戸井田議員をはじめとした歴史議連(自民党歴史教育議連)の活動により、改めて脚光を浴びた国際連盟第100回理事会顧維鈞演説。
この演説に関して、歪曲された歴史を正す立場を同じくする者同士の間で、これが中国政府による「南京大虐殺」を非難するものだったかどうかについて意見の対立も生じているようです。
しかし私は、この演説が所詮はプロパガンダ目的の嘘であり、国際連盟、国際社会はこの顧維鈞の演説にも関らず、「南京大虐殺」を事実と認めなかったという事こそが重要だと考えます。
資科41
添付書類
一九三八年二月一日付
国際連盟理事会第六会議議事録
内容――中国政府の声明
議長による決議案(C・六九/一九三八/七)の提示に続き、顧維鈞氏の演説――
ただいま読み上げられた決議案を拝聴しました。本決議案に関する中国政府の見解を表明する前に、最近数か月間に起こった出来事を述べ、現下で連盟理事会が何をなし得るか、我が国の切実な要求は何か、についての中国政府の見解を申し述べたいと思います。
第一八回連盟総会が、昨年一〇月六日、日本の中国侵攻にたいする中国政府の抗議に関連して決議を採択した後も、日本軍は中国領土への無慈悲な侵略を続け、これをいっそう激化させています。華北の日本軍は黄河を渡り、聖なる山東省の都であり、孔子の生地でもある済南を占領しました。華中では一一月、中国抵抗軍が、陸海空が一体となった日本軍の激烈な攻撃にたいして三か月に及ぶ勇敢な抵抗をおこなったすえ、上海地方からの撤退を余儀なくされました。南京に脅威が迫ったため、中国政府は、首都を海岸から一千マイル離れた重慶に移すことを強いられました。日本軍が漢口と南京にたいして加えた執拗な攻撃の結果、一二月には、この二つの重要な都市と最も肥沃で人口の多い長江流域が日本軍占領下に入りました。
日本海軍は、福建省および広東省沿岸にある多くの中国の島嶼を制圧し、広東と華南にたいする侵略の試みを繰り返しています。
日本軍航空隊は、国際社会の非難の合唱を無視して無防備な都市にたいして無差別爆撃を続け、中国民間人の大量殺戮をおこなっています。広範囲にわたる再三の空襲が、西北の甘粛省から南西の広西省まで一七をこえる省の人口密集地帯に加えられ、すさまじい犠牲者を出していますが、その大半は女性と子どもであります。
さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に打ちひしがれた民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与えています。あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。このリポートは一二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものであります。特派員は簡潔な言葉で綴っています。「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、運行される壮健な男たち」。
日本兵が南京と漢口でおこなった残虐行為についての信頼できるもうひとつの記録は、米国人の教授と外交使節団による報告と手紙にもとづくもので、一九三八年一月二八日の『デイリー・テレグラフ』紙と『モーニング・ポスト』紙に掲載されています。南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。
金陵大学緊急委員会の米国人議長は一九三七年一二月一四日、日本大使館に書簡を送り、「私たちはあなた方にたいして、日本軍と日本帝国の名誉のために、そしてあなた方自身の妻、娘、姉妹のために、あなた方の兵士から南京市民の家族を守っていただけるよう強く要請します」と書きました。しかし、「この声明にもかかわらず、残虐行為は野放しで続いた」と特派員は書き記しています。
〔以下、略〕
(石田勇治編集・翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』より引用)
顧演説の内容は次の通りである。
「議長、私が皆様の前で決議案についての中国政府の見解を表明する前に、国際連盟理事会がこの状況にあってなしうること、また私どもがぜひ希望することに関して、ここ数ヵ月間に発生した変化の状況を私が皆様に説明することをお認めいただけると私は信じます」[引用者中略]
「日本軍航空隊は、世界各国一致の非難を無視して無防備都市の無差別爆撃を継続し、中国市民の大量虐殺を行っています。(略)しかもその大部分は婦女子です。また、軍規厳正を常に誇りとしていた日本軍が占領した地域での残虐かつ野蛮な行為は戦争に巻き込まれた人々の苦しみと困難を増幅し、良識と人間性の感覚に衝撃を与えました
[引用者中略]
その多くの例が中立的な目撃者によって報道され、外国の新聞に公表されていますので、その証拠をここで示す必要もほとんどありません。
