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青いムーブメント(15)

   15.

 では地道に続きを書いていこう。
 その前に、書き落としたことがいくつかある。獄中で書いた「生原稿」にも、「後で書き足せ」という意味だろう、二ヶ所に書き込みがある。
 一つは、「尾崎タイホ」とある。
 尾崎豊が覚醒剤だか大麻だかで逮捕されたのは八七年十二月のことである。尾崎が獄中にいた約二ヶ月と、私が筑紫丘高校で「政治活動」を理由に無期停学処分を受けていた時期が、ほぼ重なっている。
 私が尾崎豊をいくらか聴き始めたのはこれ以後のことだが、というのも、この事件の直後、オールナイト・ニッポンで鴻上尚史が尾崎についてひとしきり熱く語ったからである。その内容までは覚えていないが、それまで番組でブルーハーツを強力にプッシュしていた鴻上尚史がここまで熱くなるんだから、きっと尾崎にも聴くべき何かがあるのだろうと私は思ったのである。
 もっとも、この事件を境に、尾崎豊の人気は下降していったように思う。もちろん警察のご厄介になるような問題を起こしたからではなく、単純に作品がパッとしなくなっていったためである。むしろ創作に行き詰まった結果、ドラッグに溺れたような印象がある。
 調べてみると(シャバでは分からないことがあるとすぐ調べられるのがいい)、八五年十一月に三枚目のアルバム『壊れた扉から』を出した後、まもなく無期限の活動停止を発表して、単身ニューヨークへ渡っている。
 私が動く尾崎豊を初めて見たのも、ブルーハーツのそれと同じく、NHKで放送された八七年の「広島平和コンサート」の映像でだったが、あれはどうやら活動再開まもない時期のパフォーマンスだったらしい。異常な印象を受けたが、資料によれば約一年間のニューヨーク生活でドラッグの習慣を身につけてしまったのだとある。
 私が最初に(ちゃんと)聴いた尾崎作品は、逮捕直前に出ていたシングル「核(コア)」である。まさにドラッグ浸けの真っ只中で作られた作品で、はっきり云って駄作だが、私は実はこれがけっこう好きなのである。要するにここには何かロック産業の「真実」が真空パックされているような感じがする。
 釈放後数ケ月を経て、尾崎はまた活動を始め、九二年四月に急死するまでに三枚のアルバムを発表している。それらがまったく売れなかったわけではないし、人気もそれなりに安定してはいたようだが、すでにムーブメントの担い手としての役割は終わっていたと思う。やはり尾崎のピークは、前に書いたように八〇年代半ばであった。逮捕事件の後の尾崎は、もはや歌うべきものなど何も持っていないのに、惰性で歌い続けていたような気がする。日本ロックのスタンダードとして定着した代表曲も、初期三枚のアルバムに集中している。
 突然の死によって再び脚光を浴びる形にはなったが、九二年の時点ですでに尾崎はいったん「過去の人」となっていた。この文章は、私と異なる世代の人に読んでもらうことを念頭に書いているので、こうした細かい前後関係について、ひとつひとつ確認しておきたいのである。
 あとこれは獄中でもうすうすそうじゃなかったかと思いつつ、確証がなくて書かずにいたことだが、尾崎のカリスマ的な人気を決定づけた、例のコンサート中の骨折事件、あれはやっぱりACFのステージでの出来事だったようだ。

 「生原稿」にはもう一つ、「ヒッピーとパンクスの出会い」と書き込みがある。これも「後で書き足せ」ということだろうから、そうする。
 この書き込みがあるのは、八八年の反原発運動の高揚を概観したくだりである。
 すでに書いたように、それ以前の反原発運動というのは、原発が建設されている現地の農民・漁民を中心とした地味な運動でしかなかった。それが突然、全人類的(?)課題として浮上した。
 運動は、四国電力本社前という、要するに都市のド真ん中にいきなり出現した。北海道でもそうだったし、東京でも、東京電力本社前や、通産省前などの路上が原発の是非をめぐる攻防の主戦場となった。
 この運動には、ヒッピーが多く参加していた。
 七〇年代をとおして、ヒッピーは田舎に隠遁しているのが普通だった。都心で生活している者が、本格的なヒッピーと出くわす機会はほとんどなかった。反原発運動の高揚が、二十年ぶりに大量のヒッピーを都会へ呼び戻したのである。
 同時に、反原発運動には、若いパンクスが多く参加していた。
 つまり反原発運動は、「七〇年」で時間の止まった元若者と、「九〇年」の現役の若者とを、共に闘う仲間として都心の路上で出会わせたのである。本来は相容れないはずのヒッピー的な感性とパンク的な感性とが(そもそもヒッピー・ムーブメントの否定こそが、パンク・ムーブメントの根底にあったモチーフの一つだ)、何か親和的なものとして交歓した。
 私はこのことを、何か重要なことを象徴するエピソードとしてことさらに強調して書いている。
 カンのいい人は、もうこれだけでおぼろげに何かが見えてきそうな気がしているはずである。私自身、何を云わんとしているのか明示できない。しかし何かここに歴史の重要な秘密が埋もれているという直観だけがある。

