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青いムーブメント(17)


   17.

 八九年の私の活動はざっと以上のような感じだが、例によって時代状況全体について触れておきたい。
 云うまでもなく八九年は世界史的に最重要の年である。何よりもこの年、東側世界が大変動を起こし、要するに戦後四十年あまり続いた冷戦が終わった。
 ゴルバチョフの改革開放路線に刺激を受けた中国の若者たちがまず起ち上がった。
 四月半ばから突然高揚しはじめた民主化運動は、五月に入ると、広大な天安門広場を大群衆で埋めつくし、占拠するに至った。
 これに対し中国共産党政府は戒厳令を布告、民主化運動を「反革命暴乱」と規定して、六月四日未明、天安門広場を武力制圧した。学生・市民側の死者は少なくとも数百、おそらく数千人にのぼると見られる。この「天安門事件」によって中国の民主化運動は頓挫し、その後も参加者の逮捕・処刑、学生指導者らの亡命などが相次いだ。
 中国の民主化運動は武力で鎮圧されてしまったが、まもなく東欧情勢が急展開を始める。
 五月にハンガリーが西側オーストリアとの国境にある鉄条網の撤去を開始、夏頃から、ここを経由して西側へ脱出しようと、大量の東ドイツ市民がハンガリーへと流入しはじめたが、ハンガリー政府はこれを黙認した。
 九月にはポーランドで、民主化勢力「連帯」主導の新内閣が成立。
 十月には、右に見られるように既に改革路線へと転じていたハンガリーの共産党が、党名を社会党に改称、また国名もそれまでの「人民共和国」から単なる「共和国」へと変更された。
 こうした東欧の改革、民主化運動は、五六年のハンガリー、六八年のチェコスロバキア、それに八〇年のポーランドなど、過去にも幾度かの高揚を見せたことがあるが、それらはすべて、東側世界の盟主・ソ連が直接間接に介入し、頓挫させてきた。
 しかし八九年のソ連は、ゴルバチョフによるペレストロイカの真っ最中である。ゴルバチョフのソ連は、こうした東欧諸国の事実上の「ソ連離れ」を容認、むしろ支援した。
 ソ連の改革開放政策が本物であると分かると、その後の展開は早かった。
 東ドイツでも連日のデモや集会が始まり、十月のうちに共産党のホーネッカー議長が辞任、十一月九日には、ついにあの「ベルリンの壁」が崩壊する。
 私より四、五才以上若い、九〇年代に入って以降に物心ついた世代、まして二〇〇五年現在十代後半に突入しようとしている、まさにこの「九〇年」にうまれた世代にはピンとこないかもしれないが、当時これは本当に驚天動地の出来事だったのである。
 結果的にはベルリンの壁が存在したのはわずか二八年間のことだったのだが、若い人たちはぜひ、七〇年以前に生まれた大人たちに訊いてみてほしい。第三次世界大戦つまり全面核戦争が勃発するという悲劇的展開以外の道筋で、冷戦が終結するなんて、当時は想像だにできない夢物語だったのだ。米ソが数千発の核弾頭をもって互いに睨み合い、膠着状態に陥ってしまった冷戦構造というのは、ほとんど永遠に続く他ないものと感じられていた。当然ベルリンの壁も、未来永劫、東西ベルリン市民を分断してそこにそびえ立っているものだと。
 もちろん反戦反核を唱える私たち西側の左翼は、冷戦構造にしろベルリンの壁の存在にしろ、そんな理不尽なことは一日も早く終わらせてしまいたいと考えていた。しかし、どうすれば本当に終わらせることができるのか、私たち自身にも皆目わからなかったのである。それはおそらく幕末に、倒幕運動に邁進した志士たちの多くが、まさか本当に幕府が倒れるとは夢にも思っていなかったというのと似ている。
 私たちはゴルバチョフの登場に喝采し、期待したが、それでも実際に夢見ていたのは、せいぜいのところ冷戦構造の「緩和」であった。それくらい冷戦構造というのは、いかんともしがたい堅牢強固な現実として全世界を覆っていたのである。
 私は現在、左翼ではないし、若者の右傾化おおいに結構と考えてもいるが、しかし若い人たちがあまりにも安易に「サヨ」批判をおこなうその口ぶりに、一方でどうしてもなじめないものを感じている。じっさい左翼はどうしようもないし、はっきり云ってみんな死ねばいいのだが、若い人たちにはもう少し想像力をたくましくして、ある強固なシステムの中で模索せざるを得なかった世代の悲喜劇に思いを馳せてほしいのである。
 ポーランド、ハンガリー、東ドイツに続いて、チェコスロバキアとブルガリアでも大規模な民主化運動が始まり、やはり共産党独裁政権は、あっというまに崩壊した。
 極めつけがルーマニアである。
 近隣諸国で燃え上がる民主化運動の、国内への波及を食い止め、なかなか盤石に見えた共産党のチャウシェスク政権だが、十二月二一日に首都でおこなわれた政府系の集会が、まぎれこんでいた勇気ある市民の「チャウシェスク打倒!」の一声で魔法のように混乱、瓦解し、あっというまに反政府集会へと劇的な変貌をとげる。そして内戦、市民側の勝利、チャウシェスク大統領の拘束・処刑まで、たったの五日間である。
 これら「東欧革命」がすさまじい勢いで進行するさなかの十二月三日、ゴルバチョフとレーガンが地中海マルタ島で緊急会談、ついに米ソ首脳によって「東西冷戦の終結」が宣言される。