説明としては、ニューヨーク・タイムズ紙の特派員の描写を引用すれば十分でしょう。これは日本軍が南京を占領下の同市で起きた恐怖の光景で、1937年12月20日にロンドンのタイムズ紙に報道されたものです。記者は言葉少なくこう述べています。『大略奪、婦女暴行、市民虐殺、住居強制立ち退き、捕虜の大量処刑、頑健者には焼き印』
[引用者中略]
日本軍が南京と杭州で犯した残虐行為につき、アメリカの大学教授や宣教師たちの報告に基づいた信頼のおける記事がもうひとつ。1938年1月28日付のデイリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙にも掲載されています。
日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は20000人と推定され、また若い娘を含む何千という女性が陵辱されました。(略)日本陸海軍およびその他いくつかの英米両国の船舶への砲撃、駐南京米国大使館館員への襲撃、それにいくつかの欧米諸国の国旗に対する侮辱などが挙げられます。これらの事件は、『暴行、謝罪また暴行』という日本の政策に見られる欧米諸国への軽視であるばかりでなく、極東における欧米諸国の重要な権益の存在そのものを巻き込んだ重大な問題であります。
これは、『中立国の権利および利益の尊重』を保障するという日本の宣伝の重要性に対して、世界の眼を荒々しくかつ苦悩を持って開かせることになりました」
[引用者中略]
「日本による中国の軍事占領の強化とその地域の拡大は、その支配征服という悪意ある政策を明らかにしています。(略)これは中国の征服、アジアの支配および最終的には世界の支配を目指したプログラムの概要を記載した田中上奏文に明らかになっています。(略)田中上奏文は、中国に対する日本の継続的侵略行為のみならず、日本軍が中国における第三国の外国公館、外国の財産、および民間人に加える用意周到な攻撃を理解するに必要な背景になっています。(略)中国は、規約第10条、第11条および第17条に基づき連盟に提訴しました。連盟の忠実かつ献身的な加盟国として自国の領土の保全および政治的独立に対する外部からの侵略に対する保障を求める権利を十分に有します。
この3か条は、それだけで侵略国を抑制し、侵略の犠牲となった国を支援するための広範囲の行動を認めています。中国政府は、そのため、この義務を遂行するために必要な措置を取ることを理事会に対し、要請します」
[引用者中略]
「連盟に対する信頼を回復しその権威を取り戻すような効果的な措置をとることが義務でもあり機会でもあることを、中国政府は心から信じます。極東における破廉恥な侵略に対処するにあたり、断固とした建設的な政策を採用することは、世界の平和愛好国家の何億人という人々の承認と支持を受けるでしょう」
そして、顧代表は、日本製商品の世界的なボイコットを組織的に実行することを求め、最後まで、日本を制裁することは、「世界的な重要性」とか、「欧州の平和の要因」などと述べて、「日本の対中侵略が野放しに放置されているかぎり、欧州の平和も危機に瀕し、欧州全体の和解も実現が難しくなります」と恫喝まがいの弁説をふるい、連盟の行動を求めて終了したのである。(※連盟議事録の翻訳は、国会衆議院翻訳センター)
(『別冊正論Extra.08』西川京子著『「南京2万人」さえ否定した国際連盟議事録の中身』より抜粋)
顧維鈞演説に関する二つの文献を引用しました。
両者の間には重大な相違もあります。特に、西川議員の論文において顧維鈞演説が偽書・田中上奏文を根拠としていることが明らかにされたのは重要な点だと思います。(この事実で顧維鈞演説の出鱈目さが一層際立ちます)
日本製品ボイコットが顧維鈞の目的であったこともこの論文で知りました。それ以外にも、『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』では日本兵による残虐行為の現場として南京と漢口が挙げられているのに対し、西川論文では南京と杭州になっています。漢口占領は1938年10月のことで、1938年2月の第100回理事会の時点では武漢作戦も未着手ですから、おそらく「南京と杭州」が正解でしょう。
しかしここでは、両者に共通する「南京市民虐殺2万人」について検証してみます。
1.情報源
両文献における、「南京虐殺」に関する情報源は次の通りです。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 |
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『「南京2万人」さえ否定した国際連盟議事録の中身』 |
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2.原データ
次に、「1938年1月28日付のデイリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙」ではなく、情報源として挙げられた人々による原データを見てみることにします。
