「後漢書」韓伝
「韓有三種。一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國。其北與〓貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國。其南亦與倭接。」
上記、「後漢書」の韓伝には、
馬韓の南は倭と接している、同じように辰韓の南には弁辰がありその南は倭と接していると記述している。
「三国史魏書」韓伝
「韓在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。」
魏書にも同じように韓は帯方の南にあって東西は海を以て限りと為し南は倭と接していると明確に倭国の存在を記述している。
魏書韓伝には更に「辰韓」について、
「國出鐵、韓、わい、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢」
辰韓では鉄が出産するが倭もこれを直接に採っていると記述している、韓国人の主張するように必ずしも倭国が輸入していた訳ではない、朝鮮半島に住む倭人がこれを取り利用していた、それを日本列島に持ち込んだのも倭人である。更に言えば伽耶などの出土遺物などは倭人の使ったものである可能性が大きい。証拠として伽耶や新羅の出土した金冠には日本製の勾玉が大量に取り付けられている。伽耶から出土した武具や伽耶琴などは倭人の使ったものであろう。
辰韓の風俗についても同書は、
「辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身」
当時の風俗は、倭人に近いとある。
朝鮮の歴史書である「三国史記」には、
新羅第一代、二、三、四代に亘って宰相である瓢公はもと倭人であると記述している、更に第4代、脱解王は倭国にある多婆那国の出身であり釜山付近の倭国の領域と思われる金官国を経由して新羅の王になったとある。
このように倭国の朝鮮半島南部の領有は「日本書紀」や「高句麗好太王碑」の解釈だけでの論理展開ではない。最近、韓国人が盛んに投稿している対馬島の話など論外である。
参考・報告書にかかれない韓国の古墳
http://www.hani.co.kr/section-009000000/2001/09/009000000200109062248001.html
事実をもみ消す韓国歴史学会(前方後円墳)
韓国南西部の全羅南道の光州外れと栄山江川端には5‾6世紀の前方後円墳が10余期確認されている。韓国では伝統楽器の長鼓に似ているので「長鼓形古墳」と呼んでいる、又日本風に「前方後円形古墳」とも呼んでいる。この墳墓は学者たちの発掘対象からはずれ掘り出しても報告書を書かないのが決まりであった。
忌避する理由は単純であある。 3‾5世紀古代日本の墳墓と同じであり、円筒状姿の土器類副葬品も日本墓周りに列を作って置かれた埴輪にも差がないからだ。朝鮮文化の日本伝播だけ教えた教科書常識と大きく食い違い、日本書紀にある大和政権の朝鮮半島への影響を考えざるを得ない事実に直面したことだ。
これら遺跡は韓国学界がもみ消して来た、つまり日本への歴史的優位性の主張が学会というより挙国的態度であり逆は認められないと言うコンプレックスがある。それでも 最近は「土着勢力が圧迫した百済を牽制して日本勢との同盟を強化するなどの政治的背景で日本のアイディアを借りただけだと主張した」「栄山江流域の土着集団は百済、倭、伽耶など多角的な交流をもっていた。前方後円墳など倭と関連した遺物はこうした状況で現われた」と述べ、交流がもたらした産物であるなどと苦しい理由付けを発表している、あくまでも倭国の存在は過小評価しなければならないようだ。
何れにしても、韓国歴史学会が朝鮮の歴史を「朝鮮美化」という一定の枠にねじ込んで、それに外れることはもみ消し挙国的態度で「歴史の建て直し」(捏造)に加担していることは確かだ。