半島の史書で検証する竹島。 | 739|共感0
1410815| JAPANoppekepe7 | 2006.04.17 19:49:53
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韓国は昔の史書に出てくる于山島を「竹 島」に比定することにより、「歴史的に竹 島は韓国の領土」と主張している。それでは、史書の于山島の記録を検証してみよう。


<鬱陵島関連の史書の記述>

史書名

記事年

鬱陵島名称

島の状況

鬱陵島以外の島

備考

三国史記

(1145年)

512年(智證麻于13年夏6月条)

鬱陵島(于山国の別名)

100里(40km)四方の大きさ。

なし

于山国が新羅に降伏。于山国=鬱陵島。

三国遺事

(1280年)

智哲老王

羽陵島(旧名:

于陵島)

溟州から帆船で2日。周囲26,730歩(20km)。

なし



高麗史



930年(太祖13年8月庚寅)

于陵島

(人が居住)

なし

于陵島から来朝



1019年(顕宗10年7月乙卯)

(于山国)

(女真の侵略で)于山国の避難民に帰島させる。

なし





1141年(仁宗19年 7月辛酉)

鬱陵島

鬱陵島から菓核と木葉を採取。

なし

李陽実が調査員派遣



1273年(元宗14年2月癸酉)

鬱陵島

元が大木を要求したため、鬱陵島に虚珙を派遣。高麗の要請により伐木は中止。

なし



太宗実録(1431年)

1403年(太宗3年8月丙辰)

武陵島

(人が居住)

なし

本土へ移住。(空島政策)



1407年(太宗7年3月丁亥)

武陵島

対馬宗氏が(対馬人の)鬱陵島への移住を要請。

なし





1412年(太宗12年4月巳巳条)

武陵島

(60人が生まれ育つ)

生まれ育った武陵島から、流山国島に60人が移住。移住した島は、東西・南北共に2息(2.4km)、周囲8息(10km)

於羅津に来た白加勿の証言。



1416年(太宗16年9月庚寅)

武陵島

周囲7息(8km)。傍らに小島あり。島には田が50結ほどある。

(武陵島傍らの小島:現chukdo)

朴習が昔、聞いた話



1417年(太宗17年2月壬戌

于山島

金麟雨が、于山島に行って、大竹、水牛皮、生芋島を持ち帰る。86人が住んでいる。

なし

安撫使金麟雨の現地調査報告



1417年(太宗17年8月巳丑)于山武陵

倭が于山武陵を寇す。

なし



世宗実録(1454年)

1425年(世宗7年10月乙酉)茂陵島(20人が隠れ住む)

なし

金麟雨の刷還



1436年(世宗18年6月丙辰)武陵島于山

武陵島于山は土地が肥沃。東西南北は50里
(20km)。島に移住させようと提案。

なし





1437年(世宗19年2月戌辰)茂陵島土地が肥沃で陸の10倍穀物が取れる。産物多し。

なし





1438年(世宗20年7月戊戌)武陵島男女66人が住む。砂鉄、大竹等が採れる肥沃な土地。

なし

刷還
高麗史地理志(1452年)

鬱陵島

武陵若しくは于陵

島民は、太祖13年農産物を献上。中央に大きな山があり、東西23,000歩、南北
23,000歩。村が7カ所、石仏・鐵鐘・石塔がある。(顕宗11年の調査報告)
一説には、于山、武陵は別の島であり、2島は遠く離れていない。晴天の日には望み見ること
ができる。



世宗実録地理誌(1454年)

江原道蔚珍県

武陵

(高麗史地理誌とほぼ同じ)

于山武陵の2島は遠く離れていない。晴天の日には望み見
ることができる。


東国輿地勝覧(1481年)蔚珍県鬱陵島(武陵、羽陵とも言う)三峰がある。晴れた日には山頂の樹木や沙渚が明確に見え
る。
于山島、鬱陵島2島がある。一説には1島である。