 天安門事件と東欧革命は八九年の大事件だが、世界情勢の革命的な変動は、この前後に他の地域でも連鎖的に起きている。
 前に述べたように、八六年にはフィリピンの独裁者マルコスの政権が打倒された「フィリピン革命」が起きているし、八七年に韓国で激しくなった民主化運動も、八八年はじめには、ついに全斗煥大統領の軍事政権を崩壊させるに至る。
 またビルマ(ミャンマー)でも八八年に大規模な民主化運動が発生、やはり軍事政権がいったん崩壊する。結局ふたたびクーデタによって軍事政権復活となり現在に至るが、民主活動家スー・チーの動向に国際的な関心が集まるのがこの八八年以降である。
 インティファーダと呼ばれる、自然発生的な民衆蜂起がイスラエル占領下のパレスチナで始まったのも八七年の暮れのことである。この蜂起の中心となったのも伝統的なパレスチナ解放運動とは異質な若い世代で、蜂起の手段も投石が主であった。
 さらに少し先の話になるが、九一年、南アフリカ共和国で、少数の白人支配者による徹底的な黒人差別政策、いわゆるアパルトヘイトの撤廃がおこなわれる。この背景にも、七〇年代から粘り強く進められた現地の闘争に加えて、とくに八〇年代後半になって高まる反アパルトヘイトの国際世論がある。
 これら第三世界----「南」の諸国の劇的な変貌も、冷戦構造の崩壊と連動している。前に少し触れたように、第三世界の軍事政権、独裁政権の多くは、米ソいずれか(あるいは中国など)の支援によって守られていた。
 キューバやベトナム、あるいはニカラグアなど、稀に独裁者打倒が成功する例はあったにせよ、結局のところ冷戦構造は第三世界諸国の体制に対しても、現状維持の強い圧力として作用していた。その重しが、八〇年代の後半、徐々に緩み始めて先に挙げたさまざまの変革を結果する。
 「東」と「南」の革命的変化は、明らかに連動していた。
 それでは「北西」----要するに西側先進国ではどうだったのか?

