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青いムーブメント(21)


   21.

 私が笘米地らと共に、九州大学の学園祭の企画に呼ばれたのは、DPクラブ分裂事件の直後くらいの時期だったと思う。
 企画の中心にいたのは、八九年夏ころからDPクラブにちょくちょく出入りしていた、私より二、三歳上の森耕一郎ら数名で、彼らがおそらく九大ノンセクトの最後の世代である。
 そうなってしまったのは、単に彼らが「後継者作り」をサボったりそれに失敗したためばかりとも云い切れない。そもそも運動を継承しうるような、個性なりパワーなりを持った少年少女は、この時期ほとんど大学へ進学しなかったはずだと思うのである。
 八九年、高校中退者の数が十二万人を超えたことが大きく報じられた。実際には、生徒全体に占める中退の率は他の年度と比べてそれほど高いわけではないのだが、その内容、質は確実に変化していた。つまりそれまで、高校をやめるのはたいてい要は不良・ヤンキーのタイプだったのが、八〇年代末の高校中退はどうも旧来型のそれとは違ってきている感じがあったのである。
 「管理教育」がその主要な原因であることは云うまでもない。八〇年代後半は「管理教育」のピークで、多少なりとも個性や主体性を身につけてしまったタイプの生徒にとって、学校へ通い続けることは苦痛でしかなかった。もちろん、いつの時代であれ学校というのはそういうもので、程度の差にすぎないのだが、その「程度」が極限にまで高まっていたのがこの時代である。とくに、学生運動を積極的に担いうるようなキャラクターが、この時代に何事もなく無事に高校を卒業するなどということはちょっと考えられない(いわゆる「自由な校風」の学校であってもそうである。そもそもそれはウソである上に、仮に比較的そうであったとしても、一部エリート校の「特権」、つまり構造的欺瞞にすぎないことはちょっと考えるアタマがあれば分かったことだ)。
 しかも時代は青いムーブメントの高揚局面である。学校の外には、アンテナのある若者をいてもたってもいられなくさせるような「面白そうなこと」が無数にあるように見えた(「バンド・ブーム」もその一つである)。“非ヤンキー”タイプの高校中退の云わば“第一世代”である私たちには、「積極的な」高校中退が可能だったのである。逆にそうでなければ、まだ学歴幻想が確固として社会全体を覆い、高校中退にまさに“脱落”のイメージが強かったこの時期、“フツー”の高校生たちが大挙して学校に見切りをつけることなど難しかったはずである。
 もちろんそのような“幸福な時代”はせいぜい二、三年のことで、「高校中退」がそれほど特殊なことではなくなり、大した覚悟も必要としなくなったこれ以降は、あまり中退者の類型を云々することには意味がなくなった。また、産業構造の変化に伴い企業が求める人材が必ずしも“従順型”ではなくなったり、文部省も方針転換を余儀なくされて「ゆとり教育」を云い出したり、とくに私立などは少子化の影響もあって「管理教育」では“お客さん”が離れていってしまうとか、さまざまの要因が重なり、九〇年代に入って学校状況はかなり変質した。そのため個性や主体性の強い生徒であっても、必ずしも卒業が困難というわけではなくなった。
 だから、学生運動を担いうるようなタイプも、九〇年代前半のうちにはまた新入生の中にいくらか含まれるようになってきたと思う。が、すでにその時には、数年間の「後継者の供給途絶」によって、ノンセクト学生運動は壊滅していたのである。もともとノンセクトの運動が比較的盛んで、この逆境になんとか耐え得た早稲田、法政その他いくつかの例外を除いて、これは全国に普遍的な現象であろうと思われる。その早稲田、法政などにしたところで、私たちの世代のノンセクト運動の質は概して低い。先輩の運動を無批判になぞるのではなく、主体的に新しい方向を模索するようなタイプは、私たちの世代ではそもそも高校の時点でドロップアウトするしかなかったからである。
 さらに云えば、高校中退“ブーム”直前の世代の優秀な学生活動家にしても、見津毅や鹿島拾市の例を見ても分かるとおり、この青いムーブメントにおいては次第にその主要な活動舞台を学外へ移している。八七年後半から九一年前半にかけてのその最盛期には、学内に軸足をおいた学生運動に、見るべきものはほとんど一つもないと云っていい。
 九州大学のノンセクト学生運動では、先述の森耕一郎らが事実上最後の世代となった。
 西南学院大学でも同様で、やはり私の二、三歳上の世代が「ジャーナリズム研究会」を拠点に活動していたのが最後のようである。彼らの卒業とほぼ入れ替わりに、「ジャナ研」は新左翼の解放派に乗っ取られた。
 右翼的な校風とその学生数の多さから「福岡の日大」とも呼ばれる福岡大学にも、この八九年当時にはノンセクトの運動が存在し、新聞会を拠点に活動して、DPクラブを取材に来たこともあるが、九三年ごろ様子を見にいくと、すでに単なるマスコミ志望者のサークルに変質していた。
 九大の森耕一郎は、卒業後、福岡のアングラ芸術シーンで活動を続けている。

