19.
八〇年代後半は、「バンド・ブーム」の時代である。「八〇年」のムーブメントが「インディーズ」として持続・継承され、八五、六年にシーンの狭い枠を超えて顕在化する。そのインディーズ隆盛の熱の只中で結成されたブルーハーツが八七年春にメジャー・デビュー、日本ロック史を「ブルーハーツ以前/以後」に区切る画期をなす。
ブルーハーツ以前、日本でロックがヒットチャートに登場するためには、自らに何らかの粉飾をほどこさなければならなかった。
一つの方法は、歌謡曲を装うことである。八〇年前後のツイストやチャー、クリスタルキングなどを想起すれば分かるように、結果的にはそれは、「歌謡曲ふうのロック」というよりも「ロックふうの歌謡曲」となった。ハウンドドッグもそうかもしれない。八〇年代半ばに至ってもこの事情はそれほど変わらず、例えば尾崎豊にしてもBOφWYにしても、未だ歌謡曲の匂いを消去した純然たるロックとは云い難い。
もう一つの方法は、“キワモノ”として登場することである。TVにおける八〇年前後のサザンオールスターズやRCサクセションは、明白にそのような扱いだった(ここに横浜銀蝿を加えてもいい)。この戦略も八〇年代半ばにはまだ生きていて、例えば八四年デビューの爆風スランプ、八五年デビューの聖飢魔Ⅱ、米米クラブなどはこの流れである。
両者の中間に、ロック的な“なまり”を意識的にしろ無意識的にしろ持ち込む方法がある。フォークから発展あるいは堕落した形態である“ニューミュージック”的な装いの中に、分かりやすすぎる例では「繁華街」を「ストリート」と強弁(?)したり「ガキども」を「キッズ」と称したりの“なまり”を持ち込むのである。この“なまり”が、一種エキゾティックな効果をもたらす。私より四、五歳上の、青いムーブメントにおける年長の世代に人気のあった浜田省吾や佐野元春などがこれにあたろう(もっと以前の矢沢永吉もこれか?)。
ブルーハーツは、このどれにも当てはまらなかった。音は、スリーコードを基本とした単純明快な、いわゆる“ビートパンク”である。ビートパンクは、八〇年代半ばのインディーズ系ロックにあって、まあ主流であった。BOφWYもラフィン・ノーズも、そうである。ブルーハーツの発明は、これに、一歩間違えば童謡や唱歌になりかねない、一度聴いたら覚えられるほど簡単なメロディを乗せたことである。日本語を、しょせんは輸入音楽であるロックのリズムにいかに乗せるかというのは六〇年代以来、日本ロックが抱える最大の難題であり、これに何らかの解答を与え得たミュージシャンはもうそれだけで“偉大”になれた(桑田佳祐、忌野清志郎……)が、ブルーハーツもまたそうであった。例えば一小節に音符が八つあるなら歌詞も断固として八音節! というのは、誰でも思いつきそうで誰も(恥ずかしくて?)やらなかったまさに“コロンブスの卵”であった。
もちろん、ブルーハーツにおいてより重要なのは、音よりも歌詞である。音が重要なのは、この方法によって何よりもその歌詞がストレートに聴き手に伝わる結果をもたらしたからである。
ブルーハーツの歌詞の革命性は、手垢のついた形容になるが要するに「等身大」であったことに尽きる。「思っていることをそのまま口にするのは恥ずかしい」という、ある意味では「八〇年」ムーブメント以来のロック系ミュージシャンへの縛りを、ブルーハーツは完全に解き放ってしまった。
ブルーハーツは当時、「社会派バンド」とよく形容されたが、その歌詞の「社会派」性は、何も天下国家の問題へのジャーナリスティックな言及(それこそ浜田省吾や佐野元春がやりそうなこと)によるのではなく、学校や家、あるいは職場において、自らが日々感じている違和感や苛立ち、それを超え出たいという欲求を、ロックふうに“なまる”ことなく、また抽象化したり隠喩化したりすることもなく、直球で表現したことに由来する。
