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青いムーブメント(22)

   22.

 二回目の全国高校生会議は、前回からちょうど一年後の、九〇年三月下旬にやはり東京大学駒場寮食堂で開催された。三泊四日の合宿形式という点も変わらない。
 もっとも高校生会議は、主催者側は場を用意するだけで、そこで何が話し合われるのかは集まった人間次第、というイベントである。盛り上がるのかどうかも、当日になってみないと分からない。
 一例を挙げると、昼間の日程に「分科会」というのがあり、特定のテーマごとに分かれて自由に議論するのだが、そのテーマについても、実は事実上、当日決める。事前にこういうテーマでやりたいという提起はあり、それらは当日配布されるパンフにも記載されはするが、提起者が当日になって「やっぱりやめた」というのもアリなのである。分科会の前に一時間ほど全員参加のミーティングがあり、そこで改めて、何らかの分科会を提起したい者がその内容をアピールする。すでに事前に提起していた者も、当日になって急に思いついて提起する者もいる。この指とまれ式でグループ分けが完了し、いざ分科会へ移行するのである。
 このような行き当たりばったりの、非効率と云えば非効率なやり方を採用したのは、もちろん“予定調和”を可能なかぎり避けたいからである。たとえ数日前に(当日でも)たまたま高校生会議の存在を知って参加した人であっても、前回も参加しているメンバーと変わりなく主体的に場の創出に関わることができるよう、さまざまの工夫がこらされている。会場に紙と印刷機が用意され、その場の思いつきを他の参加者にアピールしたい時に、誰でも自由に使えるなどのシステムもその一つだ。
 高校生会議は、何かを「報告」する場であるよりも、ほとんど何もないところから、当日たまたま集まったメンバーのセンスや問題意識を相互作用させ活性化することで、何らかの新しい展開を生み出す場となることが、誰よりも主催者側によって期待されていた。だから主催者側は、会場をおさえ、参加者をかき集める以上のことはほとんど何もしない。当日のプログラムは、ただ参加者をシャッフルしながら数名単位で自由に議論させ、どんなメンツが集まっているのかを互いに知ってもらうためだけに組まれている。その上で、あとはその場の成り行きでいくらでも流動的に変化しうるプログラムなのである。普通のこのテの運動の集会にあるような、講演やレポート発表もないし、決議の類もない(もちろん期間中に講演など特別なイベントを提起して、参加を呼びかけることはできる。“決議”めいたことは、提起はできても賛同は得られないだろうが)。
 ----九〇年の全国高校生会議の実行委員長は、広島の倉本三平と千葉の糸井健次(仮名)である。
 沢村や倉本と同い年の糸井は、私たちにとって新しい仲間である。
 東京の海城高校という名門私立を中退した糸井は、はじめ青生舎に連絡をとったが、やがて誰か(たぶん笘米地だろう)から高校生会議のことを聞き、私たちの前に登場した。たしか八九年の終わり頃のことで、その時期ちょうど、埼玉県入間市「格納庫」で、森野里子、渡辺洋一、鈴原恵美子の共同生活が始まったところである。沢村もまもなくこれに合流する。
 高校生会議系の新しいフリースペースともなった「格納庫」に頻繁に出入りし、『ごった煮』の編集などを手伝っているうちに、糸井は倉本とともに二回目の高校生会議実行委員長に名乗りを上げる。運営規則みたいなものがあるわけでもないから、そのままなんとなく「委員長二人体制」で実行委員会が発足した。
 糸井は当初、自らが新参者であることに気後れしていたようだが、途中で「去年のパンフは見ないことにする」と宣言、“二回目”であることを意識せず、一から新しいイベントを創り出すんだと、名称も「第二回全国高校生会議」ではなく単に「全国高校生会議90」とした。もちろんこの糸井の態度表明は、他のメンバーに大いに歓迎された。
 もっとも、「当日の参加者次第」という高校生会議のスタイルは、前年にすでに完璧の域に達していたから、実際には形態的な変化はほとんどない。参加者数も、これはたまたまだが前回と同じく八〇名あまりである。
 倉本・沢村・杉原・今川の広島勢や、渡辺、中村智弘らの参加は前回同様だが、他はほとんど入れ替わっている。
 八割方を占める新参加者のうち、目立ったのは糸井の他、DPクラブの福原、篠田などだ。やはりDPクラブのメンバーであった吉村周司(仮名)も、福原・篠田と同じく当時高校一年生で、彼は私の“出身校の一つ”である鹿児島の加治木高校に在学していた。
 笘米地は直前に中国へ留学しており、いない。私と森野里子は、この時点ですでに「高校生相当年令」ではないから、正確にはOB・OG参加だが、このへんは少々なし崩しになっていた気もする。
 もう一人、重要な新参加者がいる。
 菅源太郎である。
 のち二〇〇三年の衆院選に(註.二〇〇五年の衆院選にも)出馬して話題になった、民主党・菅直人(当時は社民連)の長男である。たしか私の二つ下だから、当時は高校二年生だったか、あるいはすでにやはり中退していたかもしれない。青生舎経由で私たちとつながったのだったと思うが、菅は例の「子どもの権利条約」に熱い期待を抱いて、期間中ずっとその啓蒙活動にいそしんでいた。
 参加者にもたらした高揚感の点では、前年に匹敵する熱いイベントだったが、この九〇年の高校生会議は、菅の参加によってあまり好ましくない“成果”も生んだ。
 菅は、会議終了後まもなく「子どもの権利条約の批准を求める十代の会」を結成、九〇年の新参加者のうちかなりの部分がこれに合流した。先述の、ラジカルな中核部分ではない、まあリベラル勢(今なら「しゃべり場」に出演してしまいそうなタイプと云ってもいい)の参加者を、菅が糾合したような具合である。
 のちラジカル勢は後期DPクラブに結集、同条約批准促進運動の「粉砕」をその主要なテーマの一つとして掲げて、菅の「十代の会」と“仲良くケンカする”ことになる。