 九大ノンセクトの運動が最後の盛り上がりを見せていたのは、秋好悌一がその中心にいた八〇年代初頭のようであるが、秋好はこの八九年当時、すでに書いたように自らがオーナーを務める福岡市中央区の古道具屋「悪徳家」の二階自室に、あちこちからかき集めてきた個性的な若者(ほとんどは私の同世代であった)を組織して、何やら怪しげな、秘密結社めいたサークルを主宰している。
 昭和天皇の死去直後か、大喪の礼の際の福岡での反天皇制デモには、彼らも独自の隊列を組んで参加したように聞いている。同時期にやはり天皇問題をメインにした、エログロ・ナンセンス風味のミニコミを一冊出したことは前に少し触れた。
 秋好は、それは「華青闘告発以後」型の「ラジカリズム」の空気が濃厚に漂っていた、七〇年代から八〇年代前半のノンセクト運動の中で自己形成した、世代的なものだと私には今となって思われるが、天皇制の問題に強く執着していた。
 この年の秋に、秋好は自ら脚本・演出を手がけ、昭和天皇の戦争責任問題を中心的なテーマとした芝居を、テントで上演した。役者は主に“秋好一派”の若者たちであるが、それだけでは不足していたのだろう、とくに避けていたつもりはないが、単に当時はその活動の意味がよく理解できなかったために秋好一派とは距離をおいていた私たちDPクラブのメンバーにも声がかかった。私、福原史朗、新庄雄樹の三人である。結局、三人とも本番のかなり前の段階で企画から降りてしまったが、他の二人の事情はよく分からない。私の場合は、明白に“脱落・逃亡”である。度重なる秋好による“糾弾”に、私は疲弊したのである。
 というのも、秋好は常に自ら主宰する共同体の雰囲気を、ギスギスしたものにしようとしていた。「なあなあ」の関係を生まないために、わざとやるのである。秋好による詰問口調での、いつ終わるとも知れない糾弾のきっかけは、さまざまである。
 私の場合は、女がらみである。当時、私はDPクラブと秋好一派との双方に出入りしていたある女子高生に片想いしており(といっても当時の私からすれば二、三歳下でしかないのだからヘンな云いがかりはナシだ)、しかも彼女は秋好一派の一人と交際していたのだが、秋好はそれを知って、私が嫉妬に悶え狂うようなドギツイ冗談を、わざと頻繁に飛ばす。私は耐えきれなくなって、帰る。すると、秋好は糾弾モードに入るのである。
 たしかに、私のはくだらない私情である。くだらない私情で、共に一本の芝居を作るという現場から“逃亡”したのだから、冷酷非情であれば責め口はいろいろとある。そして秋好は、冷酷非情にふるまえる人であった。
 秋好の云うことはいちいちもっともで、私は壊れた機械のように、「すいません。もう続けられません」と繰り返すばかりである。
 芝居からは結局こうして身を引いたが、以後、私と秋好との結びつきはかえって深くなる。
 私は何か新しい展開に踏み出すたびに、秋好のところへ「報告」へ行くようになった。秋好は、ごく稀な例外を除いて、ほとんど毎回それをこっぴどく批判し、ぐうの音も出ないまでに私をやりこめるのだが、それでも私は秋好のもとへ通い続けたのである。もっとも、秋好に根本から否定されたからといって、私が自分の方針を改めたということは一度もない。「ちくしょう。いつか見返してやる」と思ってそれをエネルギーにするのである。
 秋好に徹底的にいじめられることで、私はかなり鍛えられたと思う。意識的にしろ無意識的にしろ、この人は自分を鍛えてくれるという直観があったから、私は秋好にまとわりついたのだろう。
 もちろん、私のやることにただ否定的であればいいというものではない。そのいちいちは覚えていないが、私にとって「うーん、正しい」と思えるような、つまり「よりラジカルな」論理によって否定してくれるのでなければ、私は単に聞く耳を持たない。「誰かにホメられようと思っての言動はサイテー」というのも秋好の“教え”の一つではあったが(他に「世の中には云っていいことと云わなければならないことがある」、つまり「云ってはいけないことなどない」という意味の“強気”のスローガンも秋好の口癖だった)、私は「今度こそホメられたい」と思って秋好のもとに通いつめ、毎回のように簡単に「粉砕」されてすごすごと帰ってきた。
 私たちは、よい師弟であったと思う。
 しかし、私は秋好のようにはなれなかった。秋好のようになりたいとずっと思ってはきたが、これを云えば相手に嫌われたり、怒らせたりすることが分かりきっている、「云わなければならないこと」を、まあそれでも頑張ってきた方だとは思うが、そういつもいつも口に出せるほど私は強くなかった。いや、秋好は強かったなどと云えば本人に失礼だろう。要するに私は秋好ほどには自らの保身の身振りを憎むことができなかったのだ。

