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青いムーブメント(24)

    24.

 九〇年七月六日、神戸高塚高校でいわゆる「校門圧死事件」が起きる。
 当時すでに物心ついていた人ならたいてい記憶にある事件だろうが、ネットで検索して、以下のような説明にあたった(多少改稿)。
 ----午前8時半ころ、神戸市西区美賀多台の兵庫県立神戸高塚高校で、登校の門限時刻になったため、担当の教諭(当時39歳)が校門のレール式鉄製門扉(高さ1・2メートル、長さ5メートル)を閉め始めたところ、登校中の生徒約30人が隙間に殺到した。このとき、1年生の女生徒(15歳)が門扉とコンクリートの門柱に挟まれた。そのときの様子を目撃した男子生徒によると、教諭がかなりの勢いで門扉を押して閉め、女生徒が驚いてかがむような姿勢になり、メリッというような音がして女生徒の耳と口から血が噴き出したという。その後、女生徒は病院に運ばれたが、午前10時25分、死亡した。
 ----神戸高塚高校では毎朝、通用門付近に3人の教諭が立ち、登校してくる生徒らの指導にあたっていた。チャイムが鳴るのは午前8時半。その3分前から2人の教諭が門の外でハンドマイクを持ち、「あと3分、2分」「1分しかないぞ。早く走れ」などと時間を知らせ、この声にせかされた生徒らが門内に駆け込む。そして残りの1人の教諭がチャイムが鳴ると同時に門扉を閉めるのである。入ることができなかった生徒には遅刻の罰として、1週400メートルのグラウンドを2周走らされるのである。----
 異常な事件である。不謹慎な云い方になるが、同時にあまりにも滑稽な事件でもある。
 だが、当時の学校状況全体から見て、神戸高塚高校が特殊だったわけではない。むしろ、私の印象ではごく普通の高校で、生徒管理の厳しさの点では「中の上」くらいのレベルだと思う。私の通っていた鹿児島の加治木高校よりは厳しいかもしれないが、福岡の三陽高校ほどではないという程度だろう。要するに、このような異常さが「普通」であるくらい、当時の日本の学校状況全体が異常だったのである(もっとも現在でも、地方においてはさほど状況は変わっていないのではないかと私は疑っている)。
 事件の報道に接して、正直なところ、私は死亡した女生徒に対してまったく同情できなかった。
 それは、すでに私たち一派(前年分裂事件以後のDPクラブ残党や全国高校生会議のラジカル勢)の反「管理教育」運動が、単に学校当局や個々の「管理派教師」を批判するという水準から、大きく逸脱し始めていたせいでもある。私たちは、「闘わない生徒」こそが「管理教育」を支えていると直観し、その認識を断片的ながらも口に出し始めていた。
 保坂展人の青生舎を含め、従来の左翼的な教育市民運動は、女生徒を「管理教育の犠牲者」と規定し、この「敵失」につけこんで運動の一層の高まりを画策したが、私たちはそういう路線には乗れないと反射的に感じた。
 少なくとも私は、前述のとおり「殺された」女生徒に何の同情もしなかった。生徒指導室に連れ込まれて暴力教師に殴り殺されたとかいうならまだしも、このケースはほとんど「自殺」である。アホらしい「指導」に唯々諾々と従っているから死ぬハメになったのである。「あと一分」などとわめき散らすバカ教師なんか無視して、マイペースでテクテク登校すればいいだけの話である。「グラウンド二周」などの「罰」も単に拒否すればよい。少なくとも、場合によっては退学に追い込まれるくらいに闘っていた同世代である私たちには、「そこまで云う」資格があったと今でも思う。
 この「校門圧死事件」を契機に始まる後期DPクラブの活動の渦中で、私はこんなことを書いている。
 ----これは僕自身の経験に照らしても言えることだが、中高生が学校の中で起ち上がったときに(たとえば風紀検査や校門指導の際に教師に向かって文句を言ったり、あるいは学校新聞に教師批判の記事を書いたり、また校門前でビラをまいたりしたときに)まず最初に直面する問題は、教師による圧力ではなく、他の生徒から浮き上がり、疎外されるということである。いやもちろん教師からの圧力はあるのだが、それは学校のやり方に抗議することを始めた時点で覚悟できていることなのであって、むしろいったん起ち上がった中高生を萎縮させ、潰すのは、周囲の生徒からの疎外感であることがほとんどなのである。----
