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【東京】

なめ猫 反骨精神といやしのアイドル

2009年1月25日

なめ猫「又吉」の写真を手に、「又吉は私の分身だった」と話す発案者の津田覚さん=渋谷区幡ケ谷で

写真

 一九八〇年代初めに一世を風靡(ふうび)した「なめ猫」は、キャラクター開発などを手掛けるピースマン(渋谷区)社長の津田覚(さとる)さんと捨てられた猫の物語でもあった。

 もともとは近所の男性が捨てようとした雑種の子猫四匹を、津田さんがもらい受けたのが始まり。「生まれたばかりで目も開いていなかった。ぬれた毛をドライヤーで乾かし、粉ミルクを飲ませた」と振り返る。

 猫たちは「又吉」「ミケ子」などと名付けられた。「私を親と思い込んだのか、どこでもついてきた」。会社にもデートにも連れて行き、寝るときも同じ布団の中だった。

 当時の彼女は、フランス人形の服のデザイナー。たまたま、彼女が家に忘れていった人形のスカートとワンピースで遊んでいた猫たちを見て、試しに服を着せてみた。その写真を友人たちに見せたところ「面白い。世に出した方がいい」と皆が絶賛。これが「なめ猫」の誕生だった。

 旬だったツッパリスタイルの学生服を着させ、「なめんなよ」のキャッチコピーで八〇年に売り出すと、若い女性に火が付き、写真集やポスターは爆発的に売れた。子どもにも広がり、運転免許証に似せたカードは千二百万枚の大ヒットになった。人気の理由を「不満がたまっていた時代の空気をかわいい猫が代弁していたのではないか」。

 人気が出る一方で、猫が立っている写真に「棒を入れているのでは」「無理をさせている」など無責任な憶測ややっかみの中傷が飛び交った。

 実際はその逆だった、撮影は三日に一度ぐらいの割合で、服を着せたら十分前後で撮り終えるようにしていた。服も着やすいよう背中からシッポまでファスナーを付け、負担がかからないよう配慮した。本当はしゃがんでおり、立つように見えるのは撮影の角度によるものだった。

 しかし、津田さんは激務で体を壊し、ほかの仕事にも影響するとしてなめ猫はわずか三年半で休止した。

 その後、又吉は十六年、ミケ子は二十四年生き、二世、三世も同様に活躍した。又吉が死んだとき、「私の分身がいなくなったと感じた」と津田さん。

 二年ほど前、「世話になった人」に頼まれ、清涼飲料水のおまけとして当時の写真でなめ猫グッズが復活。その後二百五十種類の申し込みがあるという。「今も反骨精神と、いやしを含んだしゃれが受けているのではないか」 (沢田一朗)

 

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