 八九年三月の第一回高校生会議の終了後、その界隈がどうなっていたのか、いまひとつ私自身の記憶が定かでない。
 五月頃、沢村や倉本三平らがいた広島修道高校の文化祭に、高校生会議の主要メンバーが全国から大挙しておしかけたことがある。ゲバ文字(全共闘っぽい書体のこと)の模写のうまい倉本が製作した、生徒会か文化祭実行委員会名義の何かの立て看板を、出させろ出させないで当局ともめて、私服通学が認められている修道高校なので、私たち学外者も生徒のフリをして教師を取り囲む輪の中にいたりした。
 福岡のDPクラブにも、倉本や沢村、杉田昇平、今里浩二ら広島勢がたまに来ていたし、名古屋の渡辺洋一(のちの矢部史郎)も、八九年夏ごろ、一度来ている。
 沢村が創刊した『ごった煮』は、会議本番終了後もおよそ二ヶ月おきに発行が続いており、ただしその編集は沢村の手を離れ、各地の会議参加者が「次は自分が」と志願する形で、持ち回りで担当する形態となっていた。
 当時の『ごった煮』を見れば判明することではあるのだが、今回の投獄にともなう混乱の余波で、出所後一年を経ようという現在も、当時の資料を簡単に参照できない状態にあるため、八九年の高校生会議周辺の動きを今回は詳述できないのが残念でならない。
 先の例からも、すでに各地の参加者が、何かあるたびに互いにヒッチハイクなどの手段で行き来する状況は始まっていたことは確かである。私自身も、大阪や京都や、東京によく行ったように思う。
 高校生会議にヒッチで連れて行った、加治木高校時代の同級生・M君も、以来、ヒッチでカネをかけずに移動することに味をしめ、鹿児島で自宅浪人の身ながら、ほとんど毎週のように福岡のDPクラブに顔を出すようになったりした。もっともM君は、十月の分裂事件以降、私たちと袂を分かった側の一人だが。