 私は、「管理教育」に対して、この事件での「加害者」と「被害者」とは共犯関係にあると感じ、また、テレビカメラを向けられるとしきりに理不尽な生徒管理の実態を「批判」してみせる、たまたま「被害者」にならなかった同校の他の生徒たちにもやはり共感できなかった。DPクラブに毎日のようにやってきてはオシャベリして帰ってゆく、醜悪な多数派メンバーどもと、モザイク越しに被害者ぶる彼らの姿とが、私の中で二重映しになっていた。
 事件が起きた時、私は福岡にいたが、何の用事でだったか、数日後に上京し、埼玉の「格納庫」に滞在した。
 その時期たまたま森野里子と鈴原恵美子は格納庫に不在であったように思うが、沢村と渡辺洋一がいた。やはり居合わせた中村智弘を含め、私たちは事件について連日議論した。互いの見解はおおむね一致したが、独自の立場で何らかの行動を起こすべし、という私の提起に、渡辺は乗ってこなかった。おそらく渡辺は、(「被害者」に)「共感できない。よって興味なし」ということだったのだと思う。
 対して私、沢村、中村の三人には、この時点ではまだ漠然とだが、「被害者」を含め同校の生徒たちは敵である、という感覚が芽生えていた。
 結果として渡辺を除く三人が「行動すべし」の線で意気投合、その勢いでビラを作成した。「次はオマエの番だ!」と題し、理不尽な生徒管理に盲従してきた生徒らを口汚く罵倒する内容の、徹頭徹尾「不謹慎」なビラで、しかも全文が悪筆の沢村による手書きだったので、いよいよもって“電波”丸出しの怪しい仕上がりになった。
 当時の私の文章によれば、私がこの時点で自覚していたのは、「生徒に対する憤りを表現するとともに、この異常な状況の中で何とか保たれている高塚高校の『秩序』(引用者註.事件は期末試験初日に起きたが、生徒がとくに何か具体的行動をおこさなかったのはもちろん、試験も予定どおり実施され、生徒も淡々とそれに臨むなど、学校的日常は依然として表層的には何の変化もなく持続していた)を一挙に粉砕して、混乱を生み出し、生徒を怒らせて本音を吐かせる」といった程度の認識だったようだ。
 私たち三人は、ビラが完成するとすぐ、ヒッチハイクで神戸に向かった。
 現場に到着したのは、事件から十日後の、七月十六日の早朝である。
 私たちは、登校する生徒たちに、淡々とビラをまきはじめた。
 騒ぎが起きるまで、そう時間はかからなかった。
 ----ビラ配りを始めて、15分くらい経過したころだろうか、(略)ダダダと足音が聞こえ、振り返ると三、四十人の生徒がビラ配り中の沢村のところへ集団で押し寄せ、
 ----「なんなんですか、このビラ」
 ----「バカにしてるんですか?」
 ----と口々に抗議の声をあげている。
 ----呆れた話ではあるが、沢村と中村は、生徒が怒って出てくるという事態は予測しておらず、もっぱら教師に制止される事態を心配していたらしい。沢村は生徒に詰め寄られて、何も云えずオロオロしている。
 ----女生徒の一人が、沢村の目の前でビラをビリリと破り捨てる。
 ----ぼくはそこへ割って入った。そして、生徒らに向けて大声で訊いた。
 ----「あんたがたは、ぼくらのビラに対して怒っているのか、それともIさんを死なせた学校に対して怒っているのか、どっちなんだ?」
 ----ここで、じつはぼくのヨミも甘かったのだということを正直に告白しておこう。ぼくは、あらかじめ事態を予測して用意しておいたこの問いで、生徒らに自分らのバカさ加減に気づかせ、場の流れを変えることができると考えていた。しかし、ぼくの「期待」は、一人の女生徒の言葉によって、あっさりと裏切られた。
 ----「なんでアタシらが学校に対して怒らなあかんの?」
 ----ぼくは愕然として言葉を失った。(略)
 ----次の瞬間、さらに恐ろしい光景が目の前で展開された。
 ----一人の教師が慌てて中から出てきて、必死で生徒らをなだめ、校門の中へ何とか彼女らを押し入れた。
 ----なんという絶望的な構図であろうか。
 ----生徒が一人、実質的に学校によって殺されるという事件が起きていながら、生徒が学校を守り、また教師がその生徒たちを守る。
 ----ぼくは夢中で叫んだ。
 ----「そういうオマエらがIさんを殺したんだ!」
 ----また生徒の群れの中から怒りの声がいくつか上がったがよく聞き取れない。
 ----沢村が続けて叫ぶ。
 ----「そんなふうに学校を守って、オマエら楽しいか?」
 すると生徒の中から、「帰れ!」との声が上がった。その声はたちまちのうちに群れの中に広がって、「帰れコール」になる。----
 まあ、私もまだ十代だったし、見通しも甘ければ戦術も稚拙だ。現象のとらえ方も、いくぶん平面的ではある。
 私たちは、この日はすごすごと退散する他なかった。

