ムギのエッセイ
このページはムギ畑内が会員制でわかりにくいので、主宰者であるムギの考え方・履歴等を紹介するために作りました。
また、入会時の参考にしていただければ幸いです。最近のエッセイについてはブログにまとめています。
WMムギの履歴書
ムギ畑の成長の歴史
WMと子育てについて
WMと子供の病気
WMってなんなんでしょう
女性と外資系企業
私はいろいろな意味でWM、女性であること・子供がいることの両面で自分のキャリアにさまざまな影響が出てきました。このコラムでは、その遍歴を綴ります。
私が最初に就職した会社は大学3年生の夏、O監査法人という当時国内最大手の監査法人でした。大学2年生の夏に公認会計士試験第2次試験に合格した私は、その後1年間の研修を経て、3次試験を受けるため、何らかの監査法人に学生中でも就職する必要がありました。当時、時代はバブルの真っ盛り。会計士試験合格と言うだけで引く手あまた、面接なし・支度金付きで行きたいところにいける環境でした。O監査法人を選んだのはたいした理由もありませんでした。英会話など勉強したこともないし、外資系は頭から除外、日本系では一番大きいところである、というそれだけの理由でした。 もちろん、そんな簡単な選び方で就職が成功するはずはありません。女性がまわりにいなく、同僚で自分と話してくれる人もいない、クライアントでは中高年の男性と口を開けばゴルフの話、日本系にありがちな研修はおざなり、その他はOJTで丁稚奉公で学べ、という雰囲気にもなじめませんでした。長女の妊娠6ヶ月時までパートタイムとして月10日ずつの勤務を続け、退職しました。そしてこの会社は、私に、女性が特別視されがちな日本系の企業には二度と就職するまい、というとても強いネガティブな印象を残して終わりました。O監査法人もまた、私の会計士登録費用・1年間の会計士協会研修費用・支度金まで払って、妊娠を理由に数ヶ月で辞められたのですから、女性はなるべく雇うまい、という印象を与えたことでしょう。
大学も卒業が差し迫った12月、私は長女を4年生の5月で出産しているため通常の就職活動をしておらず、「そろそろ就職先を決めなければ」とさすがに考え始めました。まず、この年の夏の時点で長女が生まれていなかったら、私はたぶん普通の新卒の就職活動をしていたでしょう。また、当時はバブルの最終年度、大学卒業生の大半が上場企業に就職し、右も左も金融・証券・保険などに就職している頃でした。ゼミの教授にこのように相談しました。「どこか出張も残業もしなくてすむ企業を紹介して下さい。」当時はまだまだ私にとっては母親という役割の方が重く、そのために自分のキャリアが後々、大きな犠牲になるなんて予想だにしていませんでした。 そして、そのわがままな要求を受け入れてくれたのが外資系企業であるA社でした。私は教授の口利きもあり、面接日に即入社決定、筆記試験その他は入社後に形だけ行いました。A社は期待していたよりもずっといい会社でした。日本では日本系に比べるとずっと小さな監査法人でも、本国ではビッグ6と呼ばれ、社員研修にとても力を入れていました。すべて会社負担で英会話学校に通い、Gクラス(クラス分けがあって、Aが最上、Hが最低です。下から二番目、私は入社時は英語はあいさつすらまともにできない状態でした)から1年半かけてやっとAクラスまで昇格し、なんとかビジネスに必要な最低限の英語は話せるようになりました。その他の研修も非常にたくさんあり、本国に用意されている研修センターや東京での研修等、勤務時間の1/5〜1/4を研修に当てていました。
肝心の仕事の方は、会計監査・ビジネスコンサルティング・システムコンサルティング等に従事し、新卒のペーペーだった私もOJTにより少しずつ成長していきました。特に人材が会社の資産のすべてのため、上司のサポートが手厚く、どの上司も手取り・足取りてにをはから教えてくれる社風がありました。出張なしは守られていましたが、残業なしの方はなし崩し的に2年目あたりから守られなくなりました。
