古朝鮮の歴史(古朝鮮史)
徐栄洙(檀国大学校 史学科 教授)
T. 端書き
古朝鮮は世界の有数な古代文明国家と同じく初期には ‘阿斯逹’と呼ばれられた 城邑国家から出発して中国の 統一帝国と正面から対立した ‘大古朝鮮王国’ 時代に発展した生動する具体的な実体だ. ただ現在古朝鮮の指標文化に挙論される琵琶形銅剣やアメリカ松里型土器の場合その分布範囲が広くて地域的性格が違ってそれが文化圏なのか政治的繩張認知の問題は明確な結論に到逹することができない. したがって古朝鮮彊域の大きさと範囲は今からの研究によっていると言っても良いだろう.
古朝鮮に関する文献史料が大部分 古朝鮮と中国との対外関係に関する史料なので, 最近の 考古学的 の調査と研究成果を念頭に置いて現存する対外関係史料を網羅再構成して見たら, 役で一番多い論難を呼んで来た古朝鮮の中心位置や彊域など歴史地理に関する問題はもちろんひいては古朝鮮が周辺世界に対応して国家を形成, 発展させて行く過程で見せてくれたより躍動的な高まり船上を尋ねることができることで期待する./P>
U. 国家形成期の対外関係
ここで私たちは古朝鮮に対する新しい時代仕分けの必要性を感じる. 今日の時代仕分けは概してその時代の社会発展段階によって区分するのが普通だ. 私たちは古朝鮮の社会発展段階に関する具体的資料をたくさん持っていることができない. しかし幸いにも私たちは古朝鮮を治めた軍装の呼称に対する少しの資料を持っている. すなわち古朝鮮のワングホが時代によって 檀君王倹(空賃金)→韓(限り・間)→王(中国式ワングホ)に移り変わりされられたことが分かる. 君長号がその社会の性格を皆現わすことと思うことはできないが, 古代社会の場合ある程度はその社会の性格を代弁してくれることで見ても良いだろう.
これを土台で筆者は高まりプレゼントをその社会発展段階によって祭政一致時代の 君長だった檀君王倹が治めた 城邑国家時代(檀君朝鮮)→韓と呼ばれた政治的大軍場が支配した連盟王国時代(韓朝鮮)→中国式ワングホを使った 集権的 領域国家時代(大古朝鮮=古朝鮮王国)に時代仕分けすることを提案した事がある(西営数 1988).
ここでもこのような時代仕分けによって古朝鮮の対外関係を檀君朝鮮, 一組船, 古朝鮮王国前期, 古朝鮮王国後期に分けてよく見る事にする./P>
1. 檀君朝鮮の対外関係と中心位置
檀君朝鮮が我が国の最初の国家という事実は誰でも認めるはずや, 私たちは檀君朝鮮の成立時期や位置及び国家の性格に対して明快な説明を割ほどの資料を持っていることができない.
三国遺事に積まれている檀君神話の内容を再吟味して見ればおもしろい事実を見つけることができる. 箕子の 東来と檀君朝鮮が何回も都邑を移しているという事実がそれだ. 三国有史に引用された 古記には
“檀君王倹が 唐高(尭)が即位してから 50年の京人年に 平壌城に都邑を決めて初めて国号を朝鮮と呼んだ. 以後 白岳山 阿斯逹で都邑を移して… 1,500年間国を治めてから, 周武王が即位した奇妙年に 箕子を朝鮮に封ずると檀君は 蔵唐京で移したが後でまた阿斯逹に帰って来て 山神になった.”
三国遺事圏1, 紀異便古朝鮮.
と言ったし, 帝王韻紀にも
“殷国 武丁 8年に檀君が阿斯逹に入って行って山神になった.”
帝王韻記 巻下 候鳥船.
は記録が見える.
三国遺事と 帝王韻紀の記録で見て檀君朝鮮の都邑移動は河川の氾濫のためと言うよりは 箕子を含めた 殷周勢力の 東進など周辺勢力と密接な関連があることを分かる.
三国有史に引用された 古記の ‘株武王が記者を朝鮮に封じた.’は記録はもちろん中国史料を引用したことだが中国側記録とは違い記者の東莱にもかかわらず檀君が死なないで 蔵唐京で移したという事実が注目される.