 名古屋の渡辺洋一は、たしかすでに三月の会議本番の時点で、旭丘高校を中退していたのではなかったか。いや、会議に参加するために上京して、高揚した勢いで東京に居着き、そのまま成り行きで退学ということになったのだったような気もする。
 渡辺は、テント芝居の世界に接近したようである。もともと名古屋で日雇い労働者の運動に参加していたのだし、テント劇団「風の旅団」などはそれらを拠点の一つにしていたのだから、まあ自然な流れではある。
 渡辺はそのメンバーではなかったが、八九年九月に東大駒場キャンパスで起きた「風の旅団事件」の現場にはいたはずである。
 前年十一月の「駒場祭」で公演し、火気使用などで当局とモメた「風の旅団」が、ふたたび駒場で公演をおこなうためその許可を申請したが、通らなかった。そこで、駒場寮生などの支援を背景に、無許可のまま公演を強行しようとしたが、当局の要請による機動隊導入によって強制排除された。この時に数名の逮捕者が出ているが、たしかこの中に渡辺が含まれていたような気がする。記憶違いで、劇団メンバーの例のG君の方だったかもしれない。あるいはその双方であったか。
 この事件が現在のところ、東大構内に機動隊が導入された最後となっているようだ。

 森野里子も、どういう成り行きでか、この時期、芝居シーンに接近したようである。
 ここらへんの事情も、今回は資料を活用できないため詳述できない。
 埼玉県入間市にあった、首都圏のなんとかという劇団の稽古場で、森野が居候生活を始めたのはおそらくこの八九年の秋頃である。
 この劇団はまもなく解散したか、あるいは活動形態を変えたかで、この稽古場を手放したが、森野は持ち主に交渉して、そのままそこに住み続けることになる。
 やがて「格納庫」と命名され、高校生会議派の首都圏における主要拠点となるその元劇団稽古場は、そもそもは隣の農家の物置で、といっても何十畳かはあるだだっ広いものだった。稽古場として使えるよう劇団員たちが改修していたから、防音も完璧で、武蔵藤沢駅から徒歩二〇分以上というおそろしく交通の便が悪い点を除いては、素晴らしいスペースだった。
 この年の暮れには、ここに渡辺洋一と、やはり高校生会議の主要メンバーであった鈴原恵美子が、さらに翌年はじめには広島の沢村が合流し、森野を含め四人での共同生活が始まる。

 沢村はこの頃、卒業を間近に控えた三年生である。結局中退はしなかったが、しかし大学受験もしなかった。もちろん中国地方随一の名門・広島修道高校にそのような生徒は珍しく、この年は沢村だけであったという。
 三年の三学期にはまったく登校せず、埼玉「格納庫」入りをするのだから、おそらくその直前の、たぶん八九年末ころのことだと思うが、沢村は生徒会の印刷機を使用して、本を二百部だか三百部だか製作した。
 といっても、自分で書いた本ではない。
 七〇年に三一新書から出てその後は長らく絶版となっていた『反戦派高校生』という当時の高校全共闘に関する詳細なルポを、勝手に“増刷”したのである。
 ワラ半紙に印刷されたこの沢村版『反戦派高校生』は高校生会議関係者にバラまかれ、私を含めて中心メンバーの幾人かが強く影響を受けることになる。
 正直に云って、私が全共闘の運動なり思想なりを、自分にとって他人事ではない重要なものとして、初めて理解したのはようやくこの時である。