 先に私は九〇年三月の全国高校生会議において「OB参加」であったと書いたが、正確ではない。
 実は翌四月から、私は福岡県久留米市の、市立南筑高校へ新一年生として入学することが決まっていたからである。
 前年十月の分裂事件で陥ったDPクラブの活動停滞を打破するため、私はどこかの高校へ試験を受けて入りなおし、“現役高校生”として活動することができないかと考えた。
 学校を変えるには、生徒自身が決起しなければならないというのが私たちの基本テーゼであったが、分裂以来、DPクラブには現役高校生のメンバーがほとんどいなくなってしまい、途方に暮れていたためである。だからといってわざわざ高校に入り直すというのも何だかトチ狂った選択だが、当時の私はそれくらい途方に暮れていたのである。
 集会で知り合った日教組の教員が、南筑高校なら試験にさえ合格すれば入れてくれるのではないかと教えてくれたので、私は久々に少し「受験勉強」をして、なんと通算四つめの高校に通うことになったのである。
 結果的には、私は南筑高校においてほとんど何もできなかった。当然である。十五歳の集団の中に、一人だけ十九歳がいるのだから、それだけで浮く。新左翼党派がよく、拠点を維持するために何度も大学へ入り直したりするという話を聞くが、それよりもキツイ状況だというのは、想像すれば分かってもらえると思う。
 とりあえず一人も部員のいなかった新聞部を再建するなど、ちょっとした「活動」はやった上で、それをDPクラブの機関誌で面白おかしくレポートした。「高校ジプシー」というペンネームでの、「正体」を隠しての「寄稿」で、私が高校へ入りなおしたという話は、DPクラブでは福岡のメンバーしか知らなかったから、機関誌を購読しているだけの他県の現役中高生メンバーなどをいくらか鼓舞することはできたかもしれない。
 具体的な活動の成果の面ではほとんど何の意味もない愚行で、どうもあの居心地の悪さは私の中でかなり大きなトラウマになっているらしく、もう三十代も半ばだというのに今だに時々この南筑高校に通っている夢を見たりするのだが、それでも私にとっては有益な経験でもあった。
 というのも、学校という特殊空間を、「大人」が現場で観察しようとすれば、普通は教師にでもなるしかない。現役の中高生である時には、学校の外の世界をほとんど知り得ないのだから、それが特殊な空間であることになかなか気づけない。教師だって、ほとんどの場合は学校以外の場所を経験することなく卒業してそのまま学校に就職するのだから、実は生徒と大差ない。私は、もちろん教師でもなく、純粋に「生徒」とも云えない妙な立場で、外部からの闖入者として学校という特殊空間を間近に観察する得難い経験をしたのである。
 この経験は、この九〇年後半から始まる、DPクラブの新展開の重要な基盤となる。

 また書き落とすところだったが、九〇年六月に、私は二冊目の著書『ハイスクール「不良品」宣言』を、はやしたけしの『ふざけるな! 校則』シリーズの駒草出版から出している。
 内容は、この時期までのDPクラブの活動記録で、機関誌に発表した文章を時系列に並べたものである。分裂前後のものも多いので、結果として、八〇年代にあちこちで経験された「フリースペース運動の崩壊」という現象を、詳細に報じたたぶん唯一のものとなっている。
 本当は『ふざけるな! 中高生』に決まっていたのだが、はやしたけしが横槍を入れてきて、何だかよく分からないタイトルになってしまった。
 この本はまったく売れず(三千部刷ってたぶん千部くらい)、そのため新規読者からのコンタクトも少なく、DPクラブ・メンバーの量的拡大にはつながらなかった。