考古学上檀君朝鮮が存在した時期 遼河流域の青銅器文化の変化をよく見る必要がある. 韓半島の古代文化と直接的な継勝関係にある 内蒙古から 河北を経って 遼東に至る広義の腰下流域文化圏は地域的性格上多様な種類の文化が交差しているが, 代表的な初期青銅器文化は 紅山文化で 小河沿文化を通して発展した 夏家店下層文化で 赤峰地帯は B.C.2400年, 夭逝の 豊下文化は B.C.1700年, 搖れ地域は B.C.1500年頃に青銅器時代に進入する農耕民の定着文化だ. 現在この文化の主人公に対する見解は行き違っていて定説がないが, 古朝鮮の背景文化と係わって見て精緻な検討が要望される.
B.C.12-11世紀に入りながら 遼寧地域には恩主青銅器文化が 燕山を経って 大凌河流域で拡散する.特に,デルングハ上流の 喀左県 等地で 箕侯方鼎を含めた銀帯の 銅器がウィヤングザムンファの中で発見されることで見てこれを記者の東莱で見ても良いだろう. しかし, このような文化は下嫁占文化とは違いその文化層が非常に淡くて文化の範囲も腰下を越すことができない限定された地域の文化ですなわち下嫁店上層文化と遼寧地域の 琵琶型銅剣文化に圧倒されることを分かる. 記者国を象徴する気候同期も以後には主に中国ないしである 山東地域で発見されているし, これも大部分春秋時代末期には消滅する.
このような現象は二つに解釈されることができる. 第一, 文化の範囲が限定されているということはこの地域にイ・スハン恩主勢力が腰下船を境界で土着勢力に阻止されてこれ以上勢力を確張することができなかったことを意味する. 当時腰下移動の土着勢力に非情される住民集団中一番早い時期に登場する種族は 朝鮮 及び 肅愼なのに, 現存する文献史料による一檀君朝鮮はその中にも一番有力な政治勢力だったと思うことができる. 第二, 文化層が淡いということはこの地域に進出した勢力の尊属期間が短いということを意味して, 気候同期が記者国の象徴ならこのような記者国は結局土着勢力に滞って中国ないしで後退して遅くても春秋末期には消滅したことを意味する.BR> 今まで検討した事実を総合すれば恩主交代期に記者を含めた銀族の一部が演算からデルングハユヨック一帯に進出して日時間尊属したことは事実だが, 久しくなくて檀君朝鮮を含めた土着勢力の力強いやらかす受けて結局中国ないしで後退して中国の他の都市国家と同じく遅くても春秋で全国への移行期には消滅したことで見ることが正しいだろう.
したがってデルングハ流域に記者国が実在したことは事実と言ってもこれがすぐ檀君朝鮮を取り替えた政治勢力を意味することではなくて, 古記の ‘檀君が枚当たり頃で移してからまた阿斯逹に帰って来た.’は記録はすぐ記者国の消滅以後にも檀君朝鮮が尊属した事実を反映したことで見られる.
檀君朝鮮に関するほとんど唯一の文献史料と言える檀君神話の内容を虚心坦懐な心に再吟味して見れば, 檀君王倹が治めた阿斯逹社会は新石器文化伝統を強く持った初期青銅器社会であり, 不足連盟形態を帯びた一種の 神政国家に理解される. このような初期国家の成立連帯を正確につけないことは難しい事で過去には檀君朝鮮の中心を大同江流域に残した結果韓半島の青銅器時代上限線が B..10世紀を過ぎることができなかったわけに檀君神話に反映された古朝鮮の 建国紀年を立証することができなかった.
最近には古朝鮮の初期中心地を腰下流域で見る見解が有力になりながらどの位檀君朝鮮の成立年代を推正することができるようになったが, 下嫁店下層文化自体を古朝鮮文化で見て檀君朝鮮の建国年代を溯及しなければならないというお正月が申し立てられて(盛り菌 1992) 注目される. しかし, 現在としては下嫁店下層文化の場合その性格や担当住民の 族源が明らかではなくてその文化圏の範囲皆を古朝鮮の政治権だと見るには無理がある.
