日本の貝殻とユダヤ人 | 14421|共感67
1439730| JAPANzeami | 2006.05.25 12:27:03
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イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。
彼らは、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。
家族のうち、子どもが11人。その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。
しかし、学校では成績が非常に悪く、学校で悪い点ばかりとっていた。

この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。
1871年、18歳でロンドンから一人で船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。
彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた


彼は、5ポンド以外には、何も持っていなかった。
5ポンドといえば、およそ今日の5万円くらい。
日本には、知人もいないし、住む家もなかった。
また、この時代には、日本にいる外国人は、横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。
彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人の小屋に住み、初めの数日を過ごした。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。
よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。

彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。
そして、貝を拾い始め、加工して父親のもとに送った。
父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。


やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。
ロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。

そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。

この青年の名前はマーカス・サミュエル(1853-1927、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。

※1833年(天宝4年)に同名のマーカス・サミュエル(父)がロンドンに東洋の貝殻を用いた骨董・装飾品店を開店しています。手押し車というのは、創業前の逸話の部類でしょう。※

 

Marcus Samuel, 1st Viscount Bearsted (November 5, 1853 - January 17, 1927)

初代バーステッド子爵 マーカス・サミュエル

 


サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。
輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。
また、インドネシアで使用されない資源であった、石油の売り先を必要としていた。
そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。

この商売もまた非常に成功した。

石油をインドネシアから日本までの運送方法は問題だった。
初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。
それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやり、運賃が高くなった。


サミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。
そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。
サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。
(ミュレックス:アッキ貝)

彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。

彼自身、このことについては、次のように書き残している。

「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」

 

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。

そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、
日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。
日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、
アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

 

 
勲一等旭日大綬章
 

一方、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、
ついにこの会社を売らなければならなくなった。
当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエル(ユダヤ人)が石油を供給していたからだ。

サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。
その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。
さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。


この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。

 

 

1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。
彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。
こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、
「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。


ちなみに、このイギリス=オランダ連合の
「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」
(英国石油:略称BP)である。

 


サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(Tadasu,Hayashi)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

1902年1月に「日英同盟条約」が結ばれたとはいえ、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。
この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。
続く、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った。

 
 


サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。

 

「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」

 

 

 


 

 


 

 

 

 
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chosun_com|05-24 01:13
初めて知った、こういう話を知れば自然に愛国心が湧くようになると思う。
 → zeami|05-24 01:57
日本を愛してくれる外国人がいる。そういった期待にそえるように少しがんばってみる、という程度でもいいと思うの。
mikee|05-24 01:16
いい話。友達のユダヤ系アメリカ人に顔が似ている。
 → mikee|05-24 01:37
推薦本日NO1
ppsh43|05-24 01:21
シェルマークにこんな裏話があったとは・・・。 勉強になります。
fixx|05-24 01:22
推薦
nihonura|05-24 15:00
感動しました。勉強になります。
koreag8|05-24 15:02
推薦しました!
candyroro|05-24 15:06
高潔な日本人に生まれたことを誇りに思います
nexes|05-24 21:54
凄く感動した。いい話を教えてくれてありがとう。
peek|05-25 00:10
推薦&勝手に宣伝しますた!
uyobou|05-25 10:25
http://www.shell.co.jp/shell/business/history/index.html きちんと検証しましょう。お隣の事笑えませんよ。
 → zeami|05-25 12:52
指摘のページですが、1833年と1876年の記述が適切ではありません。1833年のマーカス・サミュエルとマーカス・サミュエル子爵 (1853-1927)の事業が混同されている為です。シェルマークの起案は子爵の方です。同じ創業一族の貿易事業とはいえ、父方事業と子爵事業の会社の連続性を知ることができないため子爵のシェルトレーディングからの記述のほうを採りました。wiki-jpとenを見比べると、日本における二人のマーカスについての混同を見ることができます。
 → zeami|05-25 13:05
閲覧数が多いと思ったら2chに書込があったんですね。2chのご指摘の通り、この文書のおおもとは、来歴いかがわしいユダヤ人本、と『赤い盾』です。
zeami|05-25 12:53
1886年の誤記に関しては、私が使用した文献(33歳)と社史(23歳)と横浜の郷土史(23歳)の記述があるので1876年に修正します。
tylant|02-13 14:12
なのにアメリカ民主党を支援するユダヤ人はなぜ反日なのだろうか?
乞食みたいな家に滞納している臨時政府 [8]
- 日本の貝殻とユダヤ人 [16]
日本のデモクラシーに対して考えてボアッスブダ. [1]