところで 日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人として集まって 日本国民としての誇りと意識を強く持っていた。日本国民になれば、漢人に いじめられることもない。満州事変以後は、農民だけでなく、反日ゲリラも 次々と武器を棄て日本側へと転向したのだ。
満州国 建国当初、協和会に参加していたCho/sen人名士の一人 趙悦は、「民族協和運動の進展とCho/sen民族、五族協和の理想実現」という一文を、「大満蒙新聞」と「全満Cho/sen人民連合会会報」(16号、1933年8月)に載せた。その中で「在満州の各民族は支那国民党の国家主義的扇動によって、激しく対立し、各民族の軋轢は日増しに増大している。ことにCho/sen民族に対する圧迫や迫害は言語道断であった」と指摘している。在満の150万人のCho/sen人にとって、「創氏改名」は迫害を避ける唯一の方法であり、藁をも掴む心情だったことだろう。
よって、皇軍(関東軍)の北満への出動は、在満Cho/sen人にとって 積極的な救済保護であり、兵匪、満州軍閥の圧迫からの解放だと見るべきだ。満州事変後、Cho/sen人の間で、日本国籍を有し「日本帝国の臣民」として、その権利と義務を果たすべきだとの議論が起こったという事実もある。そして、「帝国臣民」になりたいという声が高くなり、漢人の差別に逆襲するために「創氏改名」を強く要求した。