ただこのような文化が檀君朝鮮の国家形成と密接な関連を持つという点は充分に考慮されなければならないと思う. すなわち, 夭逝地域の場合洪散文化末期にもう 神殿建築が現われて, これを受け継いだ下嫁店下層文化初期には ‘古文化古城古国’ 段階に進入する(蘇秉〓 1986). このような点で推し量って搖れ地域にも下嫁占文化と竝行して青銅器文化が開化する B.C.1500ニョンギには都市国家形態の初期国家が出現したであろう考えられて, 檀君朝鮮の建国年代もより精緻に見直しにならなければならないでしょう.
対外関係詞の立場(入場)から今まで検討した内容を再解釈して見れば, 古朝鮮の中で最初の国家である檀君朝鮮は洪散文化で発展した下嫁店下層文化を背景にして腰下中流役の特定の地域, すなわち後代に朝鮮と呼ばれた ‘阿斯逹’を中心に至った時期から正月国家的性格を持った都市国家を形成したが, B..1100年を前後して記者を含めた恩主勢力がデルングハユヨックに登場するによってこれらと対立抗争しながら都邑を移したりしたが, 恩主勢力のトンジンを腰下船で沮止して記者国の消滅以後にはまたGotoである阿斯逹に帰って来て尊属したという事実が分かる.
ここで私たちは古朝鮮の初期中心地が腰下流域の青銅器文化と密接な関連があることを分かることができるだけでなく, 当時の古朝鮮社会が中原の先進文明と政治的に対立した歴史的事実を通じて間接的でも古朝鮮の成長姿をうかがうことができたし今後めどがはっきりしないだけだった古朝鮮の建国紀年に関する糸口もどの位取ることができるようになった.
2. 韓朝鮮の領域と対外関係
古朝鮮の大衆関係が比較的客観的な文献史料で最初に確認されることはB.C. 9世紀頃だ. これを確認するために先に 遼寧地域の文化的変動と檀君朝鮮を受け継いだ一組船の登場に対してよく見る必要がある.
B.C. 10-9世紀に至ると遼寧地域の青銅器文化は恩主青銅器文化を圧倒する下嫁点状層文化と遼寧琵琶形銅剣文化に変わるようになる.(イガングスング 1979 ; 林病態 1991)このような現象が下嫁店下層文化を受け継いだ自生的文化の発展を意味するのか, 新しい民族移動の余波による文化的入れ替えなのか速断することができないようだ発展した青銅器文化の登場なことが明らかだ./P>
これと合わせて文献史料にも 韓侯という名称を持った政治勢力が登場する. B.C. 8‾9世紀頃である 周 宣王大義著作と知られた 詩経 韓奕便によれば ’燕国近くにイェゾックとメックゾックを治める 韓侯があった(金上記 1948)‘と言う. ここでの 韓と言う(のは)政治的大軍場を意味するアルタでたいてい(汗)・間(干)と通じる言葉に理解されている. 中国人たちがこれを 姓で見誤って 韓侯 または 韓氏で記録したことであり, 後代には民族名称で発展した(西営数 1992). ハンフを中国の諸侯に見る見解もあるが(許倬雲 1982), 市警の内容で見て古朝鮮の首長で見ることが私たちの学界の一般的見解だ.
檀君が制定一致時代の軍装呼称に比べてハンフはより力強い君主圏を表現した名称で, 当時の古朝鮮は 檀君朝鮮が 檀君と言う(のは) 君長 呼称によって規定されるところのように 韓朝鮮と呼ぶのが正しいだろう. 一組船の登場が腰下船を境界で恩主文化と対立した檀君朝鮮の夭逝地域への発展を意味するのか新しい民族移動の余波によったか速断することができないが, この時代の指標文化である琵琶形銅剣文化の分布と発展過程を通じてよく見れば, これらは南側では恩主文化と西の方では遊牧民族であるカラスク青銅器文化の影響を受けながら 大凌河流域への移動期に政治的統合を成して, 遅くとも B..7世紀頃には朝鮮地域に定着して名実共に朝鮮王国で成長して以後中国文献に頻繁に登場していることを分かる.