C銀行はWMである私にとって、大きなショックを与えました。WMが自然に職場にとけ込んでいるのです。O監査法人においては女性と言うだけで特殊、A社では女性は特殊ではなくとも、WMは特殊でした。ところが、C銀行ではWMがいない部署を探す方が大変です。年に一回のクリスマスパーティーでは、女性社員とその配偶者・子供達という家族で会場がにぎわっていました。その代わり、仕事はハードでした。まず銀行なので朝が早い。保育園のやっていない時間のうちに家を出なければいけないと言うことはWMにとっては致命的です。そして、A社での手取り足取り・手厚い研修制度に慣れてしまっている私には、C銀行のよく言えば自由度が高く自主性に任されている、悪く言うと上司が部下の面倒を見る暇がない、という形態はとても負担でした。仕事をしてもその評価が帰ってこない、それは普通の会社では当たり前なのかも知れませんが、A社ではそれこそやり方から始まって文面・てにをはに至るまで、二重・三重のレビューを受けることが普通だったのです。さらに、日常業務の一環を担っているため、仕事を覚えるまでの1年間はとても楽しかったのですが、1年を超えると毎日毎日同じこと
の繰り返しに少しずつ疲れ、やる気をだんだん失ってきました。そして、もちろんその態度は仕事にも現れてしまいます。
転職活動を経て、Mへの就職が決まりました。C銀行は'97 10月末に正式に退職しました。MはWMであるとはっきりわかっている私を採用したと言うこと、取締役クラスにも複数のWMがいます。仕事ができれば、やり方や本人については何も問われません。逆もまた真で、どんなに勤務態度がよく残業しようと、結果が出さない者はいらない、ということです。
このJ社はたまたま、3社目のC銀行と同じ系列で、だいたいこういう雰囲気の会社であり、こういう生活になるだろう、という見込みがつきました。そして、それは私が悩んでいた家庭とのバランスをとるのにもとても向いている形態でした。さらに、新しい仕事は今までの仕事の経歴がすべて生きるものでした。 16年間の会社勤め生活を辞めて、2007年2月から、フリーランスになりました。特徴はファイナンス・会計やキャリアに関わることについて、日々の生活の視点を持ちつつも、それを専門知識に置き換えて、ビジネス用語や、おじさま用語に変換することです。著作、連載の傍ら、大学院での研究生活を行う毎日です。 ムギ畑の前身は、現在の@Niftyの中にある「ワーキングマザーフォーラム」の アクティブメンバーで開いていたPATIOです。始めた当初は参加者もほんの数人で、こんなに 大きくなるなんて私自身、予想もしていませんでした。このコラムでは簡単に ムギ畑成長の軌跡を綴ります。
@Niftyの中にあった「レディースフォーラム」の1会議室「WM天国」が発展して 1997年初に「ワーキングマザーフォーラム」ができました。ワーキングマザー 専用のフォーラムとして独立したのでうれしくて日々たくさん投稿をしていました。 その時に何気なく会社の同僚と日帰りでスノボと温泉に行って来た、という投稿 をしたところ、それがぐんぐん大きなツリーになって、いつのまにかワーキング マザーフォーラム初の全国オフに発展しました。私は元投稿の責任を取らされ、 幹事をやっていました。時は1997年夏、場所は浜松の側の舘山寺温泉でした。 温泉オフ自体は1泊2日で参加メンバーも20人ちょっとと少なかったのですが、 その時に関東から参加していたメンバーが10人ほどいて、帰りの新幹線で超意気投合、 そのままオフをしばしば開くようになり、そのうちあわせのためNiftyの中にPATIO (個人用の小規模フォーラム)を開きました。そこで半年弱、いろいろとオフをしたり よもやま話をしていました。 そんな中、1997年10月、転職することになり、新しい勤務先に移るまで2ヶ月ほど 暇ができたので、ほとんど思いつきでHP作ってみました。HPの題名に困り、隣に 座っていたダンナに相談したら「ムギ畑」でいいんじゃない、と深く考えずに 答えてくれまして、そのままその名前に落ち着きました。当時のムギ畑のコンテンツは 私の趣味、スノボやビリヤード、スカッシュの話、それに簡単な掲示板といわゆる 典型的な個人HPでした。 唯一個人HPと違ったのが、私が掲示板荒らし対策のため導入したパスワード保護による 会員制掲示板でした。ほとんど上記PATIOと同じイメージで、掲示板を特定の人だけで 見られるようにしようと思ったからです。 運営スタッフができるのはずっと先ですが、当時のPATIOのメンバーは半分近くは 運営スタッフに加入しています。いづみ・みもみも・ティンクル・SAYAKAなどです。
