■麻生政権の成立にともない、私の番記者生活がスタートしたが、正直いうと、4カ月たったいまもまだ、番記者の仕事になれない。耳慣れない用語や習慣なんかも多い。「経読み」「壁耳」って何?オフレコといっているのに書いていいの?官房長官らの「慎重に考慮します」「前向きに検討します」という発言はどういう意味?
■ちなみに「経読み」とは法案の趣旨説明。お経を聞いているのと同様、眠くなるから。「壁耳」というのは、クローズドの委員会などのとき、会議室のドアの隙間に耳をあてて、中の話を聞くこと、もしくはその内容。それって盗聴やん。それを記事にかいていいんですかぁ?→いいんだそうです。でも、それなら委員会室に盗聴器しかけたり、その外で集音機(探偵さんとかがつかっているやつ)で、声をとって記事書いてもいいってことにならないのか?これはダメだそうだ。では補聴器は?ガラスコップを扉に当てるのはいいのか?疑問はつのる。
■オフレコとは、聞くだけ、書いちゃいけない、ということだが、書いていいんですか?→いいんだそうです。ただし、名前はださない。秘書官の発言は「首相周辺によると」、官房長官は「官邸首脳によると」、官房長官・官房副長官は「政府高官によると」と言い換えれば、OK。って、それじゃあ、誰が言ったかもわかるし、オフレコという意味がないではないか。
■欧米の記者にはオフレコ、っていうのは通じない。懇談会などで、当事者がこれから言うことはオフレコですといえば、ほとんどの記者たちはぞろぞろ出ていく。なぜかというと自分がつかんでいる情報と、オフの場で言われたことが一致すれば、それは永遠に封印しなければならないから。欧米ではオフといえば、その情報自体を墓場にもっていけ、という意味。日本の場合、完全オフレコ(完オフ)という言葉もあるが、これも実は完全に完オフではなくて、別のところで同様の情報をきけば、それは書いていいことになるらしい。懇談会などで完オフといいながら、その翌週の週刊誌にその内容ばばんばん流れていること自体、完オフの意味なし。これが、「口約束」「契約」というものに対する日本人の姿勢なのだろう。
■官房長官らが会見などでよく言う「慎重に検討します」「慎重に考慮します」といは、「検討しません」「考慮しません」という意味らしい。ふつうの「検討します」は「検討するかもしれない」という意味らしい。「早急に検討します」「前向きに検討します」は「一応、検討するつもり」「できることなら検討したい」という意味らしい?
■そして、なにより、まず政治部記者である、といこと自体に慣れていない。
■政治部記者の大半の仕事は記事を書くことではない。取材ですら、なかったりする。普通の新聞記者の仕事は、記事を書くために取材する。取材した情報の中から自分で吟味して、ウラをとって記事を書く。その記事が反響を呼べば、記者の自尊心をみたし、達成感を与えてくれる。その記事が誤りであったら、記者自身の責任であり、始末書かいたり、減俸になったり、懲戒処分になったりする。
■しかし、政治部記者は必ずしも、自分の記事のためだけに取材をするわけではない。私の仕事などは、ただ「情報を上げる」だけ。しかも、その中身の吟味、取捨選択すら自分でしない。とりあえず聞いたこと、覚えていることは部長、キャップ、サブキャップを含め、政治部員全員にメールで送る。たまに、あれ書いて、これ書いて、と指示を受けるが、それも自分の原稿を直接デスク(編集者)に出すのではなく、まずキャップやサブキャップが原稿を書き直し、それをデスクに出す。つまり、アンカーがキャップやサブキャップ、デスクと2段階になっているわけだ。まあ、特ダネ一面トップといった特別な原稿なら、そういう慎重な体制というのも必要かもしれないが、20行の世論調査の発表原稿まで、こういう形式となる。いままで、書きたいものを自分で取材し、書きたいスタイルで書く仕事が圧倒的に多かった私としては、この窮屈さがストレスのもとである。
■しかも、行動範囲がきわめて限定されている。だいたい同業者(総理番)なら同じ場所にいきつく。つまり首相のいるところ。しかし次第に、他社と同じ場所にいるかどうかが、総理番にとって重要になってくる。たとえば総理番は、首相の夜の会合の張り番をしていて店の前でまっている。首相はすでに自宅にかえったとしてもさらに待つ。その店から他にどんな政治家がでてくるかまって、その政治家にどんな話をしたか聞かねばならないからだ。