 笘米地真理は八九年夏、岩波ジュニア新書の『高校生の正しい夏』に短い文章を一つ寄せている。
 現物が手元にないので、すでに忘れてしまっているその内容を今は確認できない。
 九〇年二月には、三一新書から『生徒人権手帳』が出る。
 藤井誠二、平野裕二(八九年十一月の廃刊まで『学校解放新聞』の後身『KIDS』編集長)、そして笘米地という、保坂展人直系の三人による共著で、中高生向けに、人権の理念と、それに照らして現実の日本の学校システムがどのように矛盾しているかを啓発する内容である。「日本国憲法」や「教育基本法」をタテにして、学校状況を批判するやり口に対しては、当時からすでに私はかなり批判的になっていたが(私はDPクラブ分裂事件の過程で徐々に「戦後民主主義」から脱却しはじめ、沢村版『反戦派高校生』を読んだことでそのことは決定的となった)、その点に目をつぶれば、この『生徒人権手帳』は、青生舎関係では最後のまあ意味ある出版物だと私は考えている。「理解ある大人による代行」ではなく、闘うのはあくまでも生徒自身であるという視点が、失われていないからである。
 九〇年三月に、ようやく笘米地の単独著作が出る。それが『熱烈的日本少年』(ジャパンマシニスト社)である。主にその高校時代の熱い闘争に重点をおいて書かれた笘米地の自伝で、「九〇年」のムーブメントの当事者による、数少ない貴重な記録の一つだ。
 この本の刊行と同時に、笘米地は念願の中国留学へと旅立ち、そのため青いムーブメントからはここで退場ということになる。

 八九年十一月、国連総会で「子どもの権利条約」が採択される。
 この条約の趣旨の本来の重点は、世界各地の紛争に子どもが巻き込まれて死傷したり、兵士となったり、難民となったりすることや、あるいは人身売買の犠牲となっている現状に歯止めをかけることであったようだが、条文には、子どもに対しても大人と同様に、意見表明権や思想・良心の自由、集会・結社の自由など、市民的権利を保障すべしという内容も含まれていたため、これが日本の反「管理教育」運動において、自らの主張を正当化する新しい根拠となり得るものとして期待され、シーンはあっというまに同条約の話題一色となる。
 九〇年二月の、笘米地らの『生徒人権手帳』にも、すでにこの条約への肯定的な言及がある。
 私たち全国高校生会議あるいは後期DPクラブの活動がシーンにおいて突出する契機の一つとなるのが、この「子どもの権利条約」粉砕闘争なのだが、それはまた後で述べる。

 その他、八九年の出来事。
 二月に、新右翼・一水会の鈴木邦男が『がんばれ!! 新左翼』を上梓、同会や鈴木の右翼としての“異色ぶり”をさらに強烈に印象づけることとなる。

 右翼と云えば、長崎市の本島等市長への抗議行動が盛り上がっていたのがこの頃だ。
 八八年十二月、天皇危篤の自粛状況下で「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言したのがそのきっかけだが、本来、本島は自民党の県幹部でもあるれっきとした保守政治家だった。それが議会で、たしか共産党議員による歴史認識を確認する質問に答えて、おそらく質問者も期待していなかったであろう前述の言葉を口にしたのである。
 右翼はもちろん、自民党からも発言撤回を強く求められたが、本島はこれを断固として拒否。とくに八九年二月の「大喪の礼」が終わってからは、右翼による抗議行動が本格化し、街宣車が全国各地から長崎へ集結する状況となった。
 当然、左翼やリベラルの陣営は本島市長を擁護、ここにも“左右激突”の図式ができて、これまた冷戦期最後のムーブメントである「九〇年」のホットな雰囲気を盛り上げていた。
 この問題は九〇年一月、地元の右翼団体メンバーが本島を市役所前で銃撃、重傷を負わせるというショッキングな展開をする。
 そういえば、「天皇が死ぬと大変なことが……」という“Xデー妄想”は、そもそもはこういう事件が続発することを想定したものだった気がする。昭和天皇の喪が明ければ、左翼活動家をはじめ、“自粛”状況下で“不敬”な言動をしたヤカラに対する、右翼による“血の報復”が始まる。左翼は沈黙させられ、勢いに乗った右翼による恐怖支配が社会全体を覆い、やがてファシズムへ……。
 まあもちろん結果はそのようにはならず、昭和天皇死去直後の大きな右翼テロは、この長崎市長銃撃事件だけだったが。

