毛利先生へ
初めまして。
突然不躾なメールで申し訳ありません。でもどうしても気になることがありましたので、チャンスがあればお手紙でも差し上げようと思っていたところへ偶然HPを見つけてしまいましたので、メールさせて頂きます。 私は三歳の娘を持つ母で、厚生省の管轄する研究機関で研究員をやっています。「厚生省」と言うと「にっくき敵」と言われそうですが、ただの母で、行政を左右するような「エライ」方々とは全く身分が違います。
今年はじめに私の娘の保育園で保護者懇談会があった時、あるお母さんが「毛利先生の本を読んで、予防接種は本を読む前のBCGとポリオ以外一切受けてないのですが、保育園ではどういう方針なのでしょうか」という質問をしたのです。その場では「保育園では特別な方針などはないし、健康診断をお願いしている小児科の先生にお聞きしてもいいですが、きっと受けた方がいいと言われると思いますよ」という程度の話だったのですが、私はその話を聞いて初めて毛利先生の活動を知り、「予防接種そのものを一切拒否するなんて、なんて過激な人なんだろう」と驚きました。後で図書館などで毛利先生の本を読んだりしてどこにも予防接種全てがいけないなんて書いてないのを知り、安心したものです。ただそのお母さんにとっては毛利先生の本を読んで感じたのは「予防接種は危険なもので受けない方がいい」ということであり、確かに先生の本の文体からは行政を信じるな、厚生省の言い分は全て嘘だ、といった批判のトーンが感じられました。そういう本を読み、毛利先生という有名な、ある意味では「国」と同じくらいの「権威者」が言うことなのだからやはり予防接種はやめておこう、と思うお母さんがいたとしても不思議ではありません。毛利先生は自分はそんなことを言ってないのだから間違って解釈したそのお母さんが悪い、とおっしゃるのでしょうか?
私はたまたま公務員ではありますが行政の肩を持つつもりは全くなく、むしろ批判したいことは山ほどあります。ただあくまで科学者の端くれですから誇張や想像は抜きにして話をしたいと思います。行政側の、予防接種を受けさせたい立場からのデータに「ご都合主義的解釈」があるのと同じように、「活動家」側の、予防接種に反対の立場からのデータにも拡大解釈が潜んでいる、と私は思いますし、「絶対これが正しい」というようなものはどこにもないでしょう。ある程度の幅をもってデータを解釈し、さらに自分の責任で判断する限り、現行の予防接種はできるだけ受けた方が良い、というのが私の結論です。この場合の予防接種のメリットには働く母である私の、病気の子どもを預かってくれるところがないという厳しい現実も反映されます。私自身は予防接種の専門家ではなくてもその手の「評価」に関しては素人ではないし、直接英語の論文を読むのも当然のことですからかなりきっぱりと言えるのですが、そうでない普通のお母さんたちにとって「情報を集めて納得して必要なものだけ受ける」等というのは相当困難な作業だろうと思います。結局「なんとなく」受けたり受けなかったりするしかないのではないでしょうか?
毛利先生の子育てや社会に関する意見にはほとんど同感なのです。子どもを育てるのに「何々でなければいけない」なんてことは多分ないだろうし、子ども自身に備わった力が充分発揮できるようにしてやることだけが親の仕事だろうと思います。ついでに言うと「市民」等というきれい事で嘘臭い概念が怪しいというのも本当にそうだと思います。でもそういう事柄を話題にしている時と、予防接種や厚生省を話題にしている時とでは毛利先生の姿勢が違うように感じるのは私だけでしょうか。例えば予防接種の情報を集めて判断するなんていうのは「市民」でなければできない芸当で、「庶民」には無理です(私自身、「学はないけれど額に汗して働く百姓」の娘ですから身にしみて分かってます)。海外の学者の書いた本の中には賛否両論を公平に併記する、というものもあります。私はそういう本に大変好感を持ちますので、どちらの立場であるにせよ一方的に自説に有利なデータだけを示す、というほとんどの「告発本」は眉に唾つけて読んでます。残念ながら毛利先生の予防接種反対説もその一つです。特にインフルエンザの予防接種に関しては誤解があるように思います。
行政にはわずかの間違いもあってはならない、というのは理屈としては正しいのかもしれませんが、それを言い続けたからこそ官僚は間違いを隠し、自信がなくても自信たっぷりでなければならないと思うようになったのではないでしょうか?誰にでも間違いはあるし、時代と共に真実が変わることもある。だからこそ行政のミスを見つけて鬼の首でも取ったように大騒ぎするような幼稚なマスコミや「市民」ではなく、もっと冷静に違うんじゃないかと言えるようにはならないものでしょうか。批判自体は必要なことです。でも批判する刃が鋭ければ鋭いほど、解決を遅らせたり、思いもかけないところで別の被害者を生んだりしてしまうことが多いように思います。