<史書の記録の経緯の纏め>

  • 1412年以前の記録では、「于山」は国の名称、「鬱陵」は島の名称として区分しており、鬱陵島以外の島の存在を認識していない。
  • 1412年に白加勿が証言した、「60人が定住可能で周囲が10kmある島」は、鬱陵島周辺にはない。即ち「流山国島」は、架空の島である。空島政策破りの発覚を恐れての嘘であろう。
  • 1412年以降では、人が住んでいる島(鬱陵島)を于山、鬱陵、于山武陵と混在して表現している。
  • 地理誌等においても2島と断言してるのは世宗実録地理誌のみ。その世宗実録地理誌も島の状況の描写は鬱陵島のものである。
  • 于山島への上陸記録や調査記録が存在しない。全て伝聞によるものであろう。


ここまで、くればお分かりであろう。于山島は、「白加勿が創作した鬱陵島に類似した架空の島」で ある。嘘により于山国島、武陵島の2島があるとの噂が広まった。この噂から「于山島、武陵島、芋山武陵」を鬱陵島の別名として使用。編年形式で出来事を記 載する本編にも2島説は出てこない。地理誌等の編纂者は、架空の島の噂をもとに、1島・2島説を並記。世宗実録地理誌は、単に編纂者が架空の島を盲信した に過ぎない。(それ故、高麗史地理誌から新たな知見は皆無であり、後年の東国輿地勝覧で再び1島説が復活。)
IP xxx.251.xxx.2
imonegi|04-17 19:53
oppekepe7> ミ ^ ω^ ミ/ こんばんは! ごぶさたしています!
oppekepe7|04-17 19:56
ご無沙汰です。仕事が一段落したので、活動を再開しました。今、極力判例の原文を援用する形で、竹島関係のサイトを作成中です。完成はいつになるかわかりませんが。
chihouroujin|04-17 20:00
韓国政府が逃げ回るのが良く分かりましたw
capricon1|04-17 20:02
仲間が増えるのは嬉しい^^
imonegi|04-17 20:03
oppekepe7> ミ ^ ω^ ミ/ それは楽しみです!すごく充実したものになりそうですねえ。
oppekepe7|04-17 20:04
しかし、クリッパートンの判例はイタリア語なんだよな・・・・・。
 → capricon1|04-17 20:08
あららら-、でも貴殿なら不可能ではない!
imonegi|04-17 20:10
クリッパートンの判例はイタリア語なんだよな> ミ´・ω・`ミy-~~ マジっすかあ。。。それはつらいなあ。。。
oppekepe7|04-17 20:15
クリッパートンの判例は全訳があるので、それを頼りにするしかないですな。
imonegi|04-17 20:22
oppekepe7> ミ´・ω・`ミy-~~ でも、あれってちょっと特殊で面白い事例ですよね。 意思表示の方法も簡便で、場所も場所でしたし。
 → oppekepe7|04-17 20:28
クリッパートンの判例は批判が多いよ。論理も極めて雑ぱくで曖昧だし。そもそもイタリアの王だけで決めた奴だからね。メキシコでは、フランスとイタリア王がグルだったという話があるみたい(イタリア・フランス間で問題となっていた別件でフランスが譲歩したらしい)。
imonegi|04-17 20:34
oppekepe7> ミ´・ω・`ミy-~~ そこんとこからすると、同じ仲裁裁判でもその3年前のフーバー判決は法律構成から証拠の評価方法まで論理が明快で説得力がありますよね。
 → oppekepe7|04-17 20:40
そうですね。ちょっとくどい気もしますが。PALMASの判例が評価されている所以でしょう。
buyamond|04-17 20:47
馬鹿たちの対話マーチ. ^^*
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- 半島の史書で検証する竹島。 [14]
【韓国人へ問題】 1996年韓国と日本が宣言した新海洋法の中身を書きなさい。 [9]