[気になる]ドクターコースへ行った人バトン!
中高の教員という道があります。
予備校の講師という道もあります。
学習塾の先生という道もあります。
そもそも、研究が「国家戦略」になったのはここ百年くらいの話です。
位相幾何学が専門の人を知っています。結構もう「いい年」の人ですが、幾つかの大学を非常勤を掛け持ちしつつ、予備校で教えているそうです。いつも楽しそうです。
国文学者で俳句の先生でもある人を知っていますが、若いときは高校生に古典を教えて食っていたと聞きます。その人はいまは大学の先生を一応していますが、俳句の採点のほうが忙しいようです。
俳人の芭蕉も、俳句をつくることだけで食えていたわけではありません。
門下生に俳句を教えることでなんとか食えていたのです。
古今東西、学問をやる者は、「学問だけに熱中できた」なんて例はまれで、ほとんどの場合は、「誰かに教える」ということを一緒にすることで、なんとかやっていたのです。
それが、20世紀になって、研究が「国家事業」となり、「サラリーマン研究者」という職種が生まれました。
この職種の歴史はせいぜい100年ほどしかないのです。
同じことが、小説家についても言えます。
かつて、小説家というのは、専業ではありませんでした。
夏目漱石も芥川龍之介も、大卒後、(小説だけでは食えないので)教職に就いています(英語を教えていた)。
彼らはのちに専業の小説家となりますが、これはたまたま運が良かった(新聞社が彼らを一本釣りした)だけで、「例外的なこと」だと思います。
小説だけで食えている人が結構たくさんいる現代社会のほうが、歴史的に見れば「例外的なこと」です。
そういう経緯を忘れて、「小説家だけでは食えないから、小説家になるのはやめとこう」というふうに判断するのは、私は「なんか違う」と思っています。
同じことが、「研究者」についても言えます。
「研究だけでは食えないから、研究者になるのはやめとこう」というふうに判断するのは、私は、「なんかおかしい」と思います。
専業研究者だけが研究者を名乗ることができるわけではありません。
このあたりを、もう一度見直す必要があるように私は思います。
博士課程に進学できるくらいの能力があるなら、その能力の一部を使って、誰かにものを教える仕事をすることができると思います。
少子化の時代ですが、中学の私学受験者の割合の増加など、勉強熱は加熱しています。
「勉強できなくて困っている」というような人はやまほどいます。
需要は「ありまくり」です。
博士課程まで行くほどの能力がない人が、安易に教育業に流れ込み、あやふやな知識を子どもたちに植え付けることをゆるすくらいなら、最初から、博士課程まで行くような人がそういう仕事「も」すればいいのです。
こういうことが明示的にあまり語られないのは、「それをしちゃうと、安易に教育業に流れ込んでいた人たちの就職先がなくなる」からでしょうか。邪推ですが。
でも、仮にそうだとしても、「どちらが、教わる子どものためになるか」ということを考えてみてください。
答えは明白だと思います。
というかむしろ、それをどれくらいちゃんと説明できるかが、就職試験であると言っても過言ではないでしょう。
もし十全を尽くして説明しても相手が納得しないのだとしたら、第2新卒だから、第1新卒じゃないから、という理由だけで落されるのだと言うのなら、それは、「会社の人の頭が固い」からでしょう。彼らが、
「第1新卒じゃないと使い物にならない」
という、古き良き時代の神話に取り憑かれているかわいそうな人たちだからでしょう。
そんな会社に入っても、いいことはないので、さっさと見切りをつけましょう。
「第1新卒」のほうが「第2新卒」よりも、「あまり説明しなくてよい」「説明するのに頑張らなくても良い」というのは事実です。
ですが、それは個人の説明能力の問題です。
ほんらいは、全員が、きちんと自分の来歴を説明するべきなのです。
なのに、それをさぼって、「第1新卒だから」とか「どこどこ大学卒だから」というような理由だけで採用されるというほうがおかしいのです。
こういう「常識」が、もっと広く日本社会に受け入れられる日が来ることを、願っています。
「古文の教科書の語釈に自分の解釈が採用されること」は、私は、十分に社会の役に立っている、と思います。
直接か、間接か、などと言い出すときりがないでしょう。
是非頑張ってください。
一般企業に就職してみて気付いたのですが、私は研究しかできないというタイプではありません。たぶん、企業でも普通にやっていけたと思います。でも、研究ってかなり向き・不向きがある職種なんですよね。で、私がやりたいことっていうのは、あまりやる人がいなくて、たぶん私がやらなければそのまま埋もれてしまうと言うか、そういうマイナーな分野です。多少似たようなことをする人が出てきているのをみて、「お、これはおいしいところを取られてしまいそう」と思って戻ったのですが、実際には取られてませんねw話がずれましたが、自分しかできないことがあるとしたらそちらを優先してもいいんじゃないかと、そんな不遜なことを考えたわけです。そうそう。そういうの大事だよね。