そのことでブルーハーツは、同じような違和感や苛立ち、欲求を強く感じていた若者たちに、熱狂的に支持された。私たちはブルーハーツの作品を、音楽というよりはアジビラを読むような感覚で聴いていたし、ファンになるというよりも“頼もしい同志を発見した”ようにその登場に歓喜した。
ところがブルーハーツの発表する作品は、急速につまらなくなっていった。八七年五月のデビュー・アルバムは、全曲これ非のうちどころのない(青臭くてちょっと恥ずかしいのはまあよいではないか)傑作だったが、同年十一月のセカンドアルバム『ヤング・アンド・プリティ』には二、三、「んん?」という曲がまぎれこむ(「星をください」など)。八八年十一月のサード『トレイントレイン』になると、むしろ「んん?」の方が過半数である(質の悪いファンには人気のある「電光石火」や「僕の右手」ももちろん「んん?」のうちである)。
ひとつには、ブルーハーツは自らに冠せられた「社会派バンド」のレッテルに抗ったのだと思う。ブルーハーツは本人たちの意識としてはべつに「社会派」を気取ったつもりはなく、ただ自らの心情をストレートに言葉にしただけである。もちろん先述したように、そのレッテルは必ずしも不当なものとも云えない。ブルーハーツは確かに、「社会派バンド」であった。本人たちにそのつもりがあろうとなかろうと、そうである。しかしそれは結果にすぎないのだから、ことさらに否定する必要もなかったはずである。
しかし日本のロックには、伝統的に「社会派かラブソングか」というような不毛な二分法が厳然として存在し、しかもその場合なぜか「社会派」であることは作品としてのレベルは低いことになっている。“スピリット”が評価されることはあっても、多くは“作品としての出来はともかくとして”とでも云いたげなニュアンスを含む。そのためだろう「社会派」のレッテルを貼られそうになったミュージシャンは、そうではないことを必死に弁明し、「自分は社会問題について、ラブソングを歌うように歌っている」などといった、意味不明の云い訳を始めたりする。不毛である。
ブルーハーツも「社会派かラブソングか」というこの不毛な二分法の罠にはまったのだと思う。「社会派」のレッテルは返上したい、しかし本当に「社会派」ではなくなってしまうことにも不安があったのだろう、サード『トレイントレイン』にはそんなブルーハーツの動揺を反映した珍妙な曲がいくつかある。例えば「ミサイル」や「風船爆弾」である。これはいかにも「社会派」なタイトル(ブルーハーツの「社会派」性が、先述のように社会問題へのジャーナリスティックな言及によるものではないという点をふまえれば、むろん悪い意味で)である。しかし実際に内容を聴いてみると、本当にどうでもいい、ラブソングとしても質が高いとは云えない、要するに無内容なものである。「風船爆弾」は軽快で楽しいナンバーであり、私は決して嫌いではないが、それはそれ、これはこれだ。「無言電話のブルース」、「お前を離さない」なども、駄作とまでは云わないが、なんだかヤケッパチな感じである。
すでに触れたように、このサード以前、同じ八八年七月の段階で、これはブルーハーツ史上初めてのはっきりとした駄曲「チェルノブイリ」をわざわざインディーズで発表していた(ちなみにこの頃、これはまぎれもなく傑作であるRCサクセションの『カバーズ』と、このブルーハーツの駄曲「チェルノブイリ」の他にも、反原発運動の高揚を背景としたいくつかの「反原発」ソングが発表されている。私の知る範囲ではまず、やはり八八年八月の佐野元春「警告どおり、計画どおり」がある。これは先の二作と並んで当時それなりに話題にはなったが、出来は「チェルノブイリ」と同レベルであるし、そもそも佐野元春なのだから仕方がない。また戸川純が同じく八八年九月、ヤプーズ名義のアルバム『大天使のように』で「去る四月の二十六日」を発表している。こちらはあまり話題にはならなかったし、私もちゃんと聴いた記憶がないのだが、もちろん四月二六日とはチェルノブイリ原発事故の日付である。他にも、私が把握していない当時の「反原発ソング」はいくらかあると思う)。
