その42 ドリームジム 三浦数馬選手


PHOTO BY 山口裕朗



 「ボクシングは、結局勝ったヤツが強いんです。リングの上が全て。噛み合うとか、噛み合わないとか言うのは言い訳に過ぎない。相手の良さを殺すのも強さなんです。前回の苦戦も、あれが今の実力です」と、言い訳を嫌う修行僧のように語った。
思いの外、饒舌(じょうぜつ)にボクシング論を語りつつ、時折見せるはにかんだ笑みは、それまでの印象を覆し、私達を心地よくしてくれた。

 中島孝文選手(ドリーム)から紹介された今回の“戦士”は、同じくドリームジムの先輩で、現在日本バンタム級8位の三浦数馬選手だ。
 ドリームジムで三浦選手の練習を見学して、食事をしながらの対談に出かけようとすると、「うちのお坊ちゃま、全然喋んなくてつまらないけど、よろしくお願いしますね〜」南真紀子マネージャーは、ニヤニヤしながら私達を見送ってくれた。
 「近くにファミレスがあるんで、そこでいいですかね」私と“写真家”の山口裕朗氏は、バイクで先導する三浦選手の後に続いた。
 話をするのは初めて。何となく変わった雰囲気を持つ三浦選手と、どんな対話になるのか、不安と楽しみが入り混じった気持ちだった。



三浦利美ドリームジム会長と同じ青森県弘前市の出身で、小さい頃から活発な子供だった。友達の間ではゲームが流行っていたが、三浦少年は買ってもらえず、外で野球などをして遊んでいた。
中学時代は陸上部に所属し、110メートルハードルの選手として活躍した。「あぁ、だから足のバネが強いんだ!」と納得すると、「いやぁ、市の大会に出場した程度ですから・・・」と、謙遜していた。

 高校に入学すると、「俺の前の席のヤツが、ボクシング部に体験入部をするって言うので、付き合いで参加したんです。自分に合うとは思ってなかったんですけど・・・」
 当時、辰吉丈一郎vs薬師寺保栄の試合を見て熱くなったりはしたが、それ以上、ボクシングに対する特別な思いは持っていなかった。
 ところが、やってみると以外と面白い。しかも個人競技だから、自分の頑張った分が結果として帰ってくる。そんなところが気に入って、正式に入部することになった。
しかし、このボクシング部には部員が3〜4人位しかおらず、あまり盛んに活動がおこなわれていなかった為、三浦数馬少年は、現・ドリームジム会長の三浦利美氏の母校、名門・弘前東高校(旧・弘前東工業)ボクシング部に出稽古に通うのが常だった。
初めに三浦少年を誘った「前の席のヤツ」は、1年でボクシング部を辞めてしまった。しかし、壺にはまってしまった三浦少年は、秋の新人戦に出場。残念ながら1回戦でKO負けを喫し、悔し涙を呑んだが―「そこからボクシングに真剣に取り組むようになったんです」と、かえって目覚めてしまったのだ。
“負け”を何かのせいにしたかったが、それが全て自分のせいだということに気付かされた。「“勝ち”も“負け”も、全て自分の責任―という部分が好きになってしまったんです」青森県のバンタム級で優勝し、インターハイではベスト8まで進出した。

高校の青森県選抜で、大学リーグを見学する機会があった。後楽園ホールで、自分の大学の看板を背負って戦う姿が眩しかった。「大学でやりたい!」三浦少年は強く思った。
こうして東洋大学ボクシング部に推薦入学をすることになった。「両親は好きな事をやりなさい。そして責任は自分で取りなさい」と言って応援してくれた。プロになってからも、ご両親は毎回、後楽園まで足を運んでくれている。

ふと、はにかんだ三浦選手に、“写真家”山口氏は「笑うこともあるんですね!はい、もっと笑って!」とレンズを向けた。どちらかというと、いつも修行僧の様に厳しい表情を崩さない三浦選手だが、話の合間に見せる笑い顔は意外と可愛らしかった。
「自分の笑った顔は、あんまり好きじゃないです」また修行僧のような表情に戻って、ボソッとつぶやいていた。

大学を卒業後、飲食店にトラックで食材を運搬する仕事に就職した。「仕事とボクシングは、両立出来ると思っていたんです」そう思って社員として働きながら近くのジムに入門した三浦青年だったが、朝8時から夜8時の勤務時間から、十分な練習時間を搾り出すことが出来ず、4ヶ月でその会社を辞めてしまった。

その後、かつて練習に通っていた弘前東高校(旧・弘前東工業)ボクシング部の出身で、セレス小林を育て、最優秀トレーナー賞、エディ・タウンゼント賞を受賞したクラッシャー三浦氏が会長を勤めるドリームジムを見学に訪れた。
「青森弁で気さくに話しかけてきた三浦会長を見て、堅苦しくないジムなんだなと思いました」ただ堅苦しくないだけではなく、ミット練習もすごい。設備も良いし、指導者も良い。「そして何よりも、走れる環境があるのが魅力的でした」と、近くに河川沿いのサイクリングコースがあったことも、このジムを選んだ大きな理由のひとつとなった。

今は東十条駅の車庫の中で、電車の改造の仕事をしている。ジムの後輩の紹介で始めた仕事だが、この会社の社長が三浦選手のことをとても応援してくれている。
アルバイトから契約社員に登用してもらい、時間は9時から5時きっかりに上がらせてもらっている。土日は休みで、それ以外にも休みの融通は自由に利く。試合の時にはチケットを買って、社員皆で応援に来てくれる。「ボクシングをやるのに、こんな良い環境はありませんよ」と三浦選手が言う通り、練習時間と休日を確保出来、収入も安定している職場はなかなかあるものではない。「本当に恵まれていると思います」そう言ってはにかんだ顔がまた可愛かった。

大学ボクシングを経験した三浦選手だったが、「WOWOWエキサイトマッチを観て育ったので、絶対にプロにはなりたかったんです」と、また修行僧の顔に戻った。「全然喋んなくてつまんないけど・・・」と言っていた南真紀子マネージャーの言葉とは裏腹に、この修行僧は結構喋りまくった。
「俺、ボクシングマニアなんですよ」と言う三浦選手は、実家にボクシングのビデオが1000本位、ボクシングマガジンは12年分位とってある。
「パーネル・ウィテカにはショックを受けました。あの絶対打たせないボクシング、間合いとポジショニングを使ってボディワークでパンチを殺すテクニック・・・。空間を読み取る力を持っている。それが大事だって解ったんです」この辺から、三浦選手の独壇場となった。
「ガードは確かに大切ですけど、ポジショニングの方が大事だと思うんです。WOWOWを観て、世界戦で何故日本人がなかなか勝てないのか考えるようになりました」技術論の意見交換が大好きだと言う三浦選手。マシンガントークの三浦会長にして、この三浦選手ありという感じだった。
「間とタイミングを追及してゆきたいです。ジャブとワン・ツーを極めれば世界を獲れるとさえ思っている。どう当てるか、そしてその精度を高めていきたい。ジャブを打つ前の段階が大切だと思うんです」
そして、「ボクシングは、結局勝ったヤツが強いんです―」この言葉の奥には、技術論を追求してゆく先に、結局結果が全てだという厳しさを熟知している修行僧の悟りを感じた。

「昔から、何でもいいから“日本一”というものに憧れていました。日本タイトルを絶対獲りたいです。“日本一”に対する思いは、他の人より強いんです」
最終目標を尋ねると、「ラスベガスで試合をすることですかね。ベストウェイトはSバンタムですけど、憧れがつまっている“黄金のバンタム”だったら最高です」そう