家族で行った海釣りと、『ドラえもん』の漫画の記憶が印象的だった福岡市での生活。副島家はその後、副島さんが小学1年生の半ばに、東京都町田市へと引っ越す。福岡から、首都圏へ。副島さんを取り巻く環境もガラリと変わった。
「最初に苦労したのは、言葉ですね。それまでベタベタの福岡弁を喋ってましたから、町田に越してきたばかりのときは、話が通じなくて困りました。ただ、子供の環境適応能力はたいしたもので、すぐに抜けましたけど」
遊びのほうでは、この連載でも、たびたびクリエイター諸氏の口にのぼる“ガンプラ”ブームに遭遇する。
「最初に買ったガンプラは“シャアザク”ですね。いいもの手に入れてますよね?(笑)駅があって栄えてる街じゃなくて、建て売り住宅の集合と公園と商店街をパッケージにして建築会社が売り出した、箱庭みたいな街なんです。どの家も同じ形だから、遊びに行ってトイレの場所をわざわざ聞かなくてもわかるのが取り柄(笑)。そんな街なので、他に比べてガンプラは手に入りやすかったんですよね」
もちろん学校も、大規模な新興住宅地のために作られた学校。小学生の遊び場所も、住宅地のエリア内に限られていた。そんな環境の中で、小学生時代の副島さんがハマったものを挙げてもらうと?
「ガンプラのほかでは、『Dr.スランプ』のアラレちゃんがブームでしたね。“なめ猫”とか。基本的に、世間でブームだったことが好きでした。80年代を振り返る番組に出てきそうな、ベタベタなヤツばかりですね(笑)。
テレビっ子だったので、アニメも『ガンダム』のほかは、『ゴールドライタン』が大好きでよく観てました。全然カッコよくないんですけどね(笑)。友達が持ってた、ゴールドライタンの超合金が羨ましかったですね。あとは……『ポールのミラクル大作戦』(笑)。他には、『スター・ウォーズ』。コーラのオマケを集めてました。映画のほうは、あまり記憶にないんですけど……(笑)」
スーパーカー・ブームがやってきたのもこの時代。副島さんも、家にランボルギーニのポスターが貼られていたのを覚えている。もちろん外では、友達と一緒にスーパーカーのラジコンで遊びに興じていた。「この頃は、まだ外で遊ぶのも大好きでしたね」という副島さんは、住宅地に残された自然を相手に、冒険もした。
「友達と探検ごっこをするんですよね。といっても場所は町田なので、大人からすればたいしたことはないんですが、東京都と神奈川県の県境に小山というか……造成地がありまして、その山頂に誰かが置いたソファがあったんですよ(笑)。前は崖になってて、ソファの上には廃材を利用した屋根がついてて、ソファに座ると神奈川側の「こどもの国」とかが見下ろせる。とても景色のいい場所なんです。そこを秘密基地にして、野いちごを食べたり、森林でクワガタを追っかけ回したり、都会にいながら田舎遊びができたんです」
当時、副島さんと探検ごっこをしていたのは、彼を含めた友達3人グループ。不思議なことに?
「この頃からそうなんですけど、その後、高校時代まで、何か友達とつるむときは、必ず3人グループを作っちゃうんですよね(笑)。きっと、3人というのが、自分にいちばん心地よい人数だったんでしょう。その中での役割分担としては、僕はリーダー格じゃない。どちらかというと、“何かやろうぜ”と言いだしっぺになる。それに人を付き合わせてしまう、やっかいなタイプなんですよね。だから、友達もそれに付き合ってくれる人が集まってくる。たくさんいれば、2人くらいは、そういう気のいい人がいるものなんです(笑)」
転校が多かった副島さんは、町田から再び、小学3年生の半ばで引っ越しをする。引っ越した先は、同じ東京都内でさほど遠くへの引っ越しではなかったが、23区内だけあって、自然の中での探検ごっこはできなくなった。
「さすがに、短期間で引っ越しが続くと友達も少なくなり、次第に内向的になっていきました。そこで、本格的に? 絵を描くように。自分でも、絵を描くのが好きだと自覚するようになりました」
描いていたのは……やはり『ドラえもん』!