ニューヨーク・タイムズ特派員、米国人教授、外交使節、宣教師の記事・記録のうち、被殺者2万人について私が確認できたものは二つです。
(1) ニューヨーク・タイムズ
上海十二月二十二日発
ニューヨーク・タイムズ宛航空便
南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。
近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の殲滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。・・・・
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 南京事件調査研究会編訳)
(2) エスピー報告
・・・・城内の中国兵を「掃討」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。市内の通りや建物は隈なく捜索され、兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。正確な数は不明だが、少なくとも二万人がこのようにして殺害されたものと思われる。兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。・・・・
(『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 南京事件調査研究会編訳)
エスピー報告に述べられているような、「兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった」という事実はありません。それが十分であったかどうかについては、別の機会に論じることとします。
ここで重要な点は、被殺者2万人が兵士として処刑された人数だということです。ダーディンもエスピーも、市民2万人が虐殺されたとは言っていません。ダーディンの記事においては処刑された兵士の数、エスピー報告においては便衣兵として摘出され処刑された人数です。
デイリーテレグラフとモーニングポストが、初心者の伝言ゲームよろしく兵士の処刑を市民の虐殺にすり替えたのか、それとも顧維鈞が両紙の記事を改竄したのか、いずれにしても「南京市民2万人虐殺」はニューヨークタイムズ特派員の記事でもなければ外交使節の報告でもありません。
なお、米国人の教授でかつ宣教師であるベイツは、市民被殺者1万2千人という数字をでっち上げています。(スマイス報告欄外)
3.国際連盟の認識
南京には1月上旬から各国の外交団が復帰し、1月中旬には国際委員会による無線の使用が確認されています。(『南京安全地帯の記録』1月15日第42号文書)
日本軍占領下の南京は決して情報封鎖地域などではなく、各国は自国の外交官から情報を入手できる状態でした。
故に上述の如く、顧維鈞の演説中、南京について言及された部分が事実で無いことも、当然分かっていたでしょう。
その結果が、南京(大)虐殺を非難した国際連盟決議が皆無という事実です。
この点について、笠原十九司は『南京大虐殺否定論13のウソ』(南京事件調査研究会 柏書房)の中で
「・・・・南京事件という一つの不法事件よりももっと根本的な日本の中国侵略戦争そのものが連盟総会で厳しく非難、抗議されているのを問題にすることもなく、非難決議に南京虐殺の一行がないと得意然としていう、田中氏ら南京大虐殺否定派の国際感覚のお粗末さには、慄然とする。世界は日本軍が南京を攻撃しようとしていることを抗議、非難したのである。・・・・」
と、まるで日本の軍事行動そのものを避難する決議が為されていたから個別の違法行為については採り上げられなかったとでも言いたげな屁理屈を並べ立てていますが、第100回理事会の後の、1938年5月の第101回理事会において、山東戦線における日本軍の毒ガス使用に対する非難決議という個別の戦争犯罪(勿論冤罪です)に関する非難決議が行われた事実によって、論理的に余りにもお粗末であることが簡単に分かります。この笠原理論(?)のお粗末さには、慄然とするというより寧ろ、笑えます。
市民虐殺は最も重大な戦争犯罪です。間違いなく毒ガスの使用に匹敵し、おそらくは犯罪性においてこれを上回ります。ハーグ空戦規則が遂に成立せず、犯罪性が確立しなかった軍事目標に対する遠距離爆撃及びこれに市民が巻き込まれることよりも、市民を標的とした2万人の大量虐殺は遥かに重大な犯罪行為です。
しかし、第101回理事会においては毒ガス使用と並んで空爆に関する非難が再度決議されていますが、南京における市民殺傷に関する非難決議は採択されていません。
国際社会は当時、中国代表が公式の国際会議において部分的にしろ言及したにもかかわらず、南京(大)虐殺を事実と認めませんでした。
これこそが最も重要な事実ではないでしょうか。