文系の場合、企業への就職(研究職)はまずありませんし、研究機関も非常に数が限られていますから、就職=大学教員と言えます。
中高の教員という道があります。
予備校の講師という道もあります。
学習塾の先生という道もあります。
そもそも、研究が「国家戦略」になったのはここ百年くらいの話です。
位相幾何学が専門の人を知っています。結構もう「いい年」の人ですが、幾つかの大学を非常勤を掛け持ちしつつ、予備校で教えているそうです。いつも楽しそうです。
国文学者で俳句の先生でもある人を知っていますが、若いときは高校生に古典を教えて食っていたと聞きます。その人はいまは大学の先生を一応していますが、俳句の採点のほうが忙しいようです。
俳人の芭蕉も、俳句をつくることだけで食えていたわけではありません。
門下生に俳句を教えることでなんとか食えていたのです。
古今東西、学問をやる者は、「学問だけに熱中できた」なんて例はまれで、ほとんどの場合は、「誰かに教える」ということを一緒にすることで、なんとかやっていたのです。
それが、20世紀になって、研究が「国家事業」となり、「サラリーマン研究者」という職種が生まれました。
この職種の歴史はせいぜい100年ほどしかないのです。
同じことが、小説家についても言えます。
かつて、小説家というのは、専業ではありませんでした。
夏目漱石も芥川龍之介も、大卒後、(小説だけでは食えないので)教職に就いています(英語を教えていた)。
彼らはのちに専業の小説家となりますが、これはたまたま運が良かった(新聞社が彼らを一本釣りした)だけで、「例外的なこと」だと思います。
小説だけで食えている人が結構たくさんいる現代社会のほうが、歴史的に見れば「例外的なこと」です。
そういう経緯を忘れて、「小説家だけでは食えないから、小説家になるのはやめとこう」というふうに判断するのは、私は「なんか違う」と思っています。
同じことが、「研究者」についても言えます。
「研究だけでは食えないから、研究者になるのはやめとこう」というふうに判断するのは、私は、「なんかおかしい」と思います。
専業研究者だけが研究者を名乗ることができるわけではありません。
このあたりを、もう一度見直す必要があるように私は思います。
博士課程への進学というのは、博打に等しいわけです。
博士課程に進学できるくらいの能力があるなら、その能力の一部を使って、誰かにものを教える仕事をすることができると思います。
少子化の時代ですが、中学の私学受験者の割合の増加など、勉強熱は加熱しています。
「勉強できなくて困っている」というような人はやまほどいます。
需要は「ありまくり」です。
博士課程まで行くほどの能力がない人が、安易に教育業に流れ込み、あやふやな知識を子どもたちに植え付けることをゆるすくらいなら、最初から、博士課程まで行くような人がそういう仕事「も」すればいいのです。
こういうことが明示的にあまり語られないのは、「それをしちゃうと、安易に教育業に流れ込んでいた人たちの就職先がなくなる」からでしょうか。邪推ですが。
でも、仮にそうだとしても、「どちらが、教わる子どものためになるか」ということを考えてみてください。
答えは明白だと思います。
第2新卒扱いだと思いますけど、一般企業の就職において「研究」してきたことがどう役に立つのか、説明できますか?また、一般企業に就職するのに博士課程まで進学した理由を説明できますか?そんなもの、いくらでも、どうにでも説明が付きます。
というかむしろ、それをどれくらいちゃんと説明できるかが、就職試験であると言っても過言ではないでしょう。
もし十全を尽くして説明しても相手が納得しないのだとしたら、第2新卒だから、第1新卒じゃないから、という理由だけで落されるのだと言うのなら、それは、「会社の人の頭が固い」からでしょう。彼らが、
「第1新卒じゃないと使い物にならない」
という、古き良き時代の神話に取り憑かれているかわいそうな人たちだからでしょう。
そんな会社に入っても、いいことはないので、さっさと見切りをつけましょう。
「第1新卒」のほうが「第2新卒」よりも、「あまり説明しなくてよい」「説明するのに頑張らなくても良い」というのは事実です。
ですが、それは個人の説明能力の問題です。
ほんらいは、全員が、きちんと自分の来歴を説明するべきなのです。
なのに、それをさぼって、「第1新卒だから」とか「どこどこ大学卒だから」というような理由だけで採用されるというほうがおかしいのです。
こういう「常識」が、もっと広く日本社会に受け入れられる日が来ることを、願っています。
今の私の夢は、古文の教科書の語釈に私の解釈が採用されることです。直接、社会の役には立たないとは思いますが。ほんの一語の解釈であってもそこから作品の読みが変わる可能性があります。悪くない仕事だと思います。
「古文の教科書の語釈に自分の解釈が採用されること」は、私は、十分に社会の役に立っている、と思います。
直接か、間接か、などと言い出すときりがないでしょう。
是非頑張ってください。
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