 九一年刊行の笠井潔『ユートピアの冒険』は、後に私が大いに影響を受ける本だが、その中で笠井はこう書いている。
 ----一九八九年に革命的激動にみまわれたのは「南」と「東」の諸国のみであり、それどころか「西」の諸国は、いまや冷戦の勝利とか「歴史の終焉」とか浮かれている有様なんだ。----
 八〇年代後半に「南」と「東」は激動したが、「西」ではそれに類することは何も起こらなかった、という印象は、一人笠井に限らず、むしろ一般的に共有されている。
 しかしそれは違うということを明らかにするのが、私の今回の「自伝」の目的である。
 日本においてそれら「南」と「東」の激動に対応するのが、一連の「青いムーブメント」である。これについて私は今、八八、九年の段階まで記述を進めてきた。もちろん、まだ先がある。
 では西欧やアメリカではどうだったのか?
 実は私は、よく知らない。
 しかし、日本国内で起きた重要なムーブメントの存在さえ、まったく「なかったこと」にされているような状況である。他国のことともなれば、なおさら何も情報が入ってきていないだけだとしても不思議ではない。
 私に外国語の能力があれば、今やインターネットなどで原資料にあたっていろいろと調べることも可能だろうが、残念ながら私は日本語しか読めない。しかしその範囲でも、やはり何かありそうだとは分かる。音楽のムーブメントについては、日本でも比較的詳細に紹介されているからである。
 ちなみに私は、当時の洋楽をリアルタイムではまったく聴いていない。すでに書いたように、八七年まで私はさだまさしと中島みゆきをはじめとする「ニューミュージック」ばかり聴いていたし、十七歳で「ロック」に目覚めてからも、ブルーハーツやエコーズなど、国内のそれしか聴いていなかった。八九年にDPクラブの活動が本格化してから、相棒の森野拓郎の影響で「洋楽も聴かなきゃ」と思い始め、レンタル屋に通ったが、何から聴けばいいのか分からないのでとりあえずスタンダード・ナンバーを集めたオムニバス盤を借り、その中から自分の好みに合うミュージシャンを発見しては、それら個々のミュージシャンのアルバムに進んだ。著作権の関係だろう、この頃はまだそのテのオムニバスには七〇年代いっぱいまでの楽曲しか収められていなかったので、必然的に私の洋楽知識は、六〇年代、七〇年代に偏ることになった。こういう聴き方だったから、私は自分が二十歳前後の頃の洋楽を、リアルタイムではまったく知らずにいたのである。私がさかのぼってそれらを聴き、ある程度その時代の洋楽状況をイメージできるようになったのは、実は今回の獄中生活を終え、出所してからのことである。
 調べてみると、八〇年代後半の洋楽シーンは、かなり「熱い」のである。
 イギリスでは当時、「マンチェスター・ムーブメント」と呼ばれるものが盛り上がっている。以下はすべて資料からのまったく受け売りだが、これは八〇年代後半から九〇年代初頭にかけて、北部の工業都市マンチェスターで発生した、ダンス、ロック、ドラッグ三位一体のムーブメントである。らしい。アシッド・ハウスと総称される、ドラッグ・カルチャーと結びついたダンス・ミュージックが八七年頃から盛んになり、これとギター・サウンドが急接近、そこへさらに「エクスタシー」という新種のドラッグが流入して、マンチェスター・ムーブメントを巻き起こした。この状況は“セカンド・サマー・オブ・ラブ”とも呼ばれたが、もちろん・ファースト・の“サマー・オブ・ラブ”は六〇年代末の例のアレであるから、つまり当事者たちの認識としても、これは六〇年代末以来の一大ムーブメントだったのである。
 具体的には、八〇年代初頭から活躍していたニュー・オーダーを導火線として(もっとさかのぼると、七〇年代末のパンク・ムーブメントとも密接な関係があるらしい)、ハッピー・マンデーズ、ストーン・ローゼズなどが代表的なバンドである。ムーブメントを回想する、『24アワー・パーティ・ピープル』という映画が二〇〇二年に公開され、私が獄中にある頃、話題になっていた。
 同時期の、アメリカのロック・シーンも熱い。
 そもそもパンク・ロック発祥の地は七〇年代半ばのニューヨークなのだが、アメリカ国内ではそれはごくローカルな現象にとどまり、イギリスへ飛び火して一大ムーブメントと化して以降もそれが還流することはなく、アメリカのロック・シーンにおいてパンクはずっと異端的傍流の立場に置かれていた。MTV全盛の八〇年代半ばには、せいぜいREMが健闘していた程度である。
 九一年発表のニルヴァーナ『ネバー・マインド』で火がついた「グランジ」の隆盛は、一周遅れのアメリカ版パンク・ムーブメントなのだが、このニルヴァーナやサウンド・ガーデン、スマッシング・パンプキンズなどグランジの代表的なバンドが活動を開始したのも八〇年代半ばから後半にかけてである。これらと時期を同じくして、もっと早くから地道な活動をおこなっていたソニック・ユースやダイナソーJrなどもブレイクする。