 オウム真理教の動きもここでざっと振り返っておく。
 八七年七月に、「オウム神仙の会」は「オウム真理教」へと改称、出家もこの頃から本格的に制度化されている。
 同年八月に、機関紙上で「核戦争と十五年後の人類滅亡」を予言し、どうもこの頃から“終末論”への傾倒が始まるようだ。
 八八年八月、富士山総本部道場を開設、そこへ修行に来ていた在家信者・真島照之が、同年九月二二日に死亡、秘密裏に遺体を処理したというのが、公になっている最初の「(“犯罪”的な)死亡事件」である。もっとも、オウム事件に関しては、警察発表やマスコミ報道はもちろん、逮捕された者の“自白”の類すらほとんど信用ならないから、いったい何が本当で何が嘘なのかまったく分からないのだが、まあそれを云い出したらキリがないので、とりあえず一般的に「事実」とされていることを並べるしかない。
 八九年一月、『滅亡の日』刊行。真面目なヨガ修行団体、もしくは原始仏教教団としてのそもそもの教義にはなかったはずの、オカルト的な“終末論”が、いよいよ本格的に強調される。
 同年二月十日、やはり富士山総本部道場で出家信者の田口修二が、脱会を強く希望してリンチで殺されたようだ。
 八月には東京都から宗教法人としての認可を得る。山梨県の上九一色村へ進出したり、「シャンバラ化計画」と称して(私にはその意味はよく分からないが)出家修行の重要性を一段と強調するなど、教団活動の活発化が著しい。
 並行して、教団への風当たりも強くなっている。
 この同じ八九年の六月には横浜の弁護士・坂本堤らが、「オウム真理教被害対策弁護団」を結成しているし、十月には『サンデー毎日』誌上でオウム批判のキャンペーンがおこなわれる。
 そして十一月、弁護士・坂本堤を、その妻子も含めて暗殺。坂本の立場や、現場に教団のバッジが落ちていたこと(しかしそんな明からさまな“証拠”、やっぱり不自然だと私は思うが)などから、オウムが怪しいとは云われたし、また事実オウムの仕業だったようなのだが、当時は証拠不十分で疑惑は疑惑のままで終わった。
 この八九年末の時点で、ある資料によれば(どの資料を信用していいのか分からないのだが)信者数は出家・在家あわせて四千人以上になっている。『ムー』や『トワイライト・ゾーン』などのオカルト雑誌に例の“空中浮揚写真”が掲載された八五年ころから教団の拡大が始まり、それでも“最終解脱”直後の八六年秋の時点で信者数は四百人に達していなかったのだから、そのスピードはなかなかすさまじい。
 こういう、表面的な事実だけからしても、オウムの拡大は「八〇年」のサブカルチャー運動が停滞した後、まさに「九〇年」の青いムーブメントの高揚と完全に並行する形で進んでいることが分かる。
 一連の“オウムの犯罪”に連座した中でも、最も情熱的な“テロリスト”の一人であった六九年生まれ(つまり私の一つ年上)の井上嘉浩が、もともと尾崎豊の大ファンであったことはよく知られている。井上の出家は、私が高校を中退したのとほぼ同じ、八八年の春のことである。
 ブルーハーツも無関係ではない。
 具体的な時期については資料が見つからなかったが、初期ブルーハーツのファンクラブ会長が、オウムの教義とブルーハーツのメッセージには相通じるものがあると感じて、出家信者となったこともまた比較的よく知られた話である。
 九〇年二月の衆議院総選挙に、オウムは「真理党」として二五名の信者を立候補させ、全員落選、これを「国家権力の陰謀」と解釈して、以後ますます幼稚な“陰謀論”へと傾斜していくが、選挙戦で展開した「歌と踊りのパフォーマンス」は(もちろん揶揄的にだが)当時かなり話題となった。
 私はあれは、一連の反原発運動の作風にインスパイアされ、真似たものだと思う。八七年後半から八八年前半にかけての“ニューウェーブ”にああいった作風は目立ったし、また、八九年夏の参院選に際して反原発を掲げるいくつかの“ミニ政党”が展開した選挙戦も、この「真理党」のそれと似たようなものだった。
 オウム真理教には、同時期にやはり拡大した幸福の科学など他の新興宗教団体と違って、八〇年代的な「管理社会」への強烈な違和感・反感の存在が確かに感じられもした。
 オウムに決定的に欠けていたものは社会科学の素養(人文科学というか、哲学や宗教学の素養は極めて高かったと思う)であり、あの無惨な結果もそれに起因する(要するにつまらない“終末論”や“陰謀論”、さらにはあまりにも思いつきレベルにすぎる“社会変革”の方法論などに足をとられたということ)と私は考えているが、「無知」もまた私たち「九〇年」の世代の行動を身軽にすると同時に限界づけてもいた特性の一つであった。
 「八〇年」世代の批評家たちは、オウムがさまざまのサブカルチャーから多くの「引用」をしていることをもって、それを「我田引水」の根拠に利用しているが、前に述べたように、「八〇年」世代と違い、脈絡を「無視して」ではなく「理解せずに」、何か使えそうな気のするたまたま見つけた論理やイメージを「引用」するのもまた、私たち「九〇年」世代に特徴的な(無自覚な)方法論であった。
 それに、オウムは別に「八〇年」のサブカルチャーからのみではなく、「七〇年」のヒッピー・ムーブメントからの「引用」もしていたし、先に見たとおり同時代の「九〇年」の諸実践からさえ「引用」した。この無自覚な無節操さこそは、まさにオウムが「九〇年」の運動たることの証左ですらある。
 麻原彰晃は、確かに実年齢的には「八〇年」の世代である。私は、要するに保坂展人のようなものだと思っている。「八〇年」の世代だからといって、「八〇年」の運動の担い手になるとは限らないのだ。