■待てど暮らせど、誰もでてこない。え、もう午前1時。う~、帰りたいなあ、キャップ、もう誰も出てくる気配なですから、かえっていいですか~?と電話をかけると、キャップの答えはだいたいどの社も同じ。「他社はどうしている?」「読朝毎がねばっています」「しゃあないな、がんばってくれ」「いつまで待つんですか」「他社の番記者が帰るまで」、という具合になってしまう。
■でも、出てきた政治家が、首相番記者に何か重要なことを話すはずはない。政治家は自分の番記者にしか口をきかない、から。で、出てきた政治家を確認して、その政治家の番記者に連絡すると、その番記者が時をあらためて、その政治家および取材する、わけだ。
■政治部記者とは、つまるところ、みんな誰かの番記者。政治部記者とは番記者集団だといっていい。もちろん、行革担当とか、道州制担当とか持ち場を振り分けられている人もいるが、基本は長官番だったり、幹事長番だったり、国対番だったりするわけだ。たいていは複数の番を掛け持ちしている。
■番記者は、会見や懇談会に出席するのは当然、夜に宿舎や自宅の前で張って、帰宅のときに話を聞いたり、朝出勤のときに駅で待ち伏せして話をしたりして、信頼を築き、話を聞く。政治家は番以外の記者とは普通、口をきいたりしない、みたいだ。だから、口をきいてもらえる番記者は一種の特別待遇に微妙に優越感を感じたりしていることもあるかもしれない。
■ちなみに総理番は、首相に話しかける機会は、「番懇」とよばれる年2回程度の懇談会とぶらさがり取材以外、まずない。正式の記者会見や外遊先の内政懇で質問するのはキャップクラス。ということで、総理番記者が首相と雑談したりして仲良くなったり、信頼を築けることは、まずない。麻生さんと仲がいい記者、信頼を築いている記者というのは、麻生さんが首相になる前から、ずっと麻生さんの番をしていた「麻生番」と呼ばれる記者。従って、総理番とは、番記者でありながら、番対象から相手にされない、なかなか切ない仕事なのだ。
■政治というのは一般に国政、つまりまつりごとを指すが、内向きにみると、権力ゲームといえる。で、番記者というのは、私の観察するかぎり、けっこう自分の番についてる政治家に肩入れする傾向がある。というか、番記者です、と名刺をきってしまったら、批判は書きにくい雰囲気がありそうだ。番している政治家やその周辺からネタをとらなきゃいけないわけだから、嫌われちゃ会ってもらえない。もちろん、それが新聞協会賞なみに大スキャンダルの抜きネタであれば、義理も人情もふっとぶのだろうが、普段は義理と人情にしばられる、もよう。
■というわけで、麻生番記者は麻生さんに肩入れし、小沢番の記者は小沢さんに肩入れする傾向が強い。よって野党の政治家の番は、野党の視点から、与党の政治家の番は、与党の視点から、と、集めてくるネタのスタンス、方向性が違う。一般に政治記事で一番読まれる内幕ものは、そういういろんな義理人情にしばられた番記者たちの、違うスタンスのネタを総合して、キャップとかサブキャップの人がまとめる、という形になることが多い。
■で、自分の番をしている政治家が出世(?)すれば、その番記者の政治部内でのポジション(?)もあがる傾向にある。麻生番の人は、麻生さんが政調会長であったときは政調会長番、幹事長のときは幹事長番となる。麻生さんが総理になると、麻生番記者が官邸キャップになることが多いかもしれない。官邸キャップとは官邸発のニュースの責任をにない、出稿方針にも最も影響力をもつポジションで、麻生番が官邸キャップになると麻生政権に擁護的な記事が多くなる、かもしれない。
■しかし、世論が民主党支持に傾くと、小沢番記者とか民主党の政治家の番をしている記者の政治部内発言力が増す傾向になるし、読者の喜ぶ記事、読みたい記事が、民主党の動向・発言に集中すれば、あるいは現政権の批判に集中すれば、自然と野党政治家の番の出稿やネタも増える。新聞記者の「出世」はネタの大きさ・数と出稿量できまるから、番記者たちもみずから番をしている、パイプができてネタがとれる政治家の出世を願うのだ。