病気になって後遺症が残るのは仕方ないけれど予防接種で同じ症状が出たというのは許せない、のでしょうか?私は原因はどうあれ結果が同じなら同じように評価しようと思うのです。例えば野生の漆にかぶれてかゆくなるのも、食物アレルギーでかゆくなるのも、化学薬品でかゆくなるのも、全て同じように「困ったこと」なのではないでしょうか?「人為的なものは許せない」というのは感情としては理解できます。でもそれこそ「人間は理性的な存在である」という近代的自我の確立以後の西洋文明に影響された思考法ではないでしょうか?人間は子どもであれ母親であれ、下町の職人でも農夫でも官僚でも、みな同じように深淵を抱えて生きているものだし、生きているということは巡り合わせであり、運でしかない部分もあります。生命科学を仕事にしていながらこんなことを言うのもヘンですが、生き物の仕組みなんてわかっていることよりわからないことの方が多いのだし、病気だってそうです。本当は私だって子どもをたくさん産んで、そのうち一人か二人は死んじゃうかもしれないけれど生きて大人になってくれる子が一人でもいればいい、というような「自然な」子育てをしたいです。でも今の日本でそんな贅沢は許されない。だから「手足の一本くらいはなくなってもいい」程度に格下げしてますが、生きるか死ぬか、というぎりぎりの経験を避けてしまうことが子どもにとってはものすごく不幸なことなのではないかといつも悩みます。
批判めいたことを書きまして申し訳ありません。私にとっては雲の上にいる人である毛利先生に、もし読んで頂けたとしたらそれだけで幸いです。
追伸 このメールを読んで下さるのは多分事務局のどなたかだろうと思います。お手数をおかけして申し訳ありません。
May 1997
UEYAMAさん、毛利子来です。
uneyama>突然不躾なメールで申し訳ありません。 毛利>いえいえ、ひとつも不躾なんかじゃありません。
言い分はなんでも、フランクに出し合うにかぎります。影でコソコソ言っている だけでは、お互い、鍛え合うことにはならないですものね。ぼくは、日本の学会とり わけ医学の分野では、そうしたディべートが少なすぎると残念に思っているのです。
uneyama>「厚生省」と言うと「にっくき敵」と言われそうですが、
毛利>いえいえ、これも、そんな不躾な気は毛頭ありません。 もちろん、批判や注文があるときには、どしどし文句を言っていますが、頭から 「にっくき敵」などというケチな感情はひとつも持っていません。現に、最近の厚生 省との「交渉」では、和気あいあいと話し合っています。それどころか、「優性保護 法」の改正のときには、ぼくは厚生省と同じ考えと方針で臨んでいたために、「運動 」の人たちからすごく怒られたことさえあるんですよ。
uneyama>そのお母さんにとっては毛利先生の本を読んで感じたのは「予防接種は危険 なもので受けない方がいい」ということであり、 uneyama>確かに先生の本の文体からは行政を信じるな、厚生省の言い分は全て嘘だ、 といった批判の トーンが感じられました。
毛利>そうです。おっしゃるとおり、ぼくは「予防接種は全て受けない」のを原則と すべだと考えています。というのは、薬とか注射とか、まして手術などの医療処置は 、まずは受けないのが最善のはず。全て自然ではなく、苦痛を伴ったり、事故もあり うるからです。ただ、受けなかったら、より苦痛がひどくなったり生命にもかかわる と予想される場合だけ、当人が悩み抜いた上で、やむを得ず、受けることを選び取る ことになるのが普通です。
ところが、予防接種だけは、「やむを得ず」という感覚が、およそない、それど ころか「良いものだ」「受けるべきだ」という風潮になっているのはどうしたわけで しょう? 明治のとき、種痘を強制された民衆は逃げまどい、中には一揆まで起こし たことがあったのに。当時の民衆にとっては、疱瘡はせいぜい「器量定め」程度の病 気だったのです。 なのに明治政府が対外的メンツから疱瘡の根絶に躍起になった、 つまり民衆より国家のほうを重視したのです。そういう予防接種の性格が露骨に発露 された次の例がBCGでした。昭和の初期から中国への侵略をもくろんだ軍部にとっ て結核は年に一個師団の兵力を奪われるゆゆしき問題。それで懸命になってBCGの 開発と接種をすすめ、青少年に強制したのでした。しかし、大々的な接種にかかわら ず結核は減りませんでした。それはそうで、あの女工哀史に如実に示されているよう に過酷な労働と貧困な生活条件にあつては、予防接種などで結核が減るべくもなかっ たのです。