 他にも一つ重要なことを書き落としていることに、出所後に読み返して気づいた。
 「軽薄短小」な「八〇年」のムーブメントに乗り遅れ、むしろ「軽薄短小」に反発したより若い層の引力圏をなし、青いムーブメントの源流・基盤となった八〇年代前半の政治運動として、私は、青生舎とピースボートとACFを挙げた。
 しかしもう一つ重要なものを忘れていた。
 一水会である。
 全共闘の時代に右翼学生としてこれと対峙し、しかし逆に強く影響もされてしまったらしい鈴木邦男が主宰する右翼団体である。
 三島由紀夫の自決に衝撃を受け、七二年に結成。もともと従来の「親米愛国」型の右翼運動には否定的で、「反米」を掲げて六〇年代に登場した「新右翼」の流れに属するグループである。
 特に鈴木は、七〇年代に爆弾事件をたて続けに起こした「東アジア反日武装戦線・狼部隊」の自己犠牲的な精神に感動し、七五年『腹腹時計と<狼>』を書いた。右翼であるはずの鈴木が、左翼の中でも最も先鋭的な集団に共感を示したとされる同書だが、私の見方はまったく逆である。
 話が脱線するが、私は「東アジア反日武装戦線」は右翼団体だと認識している。前にも書いたように、七〇年の「華青闘告発」以後の左翼は、自らが日本人や男性や健常者であることに原罪意識を抱き、第三世界人民や女性や障害者に滅私奉公することを路線化する倒錯に踏み込んだ。「東アジア反日武装戦線」こそはその極北に位置する運動で、彼らは「反日共和国」とでも呼ぶべき、まだ見ぬ理想の共同体のために命を捨てる闘争を展開したのである。結局、鈴木ら右翼と「東アジア反日武装戦線」との違いは、命を捧げるべき対象が、日本という「すでにある国」か、「まだ存在しない国」かというにすぎない。鈴木はある意味、外国の右翼運動に、同じ右翼として共感を示したようなもので、私はそれをまったく不思議には思わないのである。不思議に思うべきは、「東アジア反日武装戦線」のような右翼運動が、世間一般では左翼に分類されていることや、さらには左翼の大多数や、あるいは「東アジア反日武装戦線」のメンバー自身が、それを左翼に分類しているという現象の方である。脱線おわり。
 一水会は、実際には火炎瓶使用ていどの武装闘争もやっていたし、八二年には例の見沢知廉らによる「スパイ査問」の殺人事件まで引き起こしているのだが、八〇年代半ばには、何やらポップでカジュアルな、まったく新しい反体制運動であるというイメージが定着していた。
 例えば八四、五年に『朝日ジャーナル』の名物企画であった、編集長・筑紫哲也による連続インタビュー「若者たちの神々」にも、鈴木は登場している。他に登場するのは、浅田彰、糸井重里、坂本龍一、ビートたけし、椎名誠、野田秀樹、戸川純、橋本治、中沢新一、細野晴臣、高橋源一郎、鴻上尚史、南伸坊、タモリ、桑田佳祐、田中康夫……とにかく「八〇年」のサブカルチャー・ムーブメントを牽引したヒーロー・ヒロインが総出演する中に、鈴木邦男の名前がある。この一事をもってしても、当時の鈴木あるいは一水会のパブリック・イメージは想像できよう。やはり筑紫哲也によるインタビューである姉妹企画「新人類図鑑」にはピースボートの辻元清美の名もあるが、本編の「若者たちの神々」に登場する中に、政治活動家は鈴木邦男ただ一人なのである(あ、若い人には分からないかもしれないが、当時の田中康夫は政治家ではなく小説家である)。
 八九年にJICC出版局(現・宝島社)から出た『平成元年の右翼』には、こうある。
 ----一水会会員は全国で百名。『レコンキスタ』(機関紙)の購読者数は二千人。(略)。その広(ママ)かれた雰囲気は、鈴木が表現する「学生サークルのようなもの」だ。『レコンキスタ』紙上を見ても、「反体制はもう古い。これからは超体制だ」とか「神武東征は大和への侵略だった」とか「右翼でも左翼でもいいから警察を叩き潰してくれ。うちの署長は私が銃殺する」という現職警官の内部告発など、まさに天衣無縫の過激さ。平沢貞通や永山則夫、そして浜松の一力一家の弁護士として左右を問わない反逆を続ける遠藤誠も毎号のように寄稿している。----
 「八〇年代いっぱいまでは、若者が社会問題に目覚めるということはイコール左翼になるということだった」と前に書いたが、例外がこの一水会である。一水会は、青生舎やピースボートと並んで、「八〇年」のムーブメントに乗り遅れた若者たちの受け皿として存在していた。しかも一水会は、青生舎やピースボートが八〇年代半ばに失速して以降も、私の印象では少なくとも八〇年代いっぱいは求心力を維持していた。
 ただし、八〇年代に青生舎やピースボートではなく一水会に引き寄せられていく、つまり左ではなく右の運動に行ってしまう若者というのは、やっぱり変わりダネというか、たぶん相当にヒネくれたタイプに限られていたと思う。なんか熱いことをやりたいんだが、「平和」だの「人権」だの云うのはこっ恥ずかしいという、鋭いと云えば鋭いが、素直じゃないと云えば素直じゃない、こじれた人が一水会へ流れていたような印象がある。あとで述べるように、九〇年代にはこの構図は逆転する。

 書き落とし問題はこれで解決。
 自伝の続きに戻ろう。

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2006年08月09日 18:44に投稿されたエントリーのページです。

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