 だが、私たちのいきなりの「突出」とその結果は、高校生会議系の他のラジカル勢に大きなインパクトを与えた。
 また、後で知ることだが、鹿島拾市や山本夜羽ら、後期・秋の嵐のメンバーたちに、私たちの存在が意識されたのも、この行動によってだった。というのも、事件直後ということもあって、私たちがビラまきに駆けつけた日、テレビカメラが登校風景を撮影に来ており、そこへ突然騒動が勃発したために、その光景も一、二回、ワイドショーで流れたのだ。それをたまたま目にした鹿島や山本が、「よく分からないけどすごい奴らがいる」と秋の嵐周辺で話題にしたらしい。
 少なくとも山本はとうの昔に沢村とは面識があったのだが、その「すごい奴ら」の中に沢村が含まれていたことにはこの時点では気づかなかったようだ。私たちのビラの連絡先はDPクラブになっており、ワイドショーでも「九州で活動する中高生グループ」と紹介されたためだ。
 もっともこの映像は、ビラまきの当日にしか流れなかった。同じ日の午後に、右翼の街宣車が現場にやってきてテレビクルーともめ、なんとこのクソ右翼が、「今朝ビラをまいたグループも我々の仲間だ」とデタラメをぬかした。ビビったテレビ局は、私たちのビラまきの映像を、以後は完全にお蔵入りにしてしまった。
 秋の嵐の闘争はマスコミのタブーである「天皇制批判」であったため、私たち後期DPクラブの闘争はこの種のつまらないアクシデントの連続のため(他の例は後述)、広く一般に知られる機会をことごとく失ってきた。現実に存在した重要な闘争が、こんなふうに「なかったこと」にされ、運動史の正しい認識を不可能にして、その害が十余年を経た現在の運動の不振・低レベル化にまで及んでいる。
 愚痴めいた話を始めるとキリがない。
 私たちはすぐさま、展開を模索した。
 私たち三人の「突出」に、高校生会議系の森野里子、倉本三平、糸井健次、今里浩二、そしてDPクラブの首藤良彦が合流してきた。
 私たちの行動は以後たいてい「DPクラブ」名義でおこなわれたが、それを担ったのは主にこの八人で、要するに実態はDPクラブではなく高校生会議の最左派部分だった。

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2006年11月05日 20:27に投稿されたエントリーのページです。

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