それが証拠に、結核は、敗戦後の労働運動と民主化運動の高揚による労働 条件と生活水準の改善とともに、抗結核薬の普及以前に、急速に減少したのでした。 であるのに、戦後も為政者と学者と医者のほとんどが、結核の減少をBCGと抗生物 質の勝利などと宣伝して、民衆をだましてきた。その他、60年代以降のジフテリア や日本脳炎の著しい減少も、予防接種より生活と栄養の水準の向上によるところが大 きい。そのことは、それらに対する予防接種の普及率と病気の減少率のカーブを見れ ば明らかです。なのに、これについても予防接種の恩恵と宣伝しつづけている。要す るに、予防接種は全て「良いもの」「受けるべきもの」という風潮は為政者によって 植え付けられてきた観念から来ているのです。
uneyama>行政側の、予防接種を受けさせたい立場からのデータ に「ご都合主義的解 釈」があるのと同じように、「活動家」側の、予防接種に反対の 立場からのデータ にも拡大解釈が潜んでいる、と私は思いますし、「絶対これが正しい」というような ものはどこにもないでしょう。
毛利>そうですね。予防接種には、いや医学にも科学一般にも、立場というものは断 然あると思います。それは、あの原爆や生命操作の反省に立ったアシュマロ会議で厳 しく認識されたとおりです。
とりわけ、日本の予防接種には、製薬メーカーの利益と、それに吊るんだ御用学者 の名誉と、行政の保身という実にダーティな歴史が歴然とあるのです。 しかし、だからといって、事実の拡大解釈とか歪曲は、もちろんあってはならない ことです。その点で、「ワクチントーク全国」など市民運動団体にも、予防接種の被 害者が主力ということもあって、感情的に事実の誤認がなされていることが少なから ずあると、ぼくも反省するところがあります。だからこそ、厚生省の「子どもの健康 と予防接種」の「攻略本」にも、冒頭に、そのことを書いたのでした。ところが、厚 生省のほうは、まあ国家というのはそういうものでしょうが、ぼくのように「もしか して書いてあることに間違いがあるかもしれない」だから「批判があれば寄せてくだ さい」とは決して書かないのです。
ただ、ぼくたちとしては、厚生省側があまりにも病気の恐ろしさを煽り、予防接種 の効果を過大視し副作用を軽視しすぎているので、それに対する批判を強調せざるを えないという事情には置かれています。そのために、病気の恐さや予防接種の効果と いった厚生省のパンフレツトやどの医者も言うようなことにまで言及する意味は感じ ません。そんなことは、ぼくたちがあえて言うまでもないことですから。
uneyama>自分の責任で判断する限り、現行の予防接種はできるだけ受けた方が良い というのが私の結論です。
毛利>では、BCGは、乳幼児は別として、小学生以上の子でも受けたほうが良いと お考えですか?
日本の結核病学会の大勢は無用と考えており、WHOの世界8か所での野外実験の結 果でも肺結核の予防には疑問がもたれているのですが。DPTは小児科学会から計3 回の接種で十分との報告が上申されているのに、改正予防接種法では依然として4回 の接種を踏襲しているのをどうお考えになりますか? それこそ「ある程度の幅をも ってデータを解釈」すれば、少なくとも「できるたけ受ける」ということにはならな いのじゃないかと思うんですが。
それから、ぼくは、予防接種を全て奨める学者と医者で、インフルエンザワクチン とMMRを接種したきた人たちを信じないことにしているのです。あなたはこんなこ とはなかったと思いますけれど。
uneyama>普通のお母さんたちにとって「情報を集めて納得して必要なものだけ受ける 」 等というのは相当困難な作業だろうと思います。
毛利>それは、はなはだ親たちを見くびったお考えかと思います。ぼくの体験では、 あの60年のポリオの大流行のとき、普通の母親たちがすごい勢いで勉強し結論を出 したのを目前にしました。まして、これだけ予防接種禍が相次ぐと、ワクチントーク 全国の集会などには普通の親たちがどっと詰めかけてきます。しかも、そこで勉強し たことをモトにして、審議会や学会や医師会のメンバーに食いつき、専門家が反論で きないといった情景も見てきました。
いまでは、もう情報は官や専門家が独占できる時代ではなくなっているのです。少 なくも、僕たちは、それとは別の情報を、すぐ手に入るように提供しています。それ が、たとえ官側から見て偏向があろうとも、比較計量の材料にはなるはず。情報は、 偏向を含めても多いに越したことはないのです。厚生省の情報だけを信じろというの は論外です。
uneyama>病気になって後遺症が残るのは仕方ないけれど予防接種で同じ症状が出たと いうのは uneyama>許せない、のでしょうか?
