13.
私自身にはもちろん、地元・福岡でやることがあった。
軌道に乗り始めた、DPクラブの活動である。
一月末に『ぼくの高校退学宣言』が刊行されて以後、メンバーは急に増えた。短い間にたぶん百名くらいが1DKの「フリースペース」を訪れ、うち三十名ほどが固定的なメンバーとなって、毎日、入れかわり立ちかわり、やってくるようになった。
毎月、機関誌も発行しはじめた。最初の二、三号は草創期にビラを印刷していた共産党系の団体の事務所を使っていたが、だんだん嫌われて、途中からは社会党系の教職員組合事務所で印刷した。全部が購読というわけではなかったが、毎号だいたい二百部つくっていた。
主な活動はビラまきと、結局二回しかやらなかったが、現役中高生メンバーのタレコミ情報をもとに風紀検査のおこなわれる学校に当日出向いて、フェンスの外から拡声器でおこなう抗議行動などだった。
しかし、初期DPクラブはすぐに崩壊した。
理由は要するに、私を含むごく少数の、活動を担い、フリースペースの維持にも身銭を切っているメンバーと、大多数の、それに寄生してただ毎日やってきてはくっちゃべって帰ってゆくメンバーとに、溝ができたためである。
じっさい、各地のフリースペースは、同じようにして崩壊したらしい。私のところにもそれが起きただけだ。
そしてこういう場合、必ず、寄生虫どもは逆ギレして私たちを悪者にし罵声を浴びせながら、集団で去ってゆく。
DPクラブでは八九年十月にそれが起き、残ったのは私と森野拓郎の他、二、三名だった。
私はこのDPクラブ崩壊の過程を、機関誌上でリアルタイムに報告した。それはどこのフリースペースでも生じた現象だったのだが、その無惨な失敗の様子を克明に記録して公表した例は他になかった。その意味で私のやったことは画期的だった。
高校生会議系の仲間たちも、この時期のDPクラブ機関誌を衝撃を受けながら熱心に読んだ。私の株が上がり、森野や沢村が私を対等な「同志」として遇するようになるのは、この時からである。
またこの時期、はじめは突然の崩壊に愕然としていた私を、「おまえは間違っていない」と励まし、何が起きたのか説明し、立ち直るための言葉と方向づけを与えてくれた人物がいる。
それが、秋好悌一だった。
秋好とは、前年秋の「夢一族」のテント以来、数えるほどしか会っていなかった。
秋好は、福岡市中央区大名にある、「悪徳家」という若者向けの古道具屋のオーナーで、一階の店は友人に任せ、その二階に住んでいた。客の中に、気になる若者がいるとそこへ誘い、巧みに煽動して自身をリーダーとする秘密結社めいたサロンのメンバーとした。当時その怪しげなグループについて、私はまったくピンとこず、何なのかよく分からなかったのだが、今思えばあれも一種のラジカルなノンセクトの運動体であった。
“秋好一派”ともいうべきそのグループは、時に「夢一族」福岡公演の制作グループとなり、昭和天皇死去の直後には何やら怪しげなミニコミを発行し、前衛芸術のイベントを主催し、また秋好自らが脚本を書き、演出して、テント芝居を上演した。その小グループにおいて、秋好は絶対的なカリスマなのだった。
当時の私には、秋好のやっていること、考えていることはまったく意味不明だった。しかしこうして当時の印象を思い出し書き並べてみると……何のことはない、九〇年代後半の、私のやっていることそっくりではないか。そして、九〇年代後半の“外山一派”は、その外側からはきっと、八〇年代末の“秋好一派”が私に見えていたように見えていたのだなと、今さらながらに思い当たるのだった。
そんなわけだから、私はこの秋好グループを遠くから眺めていただけだったし、秋好の方もべつにDPクラブのスペースに顔を出すわけでもなかったから、自然、直接に会うことはほとんどなかった。
しかし、秋好グループとDPクラブと、両方に出入りしているメンバーが二、三人いたので、秋好の噂はよく耳に入ってきた。
それによれば秋好は、「DPクラブはいずれ崩壊する。おれはその時を楽しみにしている」などと云っていたそうだ。