ブルーハーツの最後の、そして私が思うにその全活動史をとおしても一、二を争う傑作であるのが、八九年七月の「平成のブルース」である。すでにサードアルバムに収録されていたこれまた名曲「青空」のシングルカットに際して、しかもカップリング曲として発表されたものだから、おそらく熱心なファンしか知らないマイナーな曲ではある(後にベスト・アルバムに収録されたので今では多少知られるようになったかもしれない)。十分近い長尺の曲でありながら、一つのメロディーだけを何の展開もなく延々と繰り返すこのロックンロール・ナンバーは、メンバー中もっとも「社会派」イメージが濃い(実際に何らかの運動経験があるのではないかと邪推したくなるほど)ギタリストの真島昌利が、この八九年時点での苛立ちや焦燥感をこれ以上ないというほどの生々しさでぶちまけた、完全にヤケクソ・モードの作品である。要所要所で登場するのは「いつまでたってもおんなじことばかり/いつまでたってもなんにも変わらねえ/いつまでたってもイライラするばかり」というフレーズ。「いいわけしなけりゃやってられねえぜ」、「被害者ヅラして何云ってやがる」、「名誉白人がいい気になってら」……と前後の脈絡などおかまいなしに断片的なフレーズが絶叫調で歌われ、また合間合間に短い単なる絶叫や唸り声が何十回となく繰り返される。ラスト近く、この年からの新元号「平成」にかけて「Hey,Say!」と叫んだ後、「ロックンロール・スターになりてえな/ロックンロール・スターになりてえな/ブルーハーツのマネすりゃいいんだろ」と、まさにブルーハーツによって「本当のロック」に覚醒させられ後に続けと奮起した支持者たちにとって、その支持が熱烈であればあるほどショッキングな捨てゼリフを吐き、最後にまた何度か短く絶叫して、曲が終わる。曲は終わるが、真島はまだ叫んでいる。そういうもう、ムチャクチャな作品である。
私は、この「平成のブルース」の後、ブルーハーツには何らかの新しい可能性があり得たと思う。初期衝動につき動かされての暴走には、いつか終わりがある。走り続けているうちに、いつのまにか思いもよらなかった異様な場所に身を置いてしまっていることに、ある時ふと気づいて愕然とする。盲目的な暴走がもうそれ以上は続けられなくなる、いつか訪れる特異点だ。「平成のブルース」は、この特異点で歌われた曲である。その先、一体どうすればいいのだろう。
ブルーハーツがこの曲を発表した八九年夏の時点で、私はまだ初期衝動に依拠する盲目的な暴走を続けている。しかし私もいずれ、この特異点に立つことになる。その先の選択(というほど自覚的なものではなく現実には「暗中模索」なのだが)を、私は誤らなかった。と、思う。その結果、現在の私はファシストを自認するに至っている。ファシストになることだけが正しい選択だとは云わないが、少なくともブルーハーツは、ここで誤った。
こういう云い方が、熱心なファンにありがちな紋切り型であることは重々承知の上で、それでもそう云うしかないではないかと思って云うのだが、結果から見ればブルーハーツはこの「平成のブルース」を最後に解散すべきであった。実際、本人たちも(とくに真島は)そうしたかったような気配もある。この八九年十一月、真島はソロ・アルバム『夏のぬけがら』を発表する。これはいいアルバムである。「社会派」性はまるでないし、また時代状況的な意味もまったくないが、単に「いい作品」ではある。ブルーハーツの「危機」を、なんとなくは感じつつもそう深刻なものとは気づいていなかった当時の私は、この真島のアルバムをあまり認めがたかったが、今から思えば真島の「逃亡」はやむを得ない。
そう。『夏のぬけがら』において真島は完全に「逃亡者」であった。収録された曲はどれもノスタルジックで感傷的で、この時まだ「暴走」の渦中にあった私には白けてしまうようなものだったが、逃亡と云って悪ければ真島はまさに“感傷旅行”に出かけていたのだ。本当は真島はイチヌケしたかったのだろう。ならばかつての岡林信康のように『俺らいちぬけた』宣言してしまえばよかったのだ。が、真島は岡林と違ってそもそもはソロ・ミュージシャンではない。甲本ヒロトか真島かのどちらが欠けてもブルーハーツは成立しないのだから、真島が断固として自らの意思を貫けばブルーハーツは解散する他なかったはずだが、逆にだからこそでもあったのだろう、真島は“旅行”から帰ってきてしまった。
