23.
同じ頃、馬の骨・秋の嵐の界隈にも、新展開へ向けた胎動が始まる。
まず四月一日、太田リョウの「エイプリル・フール決起」がある。
また鹿島拾市の回想記「『馬の骨』の頃」から引用しよう。
----1990年4月1日夜、太田君は桜田門の警視庁本庁に単身で乱入したのである。
----彼は警視庁の宿直警官に「警視総監に会わせろ、いなければここで一番偉い奴を出せ」とわめき散らした。この椿客を小馬鹿にした警部が「一番偉いのはオレだよ」と言うと、次の瞬間、太田君はこいつを殴り飛ばした。当然、その場で逮捕、起訴となったのであった。
----太田君の行動は、その数ヶ月前に中核派の活動家の藤井世都子さんが屈辱的な身体捜索を受けたことへの抗議だった。
----藤井さんは女性グループとともに、この身体捜索への抗議行動を展開していた。太田君は3月、この運動に中核派が党として取り組むべきだと主張して、「党内闘争宣言」を掲げたハンストを、なぜか代々木公園で行っていた。そして4月1日、以前から冗談めかして公言していた通り、警視庁に殴り込みをかけたのである。
----この行動は当の藤井さんや女性たちには評判がよくなかった。男に代わって闘ってもらうことではないというのである。至極当然な批判だろう。
----この事件をきっかけとして「馬の骨」はあっけなく解散することになった。幸渕、カンコン、林君は太田君の救援に関わらないことを宣言していたし、一方ぼくや山本は、“秋の嵐”の人々と一緒に救援で忙しく動くようになったからだ。中核派は、幹部が留置所に面会に来て「もうお前にはつき合いきれないよ」と言って太田リョウの党からの破門を通告した。そのため、太田救援は“秋の嵐”と「馬の骨」残党の数人で担うことになったのであった。----
やはり馬の骨の佐藤悟志が、「法務省突撃戦」で逮捕されたのも、この同じ四月二六日のことである。
詳細は忘れてしまったが、前年の天安門事件に関係した中国人活動家の亡命申請を、法務省は却下し、強制送還を決めた。たしかこの日、法務省前に集まり、当局者と押し問答をしていた抗議の集団の中から、突然、佐藤が飛び出して庁舎への突入を図り、逮捕されたのだったと思う。
四月二九日の「みどりの日」----昭和の旧「天皇誕生日」には、屋外でおこなわれた式典会場に、秋の嵐が天皇制反対を叫んで笑い袋を投げ込みながら(!?)乱入する騒ぎを起こし、見津毅ら数名が逮捕される。
これも詳細は忘れたが、大阪で開催中の「花と緑の博覧会」会場で、たしか電力会社のパビリオンで何か騒ぎを起こして、札幌ほっけの会のリーダー・宮沢直人が逮捕されたのも、この前後のことだったように思う。
太田リョウの「エイプリル・フール決起」に始まり、佐藤悟志、見津毅、宮沢直人らが次々と決起・逮捕となったこの一連の出来事は、後に当事者らによって“赤い四月”などと呼ばれる画期である。
重要人物が一斉に囚われの身となるこの異常事態が、界隈を意気消沈させたかというと、逆である。
これら逮捕者たちは、数日から三ヶ月ほどで全員釈放され、ふたたび自由の身となる。
なんだ、そんなものか。
少々のことなら、ビクビクせずにやっていいんじゃないか。
逮捕上等。
----みたいな気分が、界隈に充満してしまうのである。
馬の骨は自然消滅し、残党は秋の嵐へ合流する。
鹿島の回想記からまた引用。
----判決後の6月に執行猶予で解放された太田リョウは、小西事務所の荷物をまとめると、“秋の嵐”の赤井君の家に転がり込んだ。そして、そのまま何となく“秋の嵐”の会議に参加するようになり、気がつくとその後を追ってぼくと山本も“秋の嵐”メンバーになっていた。----
鹿島によれば、この頃から、酒の席でのケンカ、暴力沙汰がやたらと多くなったという。荒れてすさんでいるのではなく、みんなの気分が高揚しているのである。
鹿島らは、「暴動の時代が始まる」などと云い合った。
実際この前後に、鹿島らの運動とはまったく関係ないが、「ベイブリッジ暴動」というのがあり、交通取締りか何かをめぐって起きた騒動で、チラッと報道されたのを鹿島は覚えているようだ。