 八〇年代アメリカのロック・シーンの推移を調べていくと、現実的にはマイナーな動きだった町田町蔵など第一次パンク・ムーブメントから、有頂天やラフィン・ノーズなどインディーズのムーブメントを経て、エコーズやブルーハーツの登場、さらに「イカ天」などバンド・ブームの爛熟へと向かった日本の同時代のロック・シーンの推移と、どうもかなり近いものを感じざるを得ない。
 以上受け売ってきた英米八〇年代後半の熱いロック史であるが、私にはこれが単に音楽分野に限定された熱気であったとは信じられないのである。日本の洋楽ジャーナリズムは、おそらくそれに携わるライターや編集者の無知あるいはココロザシの欠如のためだと思うが、さまざまの洋楽ムーブメントの背後に厳然として存在する政治的な文脈をまったく無視して、単にエンタテインメント情報の提供に終始する困った傾向がある。洋楽の最新モードを輸入することに何十年もいそしんでかくも洗練されてきた現在の「Jポップ」シーンが相変わらず極度に非政治的であるのは、この国における洋楽ジャーナリズムの怠慢の結果だと私は考える。
 ともかく、日本のシーンともかなり似た展開をしている八〇年代英米ロック・シーンの背後に、日本の「青いムーブメント」に対応するような、何らかの総体的なムーブメントが実は存在しており、単にそれが日本には報じられていないだけである可能性を私は強く疑っている。
 政治的な背景の存在が明らかなものとして、八〇年代のアメリカには、ヒップホップのムーブメントもある。単にリズミカルな演説の類であるラップと、壁だの電車だのとにかく街じゅうに落書きしてまわるグラフィティと、ブレイク・ダンスとが合体したこの黒人文化運動が形成されはじめたのは七〇年代後半だが、一般に広く認知されるのは八六年、ランDMCのブレイクによってである。翌八七年にはさらに、バンド名からして政治色の強さは明らかなパブリック・エネミーが登場、アメリカのヒットチャートをこれらラップ・ミュージシャンの過激な作品が侵食しはじめる。
 断片的な印象でしかないのだが、ラッパーたちが六〇年代後半の戦闘的な黒人指導者マルコムXにしばしば言及することや、あるいは先述のマンチェスター・ムーブメントが“セカンド・サマー・オブ・ラブ”と称されることなど、英米の「九〇年」もやはり日本のそれと同じように「七〇年」と没批判的に結びついているように見える。
 が、何しろ日本以外の「西」の「九〇年」の全体像は、私にもよく分からないのである。これを解明するのは今後の課題である。私としては、「九〇年」は「南」と「東」の激動であり、「西」にはそれらしいことは何も起きなかったという“常識”はかなり怪しく、少なくとも日本に関しては完全な誤謬であるということを現段階では主張できるのみである。
 ただし、以下のことは重要である。
 「九〇年」に「南」や「東」の運動が掲げていた「民主化」という目標は、歴史的には何の目新しさも持たないものだった。それは「西」ではとうの昔にほぼ実現していたものであり、「西」の世論は彼らの運動に共感し、またとくに「西」で「九〇年」を闘った私たちは興奮もしたが、それは例えばかつての新左翼運動の世界的高揚のように、何かそれまでにない斬新な解放のイメージを提示するものではなかった。結局、「南」や「東」の人々は、私たちにとってむしろ退屈ですらある「西」の政治体制や生活様式を実現しようとして熱くなっていた。
 実はこの点、少なくとも日本の青いムーブメントにしても大差なかった。すでに述べたように日本の「九〇年」は、過去のムーブメントからの無節操な「引用」で構成されており、それは旧世代からすれば単に過去の反復であるばかりか、場合によっては後退にすら見えたことだろう。私は当時どこかで、岡林信康の「私たちが望むものは」と、RCサクセションの「ラブ・ミー・テンダー」(『カバーズ』中もっとも“問題”視された曲)とを比較して、その後退ぶりを嘆く全共闘世代の批評家の文章を読んだ記憶がある。
 当時もちろん自覚してはいなかったが、私たちの運動は何ら新しい価値を提示しなかった。少なくとも日本の青いムーブメントは、この点でも「南」や「東」のそれと同じ質を持っていたと、その同時代性を逆説的に主張することができる。

 先へ進もう。
 八九年時点の国内の動向である。

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2006年08月19日 11:02に投稿されたエントリーのページです。

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