ブルーハーツは解散しなかった。
翌九〇年九月、四枚目のアルバム『バスト・ウェスト・ヒップ』発表。その冒頭に収められた「イメージ」は、まさに犯罪的と云ってよい内容だった。これ以前の明白な駄作「チェルノブイリ」には、駄作とはいえ同情の余地がある。しゃにむに暴走を続けていく過程では、たまに間違うこともある。「チェルノブイリ」には失望したが、しかしそれだけのことだとも云える。しかし「イメージ」を聴いて私は、怒りに震えた。「どっかのボウズが親のスネかじりながら/どっかのボウズが原発はいらねえってよ/どうやらそれが新しい流行なんだな/明日はいったい何が流行るんだろう」。これは裏切りである。反原発は流行でもあったが、単に無意味な流行であっただけではない。多くの人が原発の存在に怒りを覚えたことにはちゃんとした正当性がある。それは「どうせ流行にすぎない」などというシニカルな物云いや、「そんなことは経済的に自立してから云え」みたいなスリカエで否定しきれるようなものではない。ブルーハーツは何の必然性があってそんな退屈で通俗的な「世間知」に拝跪するのだ。しかもブルーハーツの「チェルノブイリ」こそは、まさにブルーハーツの云う「流行でしかない反原発」に便乗する低レベルな作品だったのである。
「転向」はよい。「転向」すること自体を責めるのは愚かなことである。しかしもっとマシな「転向」はあり得なかったのか?
かくしてブルーハーツは、最悪の形で「青いムーブメント」から戦線離脱した。このアルバム『バスト・ウェスト・ヒップ』に関して、マイナスの方向ではあるが歴史的に重要な意味を持っているのは冒頭の「イメージ」一曲である。あとは、もはや歴史とは関係がない。ブルーハーツの試行錯誤は、以後、音楽的な洗練だけを目的として(時々ブレながらも)おこなわれる。『バスト・ウェスト・ヒップ』収録の「ナビゲーター」をはじめとして、水準に達した“いい作品”は後期ブルーハーツにも(さらに現在のハイロウズにも)たくさんあるが、初期のような、単に“いい作品”である以上のものは一つとしてない。そのような“いい作品”なら、べつにブルーハーツに求めなくとも、他の多くの“いいバンド”や、それこそさだまさしの中にだってある。唯一の例外に思える五枚目収録の「トゥー・マッチ・ペイン」は、実はデビュー前からすでにあった曲である。
八〇年代後半のいわゆる「バンド・ブーム」には素晴らしいバンドが他にも数多く存在した。メジャーどころでは八三年デビューのストリート・スライダーズ、八四年デビューのレベッカ、八五年デビューのバービーボーイズ、聖飢魔Ⅱ、爆風スランプ、八九年デビューのユニコーン、ザ・ブームなどがいる。前に触れた辻仁成のエコーズは八五年のデビューである。私はあまりピンとこなかったが、八六年にはレッド・ウォーリアーズがデビューしている。はっきりと嫌いだったBOφWYは八二年のデビュー。その後の展開はともかく当初はそれなりに新鮮だったXのデビューが八九年である。その他に主なところではゼルダが八二年、ラフィン・ノーズが八五年、有頂天、SIONが八六年、レピッシュが八七年、アンジー、筋肉少女帯、エレファントカシマシが八八年、ニューエスト・モデル、ザ・ピーズ、カステラが八九年、などである。これらはすべてメジャーデビューの年で、それ以前にインディーズ作品で広く認知されていたり(八七年の筋肉少女帯「元祖・高木ブー伝説」など)、逆にデビューはしてもブレイクは遅れたり(ストリート・スライダーズの人気が高まるのは八五年頃、など)といった時差はある。これら個性的なロック・バンドが百花繚乱に咲き乱れ、ついに日本のヒットチャートから演歌や歌謡曲をほぼ一掃してしまった現在の状況へと至る決定的なきっかけとなる。
