史書名
| 記事年
| 鬱陵島名称
| 島の状況
| 鬱陵島以外の島
| 備考
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三国史記
(1145年)
| 512年(智證麻于13年夏6月条)
| 鬱陵島(于山国の別名)
| 100里(40km)四方の大きさ。
| なし
| 于山国が新羅に降伏。于山国=鬱陵島。
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三国遺事
(1280年)
| 智哲老王
| 羽陵島(旧名:
于陵島)
| 溟州から帆船で2日。周囲26,730歩(20km)。
| なし
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高麗史
| 930年(太祖13年8月庚寅)
| 于陵島
| (人が居住)
| なし
| 于陵島から来朝
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| 1019年(顕宗10年7月乙卯)
| (于山国)
| (女真の侵略で)于山国の避難民に帰島させる。
| なし
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| 1141年(仁宗19年 7月辛酉)
| 鬱陵島
| 鬱陵島から菓核と木葉を採取。
| なし
| 李陽実が調査員派遣
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| 1273年(元宗14年2月癸酉)
| 鬱陵島
| 元が大木を要求したため、鬱陵島に虚珙を派遣。高麗の要請により伐木は中止。
| なし
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太宗実録(1431年)
| 1403年(太宗3年8月丙辰)
| 武陵島
| (人が居住)
| なし
| 本土へ移住。(空島政策)
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| 1407年(太宗7年3月丁亥)
| 武陵島
| 対馬宗氏が(対馬人の)鬱陵島への移住を要請。
| なし
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| 1412年(太宗12年4月巳巳条)
| 武陵島
| (60人が生まれ育つ)
| 生まれ育った武陵島から、流山国島に60人が移住。移住した島は、東西・南北共に2息(2.4km)、周囲8息(10km)
| 於羅津に来た白加勿の証言。
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| 1416年(太宗16年9月庚寅)
| 武陵島
| 周囲7息(8km)。傍らに小島あり。島には田が50結ほどある。
| (武陵島傍らの小島:現chukdo)
| 朴習が昔、聞いた話
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| 1417年(太宗17年2月壬戌
| 于山島
| 金麟雨が、于山島に行って、大竹、水牛皮、生芋島を持ち帰る。86人が住んでいる。
| なし
| 安撫使金麟雨の現地調査報告
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| 1417年(太宗17年8月巳丑) | 于山武陵
| 倭が于山武陵を寇す。
| なし
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世宗実録(1454年)
| 1425年(世宗7年10月乙酉) | 茂陵島 | (20人が隠れ住む)
| なし
| 金麟雨の刷還
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| 1436年(世宗18年6月丙辰) | 武陵島于山
| 武陵島于山は土地が肥沃。東西南北は50里
(20km)。島に移住させようと提案。
| なし
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| 1437年(世宗19年2月戌辰) | 茂陵島 | 土地が肥沃で陸の10倍穀物が取れる。産物多し。
| なし
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| 1438年(世宗20年7月戊戌) | 武陵島 | 男女66人が住む。砂鉄、大竹等が採れる肥沃な土地。
| なし
| 刷還 |
高麗史地理志(1452年)
| 鬱陵島
| 武陵若しくは于陵
| 島民は、太祖13年農産物を献上。中央に大きな山があり、東西23,000歩、南北
23,000歩。村が7カ所、石仏・鐵鐘・石塔がある。(顕宗11年の調査報告) | 一説には、于山、武陵は別の島であり、2島は遠く離れていない。晴天の日には望み見ること
ができる。
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世宗実録地理誌(1454年)
| 江原道蔚珍県
| 武陵
| (高麗史地理誌とほぼ同じ)
| 于山武陵の2島は遠く離れていない。晴天の日には望み見
ることができる。 |
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東国輿地勝覧(1481年) | 蔚珍県 | 鬱陵島(武陵、羽陵とも言う) | 三峰がある。晴れた日には山頂の樹木や沙渚が明確に見え
る。 | 于山島、鬱陵島2島がある。一説には1島である。 |
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