毛利>そうです。病気に対する場合と予防とでは、医療行為の質が全く異なると思い ます。予防は現在まったくなんともないのに、病気になりうるという想定で行われる もの。それは予測に基づく積極的干渉。しかも法に基づくとすれば、国家による個人 の将来への介入、パタナリズムともなります。 そのうえ、予防接種のほとんどは、その本質から、集団免疫の付与を目的としている 以上、個人に対する医療行為とは大いに異なります。ですから、それだけ、余計に慎 重であらねばならない。なのに、ワクチンの認可・再評価のシステムが一般医薬より ズサンなのは恐るべきことです。
neyama>「人為的なものは許せない」というのは感情としては理解できます。でもそ れこそ「人間は理性的な存在である」という近代的自我の確立以後の西洋文明に影響 された思考法ではないでしょうか?
毛利>これ、ぼくには、逆に思えるのですが・・・。というのは、「人間は理性的」 とする西欧近代
だからこそ、自然の克服に価値を置き、そう予防接種はモロに自然の撲滅です、そう した「人為を謳歌している」のではないですか?
uneyama>生きるか死ぬか、というぎりぎりの経験を避けてしまうことが子どもにとっ てはものすごく不幸なことなのではないかといつも 悩みます。
毛利>それ、よく分かる気がします。ぼくも、同じ悩みを、親としても臨床医として もかかえていますから。でも、ぼくは、どちらかと言えば、親は子をあまり庇おうと はしないほうがいいのじゃないかって、努めて思うようにしているのです。 予防接種の被害で子を失ったり重度の障害児にしてしまった親たちが一様に嘆くの は、まさにそのこと。「私たちが、この子を病気にさせたくないと願ったことが仇に なった」と。
今の日本は、病気をあまりにも恐れすぎ、微生物を避けすぎ、そのためにかえって しっぺ返しを食っているように思えてなりません。これからは、改めて微生物との共 存、生態系の中での生存を考えなければならないのじゃあないでしょうか? ルネ・デュボスの「健康という幻想」そして多田道雄の「免疫の意味論」が教える ところは大きいと思います。
uneyama>追伸 このメールを読んで下さるのは多分事務局のどなたかだろうと思いま す。お手 uneyama>数をおかけして申し訳ありません。
いえいえ、そんなことは、ご心配には及びません。
Subject: 追伸
UEYAMAさん。毛利子来です。
昨日は、取り急ぎ、返事を書いたので、あとから見ると、いくつかズサンなところ があったので、ちょっと訂正加筆。
まず、「多田道雄」とあるのは「多田富雄」の間違いでした。 次は、付け加えです。「やむをえず」というところで、薬や手術の例を挙げていま すが、そこに次のことを書くのを忘れていました。 ワクチンには、それらとは質の違う、かなり重大な問題が潜んでいます。つまり、 ワクチンは、免疫系に人為的な変化を加えるものなので、生体に及ぼす影響は重視し ておく必要があります。さらに個人だけでなく、地球上の生態系に及ぼす影響まで考 えると、ことは、かなり重大です。
現に、予防接種で副作用を被った人たちの中に、障害が進行するケースが少なくな いという体験が報告されています。もちろん被害者からの報告ですから多少の主観が 入っているとは思いますが、それをただ笑ってすますことは、ぼくにはできません。 このことは、きちんと調査すべきだと思います。 また、生態系への影響についても、十分考えられることですし、実際それを警告す る学者が何人かはいるのです。これは頭から無視すべきことではないと思います。 以上
Subject: メールありがとうございました
毛利先生、こんにちは、畝山です。
私のような者のメールにお返事下さいましてありがとうございます。しかも追伸まで頂いて、このうえない幸せです。ますます先生のファンになりました。私が先生とお話をしてもいいなんて思いもよらなかったので少し浮足立っています。以下の文章に失礼がありましたらどうかお許し下さい。