DPクラブから集団離脱したメンバーは、市民センターの会議室のようなところを定期的に借りて、集まるようになっていた。もちろん、学校変革の闘いを持続させるために集まっているのではない。単に、一度できあがったサロン的人間関係を手放したくないのだ。彼らはただ集まって、おしゃべりに興じていた。
そこへ私は、何度か顔を出した。「嫌われる場所にこそ、進んで行け」というのが、秋好の“教え”だった。
私が行くと、とたんに空気が張りつめた。
二、三回が、限度だった。
----書いていて、つらい。
DPクラブ分裂の苦い経験を思い出すのがつらいわけではない。
このことについては、今までに何度も書いた。
もうすっかり書き飽きているようなことをこうして書き続けなければならないのが、面倒で仕方がないのである。書いていて、ちっとも面白くない。
八〇年代末の秋好の活動が、実は十年後の自分の活動とそっくりだったこと、反原発運動の終焉の大きな要因は昭和天皇が倒れた“自粛ムード”で勢いがそがれてしまったためであることなど、今回書いてみたことによって新しい発見もあるにはあるのだが、それにしても過去に書いた同じ話をくり返すのはうんざりする。
これまでに書いていないことを書きたい。
例えば、「えび」のことである。
えびは、社会派のコミック・バンドである。
音は、ブルーハーツに似ている。基本はスリーコードのパンクである。
自主制作のカセットテープを、誰かがフリースペースに持ってきた。
八九年三月の高校生会議の宿舎で、酔っぱらった中村と一緒に大声で歌った憶えがあるから、それより前、つまりフリースペース開設後すぐの頃のはずである。
結局あまり売れなかったのだが、九〇年代前半にはメジャーデビューしている。
「キジも鳴かずば撃たれまい」という曲のプロモーション・ビデオでは、弾圧される秋の嵐の映像を使ったりしていた。
えびも、「九〇年」の大事なバンドだ。
例えば、『へそ』のことである。
これもフリースペース賑やかなりし頃、『ぼくの高校退学宣言』の読者が送ってくれた、富山県で発行されたミニコミである。
RCサクセションの『カバーズ』や、本多勝一について熱く、青臭く扱っていた。
富山大学周辺の若いノンセクト・グループが発行したものらしい。
私が読んだのは、創刊二号の一冊だけで、その後、どれくらい続いたのか、それとも続かなかったのかは知らない。もちろん、そのグループと直接連絡をとりあったこともないし、具体的にどういう人たちだったのか、まったく分からない。
しかしこの頃、そんな元気で青臭い社会派の若者たちは全国各地にいて、富山の『へそ』もその中の一つだったのだろうと思う。
書き忘れていたが、向井孝の「号外新聞」である。
向井孝は、愛知県在住の老アナキストである。(註.私がすでに獄中にあり外の様子がほとんど分からなくなっていた二〇〇三年八月に死去。享年八三歳)
「号外新聞」は、“自粛ムード”の真っ最中に、全国に出回った新聞紙大の印刷物である。
手を振る昭和天皇の写真に、大きな見出しで「天皇崩御」。もちろん、まだ死んでいない。
両面にびっしりと、昭和天皇死去に伴うさまざまのデタラメ話を創作して、記事ふうに並べている。どれも、センスがよく、面白い。記事だけでなく、下方の雑誌や映画の広告まで、全部天皇がらみのパロディになっている。
あまりにも不謹慎なもので、もちろん発行元は明らかにされていない。知っている人は知っていたろうが、これが向井孝の作品であると私が知ったのはだいぶ後のことである。
これがあの“自粛ムード”の中、全国に出回った。「面白いものをあげよう」とたまたま知り合った市民運動家から私がそれを受けとったのは、なんと鹿児島においてであった。
私は見ていないが、八九年一月に実際に昭和天皇が死去すると、今度は向井孝は「天皇また崩御」と題して「号外新聞」を出したと聞く。
昭和天皇死去の前後の反天皇制運動で特筆すべきは、秋の嵐とこの「号外新聞」である。
仕方がないから話を戻す。
DPクラブの分裂については、すでに他の文章に詳しく書いた。
秋好との関係についても然りである。
知らない人はそれらを読んでほしい。
ここからはそういうものはどんどん省くことにする。
私と森野拓郎の他に、分裂後のDPクラブに残ったメンバーのうち、重要なのは次の二人である。
まず、福原史朗。
当時高校一年生だから私より三つ年下である。