軍装呼称の変化と芸脈を一緒に統治したという記録で見て当時の一組船は都市国家段階を脱して連盟王国で発展していたであろう推定される. 注目されることは市警の内容に当時の一組船が株及び年間と貿易を含めた外交的交渉をしていたという点だ. 後代の史料ではあるが 逸周書 王会便にもこれより先立って 周 成王台に古朝鮮の 構成不足だった 穢人の 来朝記事が見える( 一周で圏7, ワングフェ第59). このような一連の史料に見える中原帝国との外交的交渉事実はすぐ琵琶形銅剣文化を土台にした古朝鮮の国家的成長を反映することだと考えられる.
V. 古朝鮮の発展と 対中関係の展開
1. 古朝鮮王国と 斉の貿易関係
古朝鮮は民族移動期から中国の銀, 与えるもちろん北方遊牧民族と対立, 交渉しながら国家を形成, 発展したであろう推定されるが, 前でよく見たバワのように現存する断片的な文献史料ではその全貌を察することは難しい.
春秋戦国時代に入って行きながら古朝鮮はより具体的な姿を現わす.管子を含めた 戦国策・山海経 など 先秦時代の文献には断片的ではあるが従来とは違い国家としての朝鮮の名称と位置に関する記録たちが見え始める. これは古朝鮮の発展による中国との交渉が活発になった結果と考えられる.
特にB.C. 7世紀頃の事実を伝える貫子には ‘朝鮮’という名称が最初に出るだけでなく, 朝鮮のムンピを 7台交易品で持っていて, 朝鮮の特産物である柄あるけだもの皮(文皮)と毛裏を後漢値段で買ってくれたら腕千里落ちた朝鮮でも 来朝すると言って, 古朝鮮が制と虎皮貿易をしていることを分かる. 時期的には後代ではあるが詐欺 貨食列伝にも軟餌ジンボン, 朝鮮などと交易することで貿易の利益を得たという記録が見えて, 古朝鮮地域に明度前, エピソード前, 布廛など多量の中国貨幤が発見される点で見て(リスンジン, 張株協 1973) 当時の古朝鮮が年間, 私のなどと陸路または海路を通じて活発な交渉をしたことを分かる.
考古学籍でも遼寧の琵琶形銅剣文化で中原の農耕文化や山東地域の東夷係の文化と頻繁な接触を一現象たちが見えているのに, このような文化交流がよく思うように中国からの一方的な文化流入を意味することではない.山東北部から出る支石墓や河北一帯で出土される琵琶形銅剣などは遼寧地域より時期的に後代の物でこれは古朝鮮の中原との貿易など交渉の結果に起因することと考えられる.(西営数 1992) 陸路または海路を通じて遠距離交易を頻繁にさせたということは当時の古朝鮮がもう先に進んだ王国段階に入ったと見ても良いだろう.
2. 古朝鮮王国の発展と 対 周燕外交の性格
貿易を含めた平和的交渉関係を維持した古朝鮮と中原帝国との関係は北東アジアに鉄器文化が拡散する戦国時代に入って行きながら尖鋭な対立関係に転換された. ウィリャックによれば
“軟餌チングワングすると朝鮮の後も自らワングホを称して軍事を起こして年間を打って株王室を奉じようとしたが, 大夫 礼が塩加減をするのでこれを中止して例を派遣して年間を説得したら年度戦争を止めて朝鮮を侵略しなかった.”
三国志 巻30, 魏書東夷伝 韓伝 所引 魏略 “朝鮮侯見周衰,燕自尊為王,欲東略地, 朝鮮侯亦自称為王, 欲興兵逆撃燕以尊周室, 其大夫礼諌之, 乃止. 使礼西説燕,燕止之, 不攻.”
と言う. 株王室を奉ずるために年間を打とうと思ったということはファイグァンによる後代の史料的潤色とするはずだが, ここで古朝鮮が全国 7はいのひとつの年間と角逐するほどに成長していたことを分かって株王室でもこれを認めていたという事実が注目される. このような時期に至れば古朝鮮の彊域範囲がどの位ドルオナなのなって古朝鮮の対外交渉もより活発に展開されたことと考えられる.
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