 福原史朗は、筑豊・鞍手高校の生徒会長になった。
 生徒会というのが、たいていは学校当局の御用機関にすぎなくなっていた八〇年代後半という時期に、福原は頻繁に校長室に呼び出されてしまうような、闘争的な生徒会活動を展開したらしい。実はその具体的内容を、私はあまりよく覚えていない。
 福原のやったことで私が覚えているのは、現役高校生のくせに(?)親元を離れて一人暮らしを始め、そこをフリースペースとして、筑豊地区の何十人もの中高生が出入りする拠点にしてしまったことである。もちろんやがて、DPクラブや馬の骨や、その他フリースペースを試したほとんどすべてのグループと同じように、福原もまた、「活動を担う少数」と「ただ単にタムロする大多数」という問題を、身をもって体験することになる。
 壱岐の篠田は、福原と違って孤独な闘争になる。本人のキャラクターの問題もあろうが、やはり他と隔絶された離島という条件も大きかっただろう。DPクラブは九州内の高校生メンバーに例の「補習」への参加拒否を呼びかけていたが、周りはほとんど知り合いばかりという環境での篠田のそれは、かなり苦しいものだったに違いない。

 高校生会議系の「拠点」が、この頃さらに増える。
 すでに福岡にはDPクラブのフリースペースがあり、埼玉には森野・沢村・渡辺らの「格納庫」がある。
 広島の倉本三平が、九〇年四月、京大入学をめざして、京都で浪人生活に入る。一人暮らしのアパートを借りたが、しかし予備校へは数日しか通わなかった。大学へ進む気を、早くもなくしたのである。
 アパートが京大の近くにあり、倉本は学生でもなんでもない身ながら、関西のノンセクト学生運動の一大拠点である京大吉田寮へ頻繁に出入りし始めるが、ノリはあまり合わなかったようだ。
 八九年の高校生会議に参加した時点では中学生だった(ということは福原・篠田らと同級である)千葉の中村智弘は、そのまま地元の県立高校へ進学するも、九〇年の高校生会議の時点ではすでに早くも中退していた。
 遅くともこの年の夏までには、杉並区高円寺のアパートで、一人暮らしを始めていたように思う。
 このようにして埼玉・東京・京都・福岡に、便利な滞在先が確保されるに至って、高校生会議の主要メンバーの相互の行き来は、さらに活発になった。
 ちなみにこの九〇年当時、もちろん携帯電話はまだ一般化していない。八〇年代後半はまだ、ブルーハーツの「遠くまで」(セカンドアルバム収録)で、「電話のついてる車に乗ってる」ことが成り上がり金持ちの象徴のように歌われた時代である。留守番電話は一般家庭にも普及しつつはあったが、私たち貧乏な若者の一人暮らしのアパートには、まだほとんどない。
 何か自分たちの主張を公にしたり、仲間を集めたりするのに、インターネットを利用、なんてことももちろんない。ビラやミニコミが基本である。パソコンどころか、ワープロがようやく普及しはじめたくらいだから、それらもまだ手書きがほとんどだったし、レイアウトに凝るのは大変だった(だから普通は凝らない)。

 『ごった煮』誌上での論争が激化するのもこの頃である。
 「管理教育」を批判するリベラルな同人を、「管理教育」も「管理でない教育」もない、学校そのものを否定しなければならないのだと考えるラジカルな同人が、徹底攻撃し始めたのである。その急先鋒は渡辺洋一であり、渡辺と連日のように議論に花を咲かせる生活を送っていた森野里子や沢村らもこれに同調したが、私自身も、DPクラブの分裂や高校再入学などの経験をへて、この頃にはすでにそうしたラジカルな立場に移行しつつあった。もちろんこうした展開の背景には、前年末に沢村がバラまいた『反戦派高校生』の影響もある。
 私たちは、学校制度を(「廃止」することも含めて)あれこれ改変することも重要だが、同時に、学校教育によって主体性を奪われた、私たちを含む生徒自身が自己を変革することがより重要だと云い始めていた。DPクラブ分裂に際して、「管理教育」に不満を持つ中高生が、必ずしも共に闘う仲間とはなり得ないということを実感したのも、私の場合は大きかった。「自己否定」というスローガンが、しっくりきた。
 私たちは、二十年遅れの高校全共闘となりつつあった。

 そこへ勃発したのが、九〇年七月六日の、神戸高塚高校「校門圧死事件」である。

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2006年11月05日 20:05に投稿されたエントリーのページです。

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