世界的な規模の不況が木枯らしのように吹きすさぶなか、「変」の1字に凝縮された2008年が過ぎ行こうとしています。
上着の襟を立てて北風に向かっていると、なぜか、平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中の歌が郷愁のように脳裏をかすめました。
〈遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ〉
いろんな解釈が試みられている歌ですが、一般的には、「無心に遊んでいる子どもたちの天真らんまんなようすを見ていると、自分の体も自然と動きだしてくるようだ」といった意味とされています。
多くの物事は刻々と変転していきますが、どの時代にも変わらないものがあります。まるで遊びや戯れをするために生まれてきたかのような子どもの純真さ、愛らしさは、不変なものの代表でしょう。
■無差別の復讐心
東京・秋葉原で6月、7人が亡くなり10人がけがを負った無差別殺傷事件のあの20代の男にも、この歌のように無垢(むく)な時期があったはずなのに。
その記述のすべてが彼のありのままの心情を記しているとは限りませんが、男が犯行の直前までインターネットの掲示板につづった書き込みを読み返してみました。
社会から孤立し、自己卑下と自己否定を積み重ねた末に、それが社会に対する自爆テロにも似た無差別的な復讐(ふくしゅう)心に膨れ上がっていった過程を読み取ることができます。
10月には、大阪市の個室ビデオ店で火災があり、16人の客が亡くなりました。客の1人だった40代の男が逮捕され、放火、殺人、殺人未遂の罪で起訴されています。
11月には、埼玉県と東京都で旧厚生省の元事務次官宅が刃物を持った40代の男に襲撃されて2人が亡くなり、1人が大けがをしました。「保健所に飼い犬を殺されたかたきをとった」と、動機を語っています。
昨年を象徴する漢字は「偽」でした。食品の産地偽装、振り込め詐欺など、人を欺く出来事は今年も延々と続きました。人をだまして品物を売ったりお金を得たりして生きていくことを恥と思わないような人がいるのは、悲しいことです。
「先生」の採用や昇進、異動をめぐってわいろの授受があったとされる大分県教育委員会の汚職事件も、「偽」が横行する風潮の線上で起きた不祥事でした。子どもの間に教師に対する不信感を広げたことで、その罪深さは何倍にもなりました。
厚生年金の支給額の算定基盤となる標準報酬月額の記録を、社会保険庁が6万9000件も改ざんしていた疑いが濃いことが明るみに出ました。
厚生労働相の調査委は現場レベルでの組織的関与を認めました。怠慢やミスによる「消えた年金」ではなく、社保庁職員によって意図的に「消された年金」なのですから、年金を命綱とする人々にとって酷な仕打ちです。
ふと、天動説という言葉が思い浮かびます。すべての天体が地球の周りを回っているとする天動説は、16世紀にコペルニクスが地動説を唱えて以降、少なくとも科学の世界では過去のものになっていきました。
しかし、最近の事件や世相を見ていると、天動説のような感覚で生きている人が少なくないのではないか、と思えてきます。
自分1人だけが世界の中心に位置している、とする天動説的な世界観だけを物差しとして生きていると、人は他者に対する寛容な心、他者の痛みを思う気持ちを失い、世界に対してむごいことや身勝手なことができるようになるのだと思えてなりません。
世界の人口は現在約67億人と推定されています。それと同じ数の「世界の中心」があることを、私たちは認識していなくてはならないのです。
■木の芽のように
「地動説の心」を持って生きてこそ、他者に対して優しくなれるのではないでしょうか。
ポール・ヴァレリーの長い詩「海辺の墓地」の1節が思い出されます。
〈風が起きる…生きる努力をしなくてはならない!〉
風とは、それが肌をなでる感触によって人に生の実感を与え、同時に、生きていく勇気をかき立てるものなのかもしれません。
それにしても、みるみるうちに世界を覆った不況の嵐は、人から凶暴に仕事を奪っています。ともすれば生きる気力すらなくしてしまいそうです。
しかし、私たちは、このような風に屈してしまうわけにはいかない、何としても、生きる努力をしなくてはならない。永遠に吹き続ける北風というものはなく、和らぐ日が必ずやって来るのですから。
落葉した木の枝を見ると、上着をしっかり着込んだ堅い木の芽が冷たい風にさらされて、やがて訪れる暖かい春の日差しを夢見ながら揺れています。「冬来りなば春遠からじ」ということを語りかけているようです。私たちも、木の芽のように時代の冬を乗り切らなくては。
=2008/12/31付 西日本新聞朝刊=