この会員制掲示板と、上記PATIOメンバーにたまたま人気ページ「WMとその家族のための サバイバルガイド」のオーナーいづみがいたというこの二つの偶然がムギ畑発展の きっかけでした。ちょうどいづみが自分のページを見に来る人のためのWM専用 掲示板を探していて、当時のつたない掲示板が目に止まったわけです。 ムギ畑が「WMとその家族のためのサバイバルガイド」の掲示板として使われる ようになり、それこそもともとそのPATIOメンバーしかいなかった地味なHPにアクセス者が 訪れるようになったのです。 もちろん、ただアクセスしてくれただけでは会員になってくれるわけではないので、 そこからは客引きの腕が必要でした。今も運営スタッフをしている某PATIOメンバーは 「会員制なんて絶対成功しない」と断言していたくらいです。そこで、あえてムギ個人の プロフィールをエッセイとして公開して、賛同してくれた人に会員になってもらいました。 当初50人くらいまでのほとんどの会員がいづみHP経由、ムギのエッセイ賛同が きっかけだったということです。 50人くらい集まると、なんとか1日数投稿は会議室投稿されるようになります。また、当時 無職で暇だったので、いろいろ会議室を盛り上げるべく、私もせっせと投稿していました。 そのため、掲示板システムに不満を持って、当時のフリーウェアの会議室・掲示板システムを 20-30個レビューしまして、「これだっ」と目に止まったのが現在のnbbsです。nbbsの 導入により、コミュニケーションの使い勝手が飛躍的に高まりました。 あとは、会員の関心引き留めを心がけました。夜に定期チャットを開いたり、会議室に 定期的にお題を作ったり、ムギ畑通信を発行していたのもこのころです。そんな時期が 1-2ヶ月続き、98年に入るとチャットをきっかけに会員同士が私抜きでも仲良くなるように なり、どんどんに会議室投稿・チャット時間が増えてきました。当時の盛り上げメンバーが 現在の運営スタッフのうち、やす、MARI、ひろひろ、くみなどです。
会員も順調に増え続け、そろそろ一人で運営するのが辛くなってきたなぁ、と思っていた 1998年の春、ちょうど渋谷で現在の運営スタッフの一人はるか主催のオフがありました。そこで 集まっていた20人弱の会員を前に、ほとんど思いつきで運営スタッフの構想をぶちあげ、 たまたまそこにいたはるか、いづみなどを巻き込み、さらに公募をして運営スタッフを 結成しました。上記の盛り上げメンバーも運営スタッフとして参加してくれました。 運営スタッフの当時の任務は、会議室の管理と未レスの防止です。このことにより ボードが活性化し、ますます会員が増えるようになってきました。そんな中、 次の飛躍の基礎となる専属SEtatsuが運営スタッフに志願して加わり、このへんから ムギ畑の快進撃が始まります。 運営者が複数になって一人で考えるより知恵も出やすいし、出た知恵を右から左へ tatsuが魔法の手のようにどんどん実現してくれる、会員の満足度も高まり、 ほとんど宣伝しなくともどんどん口コミと検索エンジンだけで人が集まるように なり、マスコミ等にも取り上げられるようになってきました。
順調に運営ができるようになった1998年夏から1年弱、ムギ畑はしばらく落ち着いて いました。そんな1999年の春、私の会社の上司から社内メールで「もっとムギ畑の 資産を活用すべき」という示唆が入りました。具体的には、中に蓄積された知識を もっとまとめて会員制の外に出して、会員でないワーキングマザーやワーキング マザー予備軍にもっともっと安心感を与えるべきである、という意見でした。 そこでみもみもリーダーの元、知恵袋を編集しました。こちらは50人 以上のボランティアが参加した大プロジェクトでして、ムギ畑初のプロジェクト 作業でした。 その後、私がちょうどインターネット関連の仕事を立て続けに本職でした関係も あり、ムギ畑をコミュニケーションのいろいろな先進実験に使いたい、という 目標がたくさん出てきまして、満足度調査、ムギ畑の歩き方、ムギ畑クイズなど さまざまなプロジェクトを実行、現在も常時7-8つのプロジェクトが走っている ところです。 現在のムギ畑の目標は単なる井戸端会議のコミュニケーションではなく、Web上 での自己実現の場を提供することです。各種プロジェクトを通じてムギ畑も ムギ畑会員も日々継続的な改善をしていきたいと思っています。
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