大きい子のBCGについては不勉強で知りませんでした。というより乳幼児のことしか考えてませんでした。自治体からもらった予診票は幼児期のもののみでしたし小学校に入るまで生きていてくれればとりあえずは一段落、だと思っていたものですから。大きい子の場合のBCGについてはCDCの勧告通り、ハイリスクグループに相当する場合のみ受ける、でしょうね。(ずるいようですが、私自身は基本的にはアメリカのCDCを最も信頼しています。)この件に関しては私の前言を訂正させて頂きます。教えて頂いてありがとうございました。追記するとインフルエンザの予防接種についてもCDCの情報から、毛利先生の誤解ではないかと書きました。
先生が「予防接種は全てすべきでない」とはっきりおっしゃって下さいましたので(こんなこと、マスコミではなかなか言えませんから)、私も納得できました。 つまりこれは現在の社会のありかたそのものへの警告、ですね。敢えて言うなら、生まれてきた赤ちゃんの何割かは大人にならずに死んでしまう(生き物は全てそうです)ことを容認する社会の方が望ましい、ということですね。もし先生の主催している会合に集まってくる「普通の人たち」がそれを受け入れているのだとしたらすごいことです。いえ、皮肉ではありません。私自身本当はそのほうがいいのではないかと思うからです。「死」を覆い隠した社会はどこかうそっぱちだし、死の危険を避ければ避けるほど生の輝きも失せていくと思います。ただこれは多分今の日本の「社会常識」としては言ってはいけないことなのだろうという気がします。まして厚生省が言えることではないだろうと思います。ワクチントークの活動が「予防接種の恐ろしい副作用からわが子を守る」ためではなくて、「病気にかかってもそれを受け入れよう」というスローガンで成立するのならそれは素晴らしいことだと思います。ただ実際にはお母さんたちは「自然に病気になることを覚悟して」予防接種を受けないのではなく、「副作用が恐い」から受けないだけで、それで万一病気になったらやはり予防接種で副作用被害に遭った人と同じように後悔するんだろうな、と思います。それを「親たちの能力を見くびった考え方」と言われるのであればそうかもしれません。でも実際私が先に話題にした保育園のお母さんだって、一人娘をとても大切にしているのだろうし、破傷風で入院してもいいなんて覚悟はしてないと思います(保育園ではどろんこ遊びは欠かせません)。私が避けたいのは「死」のみですし、死にやすい小さい子たちにとって最大の脅威はやはり「生き物」だと思います。だからもし今ベロ毒素のいいワクチンがあったとしたら5才未満の子には接種した方が良いと思います。そんなわけで小さい子どもたちの命に関わる病気については予防接種を受けさせたいのです。子どもは親を選べません。親が自分の子どもの死をある程度の確率で覚悟していたとしても、私はその子の死ぬ確率を減らしたい。単なるおせっかいでしょうが。
現代は子を持つ親にとって非常に辛い時代だと思います。「子どもの無限の可能性を育てるのはお母さんですよ」「子どもの虫歯は親の責任」「○○は体に悪い(いい)」などなど、やたらとたくさんの情報があふれています。結局子どもがどうなっても親の責任(おかげ)と言われてしまいます。働くお母さんにとっては特に、忙しい合間に不安を煽るだけの情報に接して、困惑することばかりだろうと思います。それでもとにかく毎日をすごしていかなければならないわけで、そんな中で何かをしなくてはと思った場合、「予防接種を受けないこと」というのはとても実行しやすいことのような気がします。毛利先生は「予防接種は良いことだと世間では思われている」とおっしゃいますが、私たちの世代くらいですと恐ろしい伝染病の記憶はまずありませんしMMRで大騒ぎしたこともあって相当不安が大きいと思います。最近は厚生省のイメージが相当悪いこともありますし。少し脱線しますが、最近マスコミで大騒ぎしているダイオキシンの問題なども危険性を強調したいあまりにむやみに不安をあおっているとしか思えません。ダイオキシンというのはある一連の構造を持つ化合物の総称であり、その中で最も毒性の高いTCDDが毒性評価の基準として用いられています。TCDDの毒性は確かに強いのですが、急性毒性に関する限り種によっては感受性に8000倍の差があります。それをゴミ焼却炉から出るダイオキシンの全てがTCDDであるかのように、しかも最も感受性の高い動物種で得られたデータをもとに「こんなに恐ろしいものなんですよ」と乳児をもつお母さんたちを脅かす(TCDDは母乳に分泌されますから)。