初期ブルーハーツは革命的であったが、反面、パンドラの函を開けてしまう役割をも果たしたことを無視できない。
ブルーハーツの「等身大」の歌詞は、「感じたこと思ったことをそのまま口に出すのは恥ずかしい」という、それまでのロックの不文律を解除した。
ブルーハーツの場合、それはこの社会とうまく折り合っていけない者が、衝動に憑かれて発した「等身大」の言葉であったのだが、そのことは、社会となあなあでやっている多数派の若者たちが我も我もとどうでもいい「自分語り」を始める結果をももたらした。
その代表格が、八八年五月にメジャー・デビューしたジュン・スカイ・ウォーカーズである。音的にはブルーハーツとまったく同質であり何のオリジナリティもないジュンスカ(当時の私たちは軽蔑をこめて「ジュンカス」と呼んでいたが)の曲は、しかしブルーハーツ以上に続けざまにヒットした。多数派の感性に立脚しているのだから、当然と云えば当然かもしれない。若い人には、ちょうど椎名林檎と矢井田瞳の関係を想起してもらえばよい。同じく八九年にデビューのクスクス、バクなども含め、“ブルーハーツまがい”のビートパンク・バンドが続々と登場し、夢や希望を安売りする青春応援歌(私たちは「頑張れロック」と蔑称した)が日本ロックの一大ジャンルと化し始めた。
デビュー当初はナンセンスで痛快なコミック・バンドであった爆風スランプも、ブルーハーツのデビューから約半年を経た八七年十月の『ジャングル』以降、すでに青春応援歌へと路線変更していた。「ランナー」が八八年、「リゾ・ラバ」が八九年である。サンプラザ中野はもともとリベラルな発言が多く、普通の意味で「社会派」のタイプではあったが、「ランナー」を収録した八八年の『ハイランダー』はまさに、「日本のロックの社会派作品は質が低い」の見本のようなアルバムである。そういえばサンプラザ中野は、山本コータローや南こうせつと共に、例の「広島平和コンサート」を主導した人物であった。
無内容な青春応援歌----頑張れロックといえばその筆頭は八六年「マイ・レボリューション」(本人作詞ではない)でのブレイク以来(デビューは八五年でこれまた本人作詞ではないが「アイム・フリー」!)、一貫してその路線をひた走った渡辺美里もいる。本人作詞による「悲しいね」(八七年)、「恋したっていいじゃない」(八八年)など、渡辺美里は「ブルーハーツ以前」から存在する、頑張れロックのパイオニアとも云うべき存在である。
他に当時の著名(?)頑張れロッカーとして永井真理子(八九年「ミラクル・ガール」、九〇年「ZUTTO」)、リンドバーグ(九〇年「今すぐキス・ミー」)などがいる。
多数派のフツーの若者たちは、これら頑張れロックを聴いて、何を頑張るのか? もちろん、日々の無意味で味気ない学校生活や、受験勉強、あるいは日々の労働を「頑張る」のである。「つらいこともいろいろあるけど(内省的になって本質的な解決策を模索したりせずに)とにかく頑張る」のである。息苦しい管理社会化が進行する中、放っておけば暴発しかねない若い潜在的不満分子を、過剰なセンチメンタリズムや自己劇化、あるいは没論理的でやみくもな声援で思考停止に追い込むことによって、頑張れロックは現状維持に大きく貢献する、字義どおり体制の補完物、反革命装置なのである。
「等身大」のロックを解禁することで、ブルーハーツは結果としてパンドラの函を開け、考えの足りない多数派の若者たちが「等身大」の言葉で互いになぐさめ励まし合う、頑張れロックという「悪魔の軍勢」を解き放ってしまった。
私はもちろん、この点に関してブルーハーツを責めようというのではない。ブルーハーツでなくたって、こんな結果は誰も事前に予測できるものではない。しかし、歴史的に見て「感じたこと思ったことをそのまま口に出せばそれが表現だ」という頑張れロック(九〇年代半ばにはそれは「癒しロック」とでも呼ぶべきものへと変質し、現在に至る)や、どうでもいい自分語りのフォーマットを、後にJポップと呼ばれる分野で提示してしまったのは、間違いなくブルーハーツである。
