このご時勢に幕吏などやるものではない。そう思いつつ今日も柔らかい椅子に座り、山積みになった書類と睨めっこしながら判を押すだけの毎日を繰り返している。一々書類に目を通しきれる筈もなく、流し読んでは判を押すことのみを繰り返していると自然と体が固まるもので、判を押す体勢で固まってきたころにひらりと一枚の書類が落ちた。視線を書類から移すこともなく、「拾って」と呟いたけれど、無言の返事が返ってくればようやく顔を上げた。案の定誰一人いないようで、いささか大きな溜め息をつきながらそれを拾う。ふと目に入ったその書面には見慣れた名前が記載されていてすこし笑ってしまったが、名前の横にはテロだの殺害だのと凶悪な文字ばかりが羅列しているのを見れば笑いも引っ込んだ。とは言いつつも、高杉晋助やら、桂小太郎やらと名前を見るたびに懐かしいと感じてしまうのは事実であって。そこに坂田銀時の名前がないことに安堵しながら、書類を机の上に置き再び椅子へと座りなおした。瞬間、タイミングを見計らったような扉のノック音に顔を顰めたが、「どうぞ」とぶっきらぼうに呟けばにべもなく視線を書面に落とした。「そろそろ逃げたくなってくるんだが、どうだい」と冗談とも本音とも似つかない曖昧な問い掛けをしながらやっと顔を上げると、そこにいたのは懐かしいどころではない名前の持ち主だった。 「なんじゃ、狭っちいところで仕事しとるんじゃのぉ」 「…幕府に不法侵入とはいい度胸だねえ」 「おーおー。恐い顔しなさんな、ちゃあんと手続きはしちょるきに」 アポは取っとるんじゃがの、と時計を指差されれば高速に記憶の糸を辿った。遡ること今朝のころだろうか、そういえば午後から面会云々と秘書が言っていたかもしれない。辰馬といえば、来客用のソファに座り憎たらしいほどの阿呆面でへらへらと笑っていて、徹夜三昧の頭に少々くるものを感じながら動かしていた手を止めた。なにがご用件かな、と言いかけたところで、意図的としか思えぬタイミングで辰馬は言葉を遮った。私の表情が一層厳しくなったことなどそしらぬ風で、何を考えているのやら、さっぱり見当もつかない笑顔で言う。 「ちょいと遊びに行かんか?昔よく行った甘味処があったじゃろ」 「とっくのとうに潰れたよ」 今は天人が住んでる、と続けて目を逸らす。止まっていた手は再び判子を押す作業に戻り、視線も書面に戻せば、ぽん、ぽんと間の抜けた音だけが室内に響いた。黒いもじゃもじゃ頭を後ろ手で掻きながら、特に表情を変えずにいるであろう辰馬を想像して、なんの意味も持たない予想に自嘲する。そんな心境を知ってか知らずか、この国はなんもかんも変わっちょるな、と呟いた辰馬の声色は静かなものだった。私は顔を上げる。その言葉のすぐあとに、「建物も人も」と続けられたから。 「同じ場所にいちょったのに、今はみーんな別の道を歩いちょる」 「そうだね」 「それでも大事なモンは一緒なんじゃろ」 辰馬はなおも笑っている。私は何度か目を瞬かせてから、口元を吊り上げて嗤った。いつしか判子を押す手は止まっていた。歪んだ口元はそのままに席を立ち、机の上に腰掛けて、辰馬を睨む。そうしてから、ふ、と笑って目を伏せた。「あの場にいなかった辰馬には分からないだろうね」と呟くと、すこし間を置いてから「手厳しいにゃあ」と辰馬は笑った。あの場に、松陽先生を知らないおまえには分からないだろうよと、皮肉をたっぷり込めたはずの言葉に辰馬は笑っただけで、ああそれが坂本辰馬という人間だったと思い出す。辰馬は敵意を見せる様子もなく、相変わらずの能天気ぶりで口を開いた。 「そう言われると欲しくなるのが人情ってもんじゃき」 形のないものをどうやって手に入れるつもり、と訊くと、軽快な笑い声で「あっはっは!愚問じゃのぉ」と言いながら、サングラス越しにあの頃の目がちらりと覗いた。そしてさも当たり前のように言い放った、身が竦むような恐ろしい言葉が、あの人懐っこい笑顔のまま言い放たれた瞬間、こいつはいけない、と思った。 「壊してまた作ればいいきに」 |
踏み潰して御仕舞いよ、
踏み潰してお終いよ、
そんな輝かしい物!
そんな輝かしいもの!