危険だからといって今すぐどうしようもない(呼吸をやめろとでも?)のがわかっていながら不安だけを与えて自分は正義の味方のように振る舞う報道関係者や一部科学者にはうんざりです。もちろん行政のやるべきことはたくさんあるでしょう、でもこの件だって根本解決にはゴミの減量が不可欠だし、全て「行政」のせいにして非難さえしていればいいという問題ではないはずです。こうしたいろいろなことを子どもを育てながら、かつ働きながら逐一勉強して理解していく、というのは本当に大変なことです。情報公開は推進すべきだし知りたいと思った人は勉強すればいい、だけど不安を煽って勉強すべきだと駆り立てるのは酷だと私は思います。お母さんたちにはゆったりした心で子育てをして欲しいです。
先にも言いましたが、私は先生のお考えには基本的には賛成です。ただ一つ、違うところがあるとすればそれは、私が人間の行う全ての活動をもひっくるめて「(自然)環境」だと考えるということです。愚かな人間が武器を作る、良かれと思ってやったことがあだになる、そういうことも病気や嵐や地震で災害を被るのも多分「自然の摂理」なのだろうと。人間も所詮はこの地球に偶然生まれ、一時期栄え、そして消滅していく一生物に過ぎない。どんなに理性だなんだと言ったところでそれは脳という生物学的実体の限界を超えることはできず、その脳も自然法則に従って活動するだけ。そして個々の人間は社会の中でしか生きられず、どんなに「自我」が目覚めていようと例えば古代マヤ文明の中に生きていれば太陽のために生け贄として死ぬしかなかった。だからといって後世の人間達がマヤ文明を野蛮で暗黒だなどと決めつけることはできない。そういう風に言うと虚無的だと誤解されるかもしれませんが、そうではなくて、だからこそ今生きていることを心から祝福しようと思うのです。コンクリートジャングルの中だろうと大草原であろうと、理想を掲げて「充実した人生を生きる」ことは可能でしょう。ですから人間の存在が生態系を撹乱し、地球環境を変えてしまったとしてもそれは多分必然なのだろうし、もし生態系を変えたくないのなら人間が変わらなくてはなりません。病気と共存して生きようと言うのならAIDSともエボラとも共存しないといけないわけです。人間が何もしなくても新たな(微)生物は生まれてくるだろうし、仮に人間活動が原因の一つだったとして、それを人間は変えられるのでしょうか?地球の人口が増えすぎてパンクしそうだ、という警告が出てからも人間は増え続け、初めて人口増加に抑制がかかったのはAIDSのおかげでした(AIDSで死ぬ人が増えたからではなくて予防のためのReproductive Healthの概念が普及したから)。予防接種のせいでAIDSが発生したという説を毛利先生が信じているとは思えませんが、仮にそういう「生態系への影響」とやらがあったとしても、AIDSは人類にとって100%災いのみではなかったのです。結局人間の知恵では何が幸いするかを予測することはできません。そういう意味で、「人間の行動は「自然」ではないから制御できる」、という考え方もまた「人間が自然を支配できる」という考え方と同様に「近代的」だと申し上げました。わかりにくくて申し訳ありません。
私自身もここしばらくは多田先生の「免疫の意味論」の世界と養老先生の「唯脳論」の世界を行ったり来たりして生きてきました。 免疫学的には自己は自己であるためには常に自己確認を必要としますから、感染症などで外部から脅かされる経験が少なかった人間は自分自身の中に非自己を発見せざるを得ない。つまり寄生虫やら雑菌やらがいなくなると食物やダニや花粉、そしてついには自分の肉体を攻撃するようになるのだろうと思います。環境を清潔にすればするほどアレルギーのような反応はより除去不可能なものに向かい、深刻になるような気がします。ただ免疫学そのものは現在もなお解釈次第でどうにでもなるような曖昧さを多分に含んでおり(免疫系そのものの性質なのかもしれませんが)、「科学的に証明されている」といった文脈で特定の事象を取り上げて一般に紹介することには賛成できません。例えば数カ月前のScienceに日本での乳児期のツベルクリン反応とアトピー性疾患との関連についてという論文が載り、その結果の解釈を巡って論争がありましたが、ご覧になりましたか?