これとまったく同じことが、「ニュース・ステーション」にも云える。久米宏も、「ニュース・キャスターが報道の中で自分の意見を口にすること」を解禁した。その成功を受けて他のキャスターどもも、久米宏のような天才的話芸の持ち主でもないくせに、どいつもこいつもニュースの合間に、多数派の視聴者に迎合しその固定観念をますます強化するだけの、くだらないコメントを差し挟むようになった。これがやがて、九五年のオウム報道を機に一気に爆発するマスヒステリー状況へとつながってゆくのだから、久米宏もまたブルーハーツ同様、パンドラの函を開け「悪魔の軍勢」を解き放ってしまったのである。
----これらもまた、いくら強調してもしきれないほど重大な、青いムーブメントの暗黒面である。
現在ではバンド・ブームの代名詞のような印象になっているTV番組「イカす! バンド天国」----いわゆるイカ天についても少し触れておかねばなるまい。
当時のことをおぼろげにしか知らない若い人たちや、あるいは当時のことを知っていても記憶が混乱している人の中には、イカ天という大ヒット番組があって、バンド・ブームが生じたような誤解もあるかもしれないが、もちろん順序が逆である。前述したようなバンド・ブームがあって、云わばそれに便乗する形で、イカ天が始まったのである。
アマチュア・バンド発掘をメインの内容とした深夜番組・イカ天は、年表で確認してみると、意外にそれほどの長寿番組ではない。
スタートが八九年二月、最終回が翌九〇年の十二月である。二年にも満たないのだ。
この比較的短期間に、この番組への出演を足がかりにメジャー・デビューし、それなりに日本ロック史に名をとどめることになるバンドが、もう大量にある。主なものを挙げても、フライング・キッズ、ジッタリン・ジン、ビギン、たま、マルコシアス・バンプ、ブランキー・ジェット・シティ……など錚々たる面々である。他に頑張れロックのくだりでも触れたクスクスや、これもすでに言及済みの社会派コミックバンド「えび」もメジャー・デビューのきっかけはイカ天だったようである。
たしか土曜深夜の放送だったので、その時間帯はたいてい例の街頭ライブをやっていた私は、そう熱心な視聴者ではなかったが、イカ天は非常に良質な番組だったように記憶している。当人が「八〇年」のラジカルな文化運動を経験している演劇人の三宅裕司が司会であったのもよかったし、審査員にも、その評価眼に信頼のおけるロック畑のベテラン・ミュージシャンや音楽評論家を揃えていた。異色の審査員としては、日本ロック史上最も極左的なバンド・頭脳警察のパンタ、アナキストとして著名なルポライターの故・竹中労などもいた。
その評論が竹中労の遺作ともなった、イカ天出身バンドの代名詞的存在である「たま」については改めて触れよう。
青いムーブメントに関連して、とくに八九年の音楽状況について語る時、絶対に外すわけにいかないのがタイマーズである。
八九年の広島平和コンサートに飛び入り出演、「偽善者」などというとんでもない歌で観客の度肝を抜いたのがその颯爽たる登場となったタイマーズは、ゼリー、ボビー、パー、トッピを名乗る(六〇年代のGSバンド、タイガースのパロディである)四人組のバンドで、みな建築現場の作業員であるという。いで立ちもガテン系労働者の現場姿そのもので、ボーカルのゼリーにいたってはヘルメットのみならず、サングラスとマスクをして要するに新左翼の過激派スタイルである(マイクも普通のマイクではなく、アジ演説に使うようなトランジスタ・メガホンであった)。顔をさらしている三人の正体がいずれもマイナーメジャーな位置で活躍しているいくつかのバンドのメンバーであることは一目瞭然だったが、顔を隠しているゼリーの正体も、声を聴けばどう考えてもRCサクセションの忌野清志郎である。
