栗見大宮天神社 社歴
 
    「栗見大宮天神社社歴」昭和五十四年六月一日
               栗見大宮天神社社務所
                        より
 
御祭神
大国主神
應神天皇
菅原道真公
 
 
社名
                    
「淡海府志」によれば「栗見天神」また「長浜天神」
「淡海温故録」には「天神宮」また「山王大宮」
「近江與地誌」では「天満大自在天神」または「栗見天神」または「上山天神」
「国伝記」では「上山天満天神」
亀泉雪斎による「社歴」(明暦二年)では「天満大自在天神宮」
さらに時代が下って、栗見十郷の古老が集まり古文書や口伝を整理し「社歴概要」を著し「栗見大宮天神社」となった。

写真は、県下第二の偉容を誇る大鳥居と常夜灯

 
現在では氏子はただ「大宮」と称し敬い尊んでいる。
 
社歴
 
 伝えによると奈良時代後期の神亀年間、比良山の比良明神がきらめく金光にのって湖上をわたり、後に本社の社地となった「牧の浜」に至り一夜のうちに松樹の繁茂する奇瑞を現された。そこで本庄村(現在彦根市)に御神霊をお祀りし、後に栗見十郷阿弥陀堂・川南・新村宮西乙女浜福堂・本庄・田附・新海・三ツ谷)の氏神、産土神とあがめるようになった。応神天皇、菅原道真公は後世合祀された。
 平安後期、長徳二年、愛知川村の東部で愛知川の南堤が決壊し、流れは低い南に奔流し概ね現在の川筋になった。
この大出水により本社は流され現在地に着かれた。当時の氏子総中は神慮をおそれ、社殿を元の地に復することをしなかった。(本庄の権現様は旧社地と伝えられている)
一般に本社の創建が長徳二年とされているのはこのことによる。
 古記録によれば昔の本社は今の我々には想像もできないほどの大社であったらしい。
 昭和五十二年の滋賀県教育委員会文化財保護課の専門員の調査があり、その報告概要は次の通りである。
「・・・建造物の完全な調査は解体しないとわからないが、本殿の造営は延享二年ではないかと考えられる。規模の大きい立派な本殿で、貴重な建造物である。県は『近世社寺の総合調査』を実施しているが、栗見大宮本殿は当然リストの最右翼に並ぶものと確信する・・・」