先生に読んでいただけるということで調子に乗りすぎて余計なことばかり書いてしまったようです。焦点が定まらないようで自分でも情けないのですが、どうぞお許し下さい。
Subject: Re: メールありがとうございました
畝山さん。毛利です。
uneyama>失礼がありましたらどうかお許し下さい。
毛利>こちらこそ、失礼を重ねています。でも、これを機会に、遠慮なんかないお付 き合いをしましょうよ。
uneyama>私自身は基本的にはアメリカのCDCを最も信頼しています。
毛利>実は、ぼくもそうです。「USにおける予防接種に伴う副作用サーベランス」 を翻訳したことがあるくらいですから。
uneyama>「予防接種は全てすべきでない」
uneyama>つまりこれは現在の社会のありかたそのものへの警告、ですね。
毛利>そうなるんでしょうね。とにかく、近代文明は、根底から、問われなければな らない。
JJルソーの「エミール」が、今ますます光を放っていると思います。
uneyama>ワクチントークの活動が「予防接種の恐ろしい副作用からわが子を守る」た めではなくて、「病気にかかってもそれを受け入れよう」というスローガンで成立す るのならそれは素晴らしいことだと思います。
毛利>おっしやるとおり、「普通の親」は、なかなか、そこまで徹底できていません。 でも、被害に会った方は、裏返しの心理でしょうが、そんな境地に達しておられるよ うです。
uneyama>お母さんたちは「自然に病気になることを覚悟して」予防接種を受けないの ではな
uneyama>く、「副作用が恐い」から受けないだけで、それで万一病気になったらやは り予防接
uneyama>種で副作用被害に遭った人と同じように後悔するんだろうな、と思います。
毛利>そうでしょうね。そこが親の「怖いところ」かと思います。子どもを思う親心 は、ときに、いや多く、子を支配下に置き、危めることさえあるのです。
uneyama>先にも言いましたが、私は先生のお考えには基本的には賛成です。ただ一つ 、違うと
uneyama>ころがあるとすればそれは、私が人間の行う全ての活動をもひっくるめて「 (自然)
uneyama>環境」だと考えるということです。
毛利>ここから以下は、「自然」という言葉の持つ多義性にかかわって、議論がやや こしくなるところですね。それと最も格闘したのは、ぼくの知るかぎり、先に挙げた JJルソーでしょう。
ルソーは「自然」を、実体概念ではなく、論理概念として用いています。そうしない と、人間とその他とは区別できず、したがって両者の関係のあり方についての考察は 、そもそもから成り立たなくなってしまうからでしょう。 ここのところ、ぼく、よく分かっていないこともあって、とてもメールでは、これ 以上、書けません。いつかお気が向いたら、「エミール」を読んでみてください。毛 利の「育児のエスプリ」(新潮文庫)には、ぼくなりのルソーの理解は書いておきま したが。
以上。お返事は、無用です。ただ、気が向かれたときにでも、お便りください。ぼ くも、そうさせてもらいます。
Subject: ありがとうございます
毛利先生こんにちは、畝山です。
生意気なことを申し上げました私にあたたかいお言葉、ありがとうございました。 「エミール」は学生時代に読みましたが、実際に子どもを持ってから読むとまた違ったふうに読めるかもしれませんのでこれを機会にじっくり読み直してみようかと思っています。ただ現時点で私が思うことは、哲学は実践にこそ意味がある、ということです。数学の理論なら理論として美しければそれでいいでしょうが、哲学、ことに教育論などというものは現実に根ざしていなければ意味がないだろうと思います。子どもを「汚れない天使」とか「まだ人間ではないケダモノ」とかいうふうに単純化して考えれば論理的には明確になるでしょうが多分実際はもっと複雑なもの、でしょう。 私には最良の方法は答えを簡単に手に入れようとするのではなくて、地道だけれど地に足のついた生活を送りながら考えていく、ということしかないように思います。理想はいろいろあるのですが、子どもには親の思惑など踏み越えて行って欲しいと思います。
今回のことではお手数をおかけしました。本当にありがとうございました。 お言葉に甘えて、今後ともよろしくお願い致します。