■政治部は省庁のクラブに所属する記者や選挙班などをのぞけば、官邸(政府・内閣担当)、平河(与党担当記者)、野党(おもに民主党担当)などに振り分けられ、それぞれキャップがいて、記事を出稿するのだが、短期政権だな、選挙が近いな、などと世論の動向など眺めつつ編集局の偉い人たちが判断すると、自民党政権下でも、民主党とのパイプが太い人が官邸キャップになったりする。そうすると、官邸クラブから出稿される記事も、微妙に政権早くかわれ~みたいな念のこもった内容になることも。民主党政権になれば、民主党とパイプを持つ記者が活躍できる場面が多くなるからだ。
■この政権まだもつな、と上の方々が判断されると、官邸キャップが小沢番から麻生番に代わったりする。とたんに麻生政権に好意的な記事がふえたり。官邸記者クラブのメンバーを総入れ替えするとき、「解散」といったり、新聞社の政治部って、日本の政治(権力ゲームの方の)の縮図といえるかもしれない。
■産経新聞は「自民党機関紙」なんていわれているくらい自民党寄りの記事が多いらしいが、それは自民党の政治家の番記者の出稿量が多い、ということだろう。でもそれは、読者に自民党寄りの記事を期待する傾向が強いからともいえる。で、産経は自民党寄りだと思われると、自民党の政治家も、産経記者に親近感をおぼえて、いろんな話をしてくれる機会が増える。ますます自民党政治家の番記者の仕事がしやすくなり、自民党寄り読者が集まってくる、という仕組みになる。政治部記者と政治家と世論は、こんな風に相互に影響力があるといえそう。
■というわけで、政治部記者の中にはみずからを、政治のプレーヤーの一員だと思う人もいる。麻生首相のバッシング報道がいちばんさかんだったとき、某新聞社の記者がこんなセリフをいっていた。「ここまできても麻生政権を解散に追い込めない今の政治部記者はなさけない。昔の政治部記者なら、今頃麻生政権は解散になっていた」。報道の力によって支持率を上下させたり、内閣を解散させたり、すきな政治家を首相に押し上げたりやめさせたりできる、そういう影響力の行使こそ、政治部記者の醍醐味、といいたげである。是非論はともかく、権力ゲームの片棒をかつぐ、あるいはフィクサーになることを望む、そういう政治部記者が存在することは確かだろう。
■いままでの話は、特に産経新聞政治部のことを念頭において言ったのではない。まったくの外様の私が政治部で4カ月仕事をしてみて、他社の様子などもみて、漠然と感じたことである。政治部って、こうですよね~、と同じ政治部の同僚などに話すと、「いや、そういう記者もいるけれど、私は違う。自分の番の政治家に対しても、批判すべきは批判する」と言う人もいた。
■いずれにしても、政治部記者とは国家権力の中枢に一番近い場所にいる。ある先輩記者は私が政治部にいったときいて、「権力に近い場所にいくことと、自分が権力をもっていることとは違うから気をつけよ。政治部の記者の中にはそこを勘違いするヤツがいる」と忠告してくれた。また「政治家は記者を利用しようとするし、記者は政治家に利用されてもネタをとりたい」と言う人もいた。まあ、私は今のところ、ヒラの総理番記者なので、そういう権力ゲームに荷担することのおもしろさとか優越感を感じるような場面には出会っていない。いずれ、そういう世界もかいま見ることになるのだろうか。
■入社したてのころは、記者は権力と対峙できるペンという武器をもっていると教えられ、権力におもねらないことこそ、記者の矜恃と教えられた。で、中国で、その教え通り、みずからの信じるところをやってみたら、えらい人に迷惑もかけたし、しかられもした。あんたら、言うてたこととえらい、ちがうやんか、と内心思ったが、結局、権力との付き合い方のかげんの問題なのである。
■そういう私が、今政治部に配置されたということは、権力との付き合い方を一から学んでこい、という会社側の親心であろうと思っている。しかし、やっぱり、この権力というものに慣れない自分を今、感じている。
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by ana5
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