「『ドラえもん』を描いていたというより、『ドラえもん』しか描かなかったというほうが正しいです(笑)。映画とか漫画を観ていいと思うと、自分で勝手なストーリーを作りたくなる。そして、勝手な『ドラえもん』漫画を描き出すわけです。しかも、最初はドラえもんしか描けないから、出てくるのが全員ドラえもん(笑)。帽子を被ってたり、着ているモノが違ったり。でも、さすがに他のキャラクターも描けないとお話にならないので、のび太やジャイアンも練習していきました」
画材は、ボールペン。50円程度で買えるメモ帳サイズの小さなノートに、副島さんはコマ割りをしたオリジナル『ドラえもん』漫画を描き綴っていった。
「ボールペンですから、下書きもせずに。そんなノートが、家にたくさん貯まっていきました。小さな紙にコツコツ描くのが、性に合ってたんでしょうね。どこへでも持ち歩けるサイズなので、家だけじゃなく、学校や遊び場に持って行っては描き込んで、友達に見せてました。しょせんは子供なので、途中で話がぐちゃぐちゃになったら、また新しい話を始めてみたりして。 今でもそのノートは、取ってありますよ。僕は、自分の絵を捨てられない人間なんですよ。例え、そのへんの紙に描いたものも、小学校以降の絵は、今でもほとんど残ってます。膨大な量を段ボールに詰めてあって、何年かに一度、懐かしみながら自分の描いたものを、掘り下げて見てしまいますね。え? 今その絵をユーザーに見せられないか、ですか? いやー、さすがにそれだけは勘弁してください(笑)」
そんな小学生時代、副島さんが卒業文集に書いた将来の夢はもちろん、「漫画家になること」。中学生までは、その夢を持ち続けていたという。藤子・F・不二雄作品から受けた影響は、今でも続いているとか?
「ははは、そうなんですよ。未だに、自分のキャラクターラフを描くときに、耳の形を「6」って描きます(笑)。本番はちゃんと直しますけどね」
とはいえ、家に籠もりきりで絵ばかり描いていたというわけでもなかった。引っ越してからも、新しい3人グループを形成していた副島さんは、友達と面白い遊びを発案して遊んでいた。
「といっても、新しい友達もやっぱり『ドラえもん』好き(笑)。オモチャをそれほどたくさん持っていなかった僕らは、勝手な道具を作って遊んでました。物作りのスタートですね(笑)。
よく作っていたのは、乗り物。ローラースケートと段ボールを組み合わせたり。ローラースケート4つを並べて、その上に段ボールで運転席を作って、羽根を付けて、ハンドルを付けて、坂道を転がしてみたりしました。けっこう大層なものを作るのが面白かったんです。あとは、小さな家を作って秘密基地ごっこをしたり。原材料は、主に段ボールでしたが」
その段ボールも、『ドラえもん』好きならではのアイテムだった。
「全くの偶然なんですが、通学路の途中に、丸美屋食品の本社があったんです。丸美屋食品といえば、藤子作品のふりかけ(笑)。パーマンふりかけとか、ドラえもんふりかけを入れておく、絵柄入りの段ボールが倉庫に転がっているんですよ。その前で物欲しそうな顔をしていると、親切な警備員のおじさんが、「これあげるから帰りなさい」って、段ボールをくれるんですよね。それを使って、僕らはオモチャを作ってました。」
『ドラえもん』一色の小学生時代も高学年になると、好きな漫画に多少変化が。
「読む雑誌が、学年誌〜『コロコロコミック』から、『週刊少年ジャンプ』に変わっていきました。ジャンプの黄金期ですね。『北斗の拳』『シティーハンター』……中でも好きだったのは、『ハイスクール!奇面組』。ジャンプ作品はほとんど全てアニメ化されてましたから、その頃がいちばんテレビを観ていた時代かもしれませんね。学校に行って、放課後は夕方まで友達と遊んで、帰ってきて平日はアニメを観て、土曜日は『全員集合』を観て、ずっとテレビを観てから寝る毎日。
いちおう、習い事もやってたんですけどね。塾と……ピアノと水泳。水泳は小学4年から6年くらいまで。バタフライができなくて、止めてしまいました。
ピアノは小学2年くらいから、高校2年くらいまでやってました。でも、高2までやってたのに、全く弾けなかったんですよ! 理由はハッキリしていて、楽譜が読めなかった(笑)。勉強がイヤなので、楽譜の読み方を覚えようとしなかったんです。先生が弾く手の動きを覚えて、それをレッスンで真似していただけ。だから、何度も途中で習うのを止めてるんです。そのたびに、新しい先生のところで、手真似から始めるので、いちばん初心者が習う「バイエル」の教則本を、何回も繰り返してるんですよ。だから、全く曲を覚えないし……高校に入っても「バイエル」をやってました(笑)。
ピアノを触ること自体は、好きなんですよ。大人になってからも、電子ピアノを買いましたからね。でも、相変わらず、全然弾けない。もったいないので、『ペルソナ3』のコンポーザーの目黒将司に、教えてくれと言ったら、金を取ると言われて断念しました(笑)」
ピアノの逸話でわかるように、「勉強はとにかく嫌い」だったと副島さん。そんな彼の勉強嫌いを表わすエピソードもある。
「小学校のとき、担任の先生が、毎週月曜日に漢字テストをやってたんです。しかも親切に、前の週に10問出題されるテストの答えを、黒板に書いてくれてたんですよね。それさえ事前に覚えていれば、誰でも満点が取れる。ところが、僕は毎回、ほとんど点が取れませんでした。ハナから覚える気がないんです(笑)。そのぶん、兄貴が勉強できたので、僕の成績については、親は諦めてたかも知れませんね(苦笑)」 |