八八年の反原発アルバム『カバーズ』の騒動の後、RCサクセションは同年暮れに『コブラの悩み』と題したライブ・アルバムを発表していた。『カバーズ』問題にモロに言及した、怒り丸出しの内容だが、『カバーズ』を発売中止にした東芝EMIがこれを普通に発売したのは、騒動の拡大に懲りたのか、却って話題作として売れると開き直ったのか。
あくまでも自分はキヨシローではないと云い張る「ゼリー」(雑誌インタビューなどでも常に覆面姿だ)は、『カバーズ』騒動に「他人事ながらも深い怒りを覚えて」バンド結成を決意したのだという。
広島での衝撃的な登場以来、タイマーズは頻繁にゲリラ的なライブ活動を展開し、会場では録音自由、それをダビングして配布するのも自由と呼びかけた。
また八九年十月にはフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に生出演し、「FM東京、腐ったラジオ、FM東京、最低のラジオ、FM東京、政治家の手先」と歌ったばかりか、曲の合間に「FM東京オマンコ野郎」などと放送禁止用語を連発、大問題になった。ちなみにFM東京は『カバーズ』騒動の時、他局にさきがけて「問題の曲」を放送自粛とした局である。
タイマーズはもちろんTimersとつづり、時計のタイマーのことで、同年十一月の、当時はこれ一枚きりのアルバムの歌詞カードでも、表記はすべて「Timer」となっている。が、聴く側の心がけが悪いのか、「タイマーズのテーマ」などどうしても「大麻が欲しい」「いつでもどんな時も大麻を持ってる」「大麻が切れてきた」……などと歌っているようにしか聞こえない。ジャケットもまあタバコの吸い殻のようでもあるが、別のもののようでもある。もちろん発売元は東芝EMIだが、頻繁なライブ活動で話題の的になっていたタイマーズのアルバム発売を持ちかけられた時、ゼリーが「原発がダメでなぜ大麻がいいんだ!」と激怒したとかいう話も漏れ伝わっている。
大麻(いやタイマー)がらみの曲の他にもこのアルバムの聴きどころは多く、鶴田浩二の「傷だらけの人生」(「古い奴だとお思いでしょうが……」という語りが有名な)のパロディで、バンドブームで二束三文の低レベルなロックバンドが大量発生した現状を嘆く演歌調(古賀メロディふう)の「ロックン仁義」、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」での厳戒体制をほのめかす程度にだが(しかしこれほどの大問題にわずかながらでも言及した日本のメジャー・ミュージシャンを、少なくとも私は他に知らない)批判的に歌った「カプリオーレ」、『カバーズ』問題がらみの「3部作」などが収録されている。もちろん先述の「偽善者」も入っている。シングルカットされて大ヒットした「デイドリーム・ビリーバー」にはそのテの楽しみはないが、モンキースの同名のヒット曲の“直訳ロック”で、これまた普通に傑作である。
タイマーズにはさまざまの逸話があるが、他に私の印象に強く残っているのは、福岡でのライブで、会場である九州電力所有の「電気ホール」(!)を意識して、「これなら文句はないだろう」と「原発賛成」を(観客とのかけあいでしつこく何度も)連呼する、「原発賛成音頭」なる厭味ったらしいナンバーをやっていたことなどである。
とにかくこのように、タイマーズの言動は何から何まですべてが痛快この上なかった。
八七年から八九年にかけてのブルーハーツ革命と、八八年の『カバーズ』騒動から八九年のタイマーズへと展開する忌野清志郎(とゼリー)の一連の活動とが、八〇年代後半の青いムーブメントの文化領域における頂点である。
付け加えておけば頭脳警察が、七五年末の解散以来約十五年ぶりに再結成されたのが九〇年六月(再結成発表は四月二九日つまり旧「天皇誕生日」におこなわれた)である。翌九一年五月には再び解散するが、この日本ロック史上もっとも極左的なバンドの短い復活劇も、青いムーブメントの高揚と無関係ではないだろうと私は思っている。