 触れる機会がなかったので、ついでにここに書いておくが、鹿島拾市によれば、「路上や電車の中でにしゃがみ込む若者」の姿が急に目立つようになってきたのも、八〇年代末のことだったと証言している。意識してやっていたわけではないが、そういえば私たち高校生会議派の面々も、ビラまきや街頭ライブや、あるいはヒッチハイクでの移動など、さまざまな形で「ストリート」(あんまり使いたくないコトバ)をその活動の舞台としたため、必然的にところかまわずよくしゃがみ込んでいたような気がする。
 「フリーター」が流行語として一般化したのもこの頃で、正確には八七年のことである。もちろんこの初期の「フリーター」は、初期の「高校中退」と同じく、管理社会(「二四時間タタカエマスカ?」の栄養ドリンクCMが八九年)から自発的にドロップアウトする、ポジティブで解放的な選択として、まずはイメージされた。

 洋楽のところで書き落としたが、ズバリ“社会派”なイメージで八〇年代後半を代表するバンドに、イギリス、というよりアイルランドのU2がいた(ブレイクは八三年、代表作としていいだろう『ヨシュア・トゥリー』は八七年)。そういえば、詞はともかく(いや、詞も逆に英訳してみると案外……)辻仁成のエコーズの曲のアレンジは、U2のまったくパクリであった。

 こんなところか。
 やっと九〇年に移れる。

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2006年11月05日 19:37に投稿されたエントリーのページです。

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