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青いムーブメント(16)


   16.

 八九年十月の、初期DPクラブの崩壊までを書いた。
 私と森野拓郎の他に、残った重要メンバーは二人いる、その一人がまず福原史朗であるという話。
 福原は私より三つ年下で、ということは彼がDPクラブに最初に連絡をよこした八九年五月の時点では、まだ高校に入学したばかりであった。
 彼が通っていた県立鞍手高校は、私の活動拠点である福岡市中心部から東へ数十キロ離れた、筑豊地域にある。
 たしか初めて電話をもらった時に、数日後に大阪の高校生集会か何かへ行く準備をしていたところで、私はそれにいきなり福原を誘い、福原がそれを快諾し、当日もちろんヒッチハイクだから九州自動車道の鞍手パーキング・エリアで待ち合わせ(だからそれが初対面だ)、そのまま大阪まで同行させた記憶がある。青いムーブメントに参入すると、とにかくいきなりめまぐるしい展開が待っているのである。
 福原は快活な好青年で、どうやらそもそもは体育会系らしい。私よりは、笘米地に近いタイプだ。
 DPクラブにならってか、「LEPクラブ」なる----自由・平等・平和らしい----数名のグループをまもなく校内で結成。まあ、誰だって最初はこの程度のセンスだ。
 その後、やはり笘米地のように生徒会活動を中心とした学校変革運動を推進してゆく。

 もう一人は、武田金八のペンネームでDPクラブ機関誌によく投稿していた、篠田隆史(仮名)。
 篠田と福原は同い年だから、やはりこの時期まだ高校一年生である。
 篠田が通っていたのは、長崎県立壱岐高校だが、長崎県の離島・壱岐と福岡市とは船で直結していて、片道二時間かからない。篠田は月に一、二回のペースで、玄界灘の荒海を越えDPクラブのフリースペースに顔を出した。
 云うまでもないが、福原も篠田もブルーハーツのファンである。当時、社会派の若者は----一水会など新右翼へと走ったヒネクレ者を別として----ほとんど全員がそうだったと云っていい。
 ただ篠田は、ブルーハーツ以上に尾崎豊に入れあげていたように記憶している。また、私が村上龍の『69』を読んだのは、たしか篠田の勧めによるものだったと思う。

 福原も篠田も、要するに少し遠方から参加するメンバーだったのである。
 フリースペースに毎日のように出入りしていた近在のメンバーは、ただダベり合うことで学校への不満をガス抜きしていたが、福原と篠田の場合にはそういうわけにいかない。
 自然、かつての私のように日々、自分の通う学校で運動をやらねば問題は解決しないという現実に直面するから、実際よく闘い、当局と衝突を繰り返すことになる。しかし「学校変革の拠点」たるべきDPクラブのフリースペースにたまに顔を出すと、常連たちは学校では何もせず、ただお喋りに興じている。「そんなことをさせるためにフリースペースを開設したんじゃない」という私の苛立ちを、常連たちはまったく理解できず、逆ギレして私から離れていったが、福原や篠田は、それがよく理解できる立場にあったわけだ。
 私、拓郎、そして福原と篠田を中心として、運動再建のための模索が続けられた。

 「街頭ライブ」のことも書いておかなくてはならない。
 街頭ライブという言葉を、私はいつのまにか普通名詞のように使うようになっていたが、よく考えるとそれは、たぶん「街頭演説」などから連想した私の造語である。
 要は今で云うストリート・ミュージシャン、繁華街の路上でギターを持って歌うことである。
 現在ではすっかりありふれた風景になってしまったが、そもそもこれも八〇年代後半の青いムーブメントの産物なのである。
 もちろん私は、「フォーク・ゲリラ」という言葉を知らないわけではない。六〇年代の反戦フォークのムーブメントの過程で、路上で弾き語りをする文化は発生した。
 「七〇年」の山を越え、反戦フォークは四畳半フォーク、さらにニューミュージックへと堕落していったが、七七年デビューの長渕剛もアマチュア時代に福岡の路上で歌っていたというから、路上弾き語り文化は反戦フォーク衰退後もしばらくは惰性で続いていたのだと思われる。
 しかしおそらくそれは、七〇年代いっぱいぐらいでいったん途切れているはずである。
 原宿ホコ天のような例外はおいといて、何でもない繁華街の路上で弾き語りをする文化は、一時期、完全に消滅していた。
 私は西南学院中時代、福岡市の中心街を毎日のように徘徊していたが、少なくともその八三年から八六年にかけて、いわゆるストリート・ミュージシャンは一度も見かけたことがない。
 生まれも育ちも東京都心部である、「九〇年」派最大の理論家・鹿島拾市も、まず新宿コマ劇場前などにストリート・ミュージシャンをチラホラ見かけるようになったのは、八七、八年からだと証言している。
 私の知っている範囲では、他に例えば札幌でも、八九年か九〇年、最初にストリート・ミュージシャンとして街頭に登場したのは、実は札幌ほっけの会のメンバーで、当時大学生の加納友之であったと聞いている。
 福岡では、私である。
 私が初めて街頭ライブをやったのは、まだ初期DPクラブ崩壊前の、八九年八月のことである。
 きっかけは、ちょっと特殊だった。
 当時まだ私は福岡の無党派左翼運動の大人たちにチヤホヤされており、彼らのあるイベントの情宣ビラまきの際、賑やかしに横で弾き語りでもやってくれないかと頼まれたのである。
 場所は福岡市の中心街・天神、西鉄福岡駅前の路上である。当時はそっちがメインだった、北口の方だ。
 かといって別にオリジナル曲があるわけでなし、ソラで弾けるのはブルーハーツ数曲だけだったから、私は仕方なくそれをひたすら繰り返し歌った。
 当時、そんなところで歌っている人など見たこともなかったから、もちろん恥ずかしかったが、これも運動のためだとヤケクソな気持ちで歌い始めた。
 ところが、思い切って始めてみるとなかなか楽しいのである。
 しかも当時ブルーハーツは、一部の若者にとって「特別なもの」だったから、同世代の、感性の近そうな人間が次々に足をとめ、場合によっては話しかけてくる。
 これだ、と思って以後頻繁にやることにした。
 拓郎は、反「管理教育」の運動よりも、むしろこの街頭ライブに魅力を感じたようだ。といっても当時の拓郎は楽器を弾けなかったから、バック・コーラスや、時にタンバリンを持参したり(これが抜群に上手いのだ)、ホーキを持参してギター代わりに「弾」いたり(派手なアクションつき)、得意の火吹きの芸を披露したり、主として音楽以外(?)の要素で活躍した。
 街頭ライブへの参加を続けたくて、八九年十月にいったんはDPクラブを去ったメンバーも二人、戻ってきた。
 一人は新庄雄樹(仮名)である。
 彼は私の一つ年下で、当時高校三年生である。福岡市南区のはずれにある県立柏陵高校という、典型的な「管理教育」の高校に通っていた。
 いかにもオタク的な風貌で、コミュニケーションに難があり、図体がでかくて見た目の迫力があるからいじめられはしないが、アブなそうだから距離を置かれる、というキャラだった。エコーズの大ファンである。
 もう一人は、首藤良彦(仮名)。
 彼も新庄と同い年だったが、いろいろ事情があるとかで、当時まだ高校二年生だった。福岡市中心部にある、県立福岡中央高校に通っていた。
 重度のゼンソクを抱え、内向的な少年だが、ベースの腕前には絶対の自信を持つバンドマンでもあった。
 街頭ライブをつうじて頻繁に会い、話をするうちに、新庄と首藤、とくに以前はあまり話し込む機会のなかった首藤の方が、DPクラブの主力メンバーとして復活した。新庄と違って首藤は、理屈を苦手としないタイプであることが、この差となったように思う。
 ただ、そもそもは新しい同志発掘の手段として続けていた街頭ライブは、半年もしないうちに、私にとって半ば以上、「労働」へと変質してしまった。
 この八九年はじめに出た『ぼくの高校退学宣言』は、年末にはすでに過去のものとなり、新しい読者からの連絡が途絶えたばかりか、執筆や講演の依頼もぱったりとやんで、私はほぼ無収入の身となっていた。
 しかし、街頭ライブ中に試しに前に帽子や空き缶を置いてみると、投げ銭が入ることに気づいてしまった。他にストリート・ミュージシャンなど一人もいない時代だから、珍しがられて、面白いように入った。しかしフリースペースの維持費から活動費からすべてまかなわなければならないとなると、もっとカネの入る場所をということで、九〇年に入る前後には、西鉄福岡駅前から少し離れた歓楽街である親不孝通りへ移動した。時間帯もそれまでの、中高生や予備校生、大学生たちの帰宅タイムである夕方ではなく、夜の八時九時以降となった。これでは当初の「同志発掘」の目的は果たせないが、背に腹は代えられない。
 これで私は、金曜土曜の夜にそれぞれ三、四時間の街頭ライブをやるだけで生計を立てられるようにはなったが、街頭ライブの活動と、反「管理教育」の活動とが次第に自分の中で乖離しはじめた。街頭ライブは事実として半ば以上は「労働」と化していたが、「面白い同世代と出会うための運動でもある」という意識もどこかに残っていた。
 もちろん完全に色分けできるわけではないが、これ以降、拓郎と新庄はどちらかといえば主に街頭ライブ運動の仲間、福原と篠田と首藤は主に反「管理教育」運動の仲間、という感じが強まっていった。首藤は先述のとおりバンド少年だったが、一緒に音楽をやるには、私の側のレベルが低すぎたのである。

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2006年08月11日 18:39に投稿されたエントリーのページです。

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