« 波動という現実的視点から | トップページ

にせかがくかぁ~

よく、最近ニセ科学という言葉を耳にするようになった。言葉が水の結晶に影響する、または教育に使うのは科学的根拠がどうのってやつでしょうか。私はもちろん科学者でもないし、知識も多くないが、人は感じることができる与えられたものを持っている。そういうものを大切にしたいなと思う。すべて化学というもの正しいか間違っているかは判断できないと思う。それはやはり人間的視点でものを見てしまうのではないかとも思う。

神様は科学で証明できるか?科学的証明ができなければいないという話にもなるのではないでしょうか。私は宗教云々ではなくとも神という存在を信じているというか知っている。目で見たからとか現れたというものではないが、経験の中で感じてきたこと心の根底の感じるものが嘘をつけないという感覚がただ在るということなのです。昔は伝説的物語で子供を教育することは普通だったのではないでしょうか。しかし最近はそういった迷信的なものはオカルトという扱いにされているようだ。

ネットで見てると科学で実証されない、解明できない商品サービスを叩いているように見える。確かに偽証している悪徳なものもあるでしょう。ただ心から良かれと思ってされている方々に悪いと思う。そのような方々そしてそのサービスに納得しているお客様を信者的表現を使っている。目に見えない世界をすべて一種の宗教的信者に例えてひとくくりにしているように見える。そのように例えるならば科学崇拝主義者、唯物崇拝主義者、無信仰という名の形の変わった宗教という言い方も出てくるのではないか。またその中間視点もあっても良いと思うし。どの位置にいても良いと思う。

もし自分の満足感のために互いをたたき合うのは悲しいことだと思う。違う立場同志でも心広く見ることができれば、ぎくしゃくしない世界ができるのではないでしょうか。性格が違うように個々のカラーが違うように国の文化が違うように違う考えの人たちを心広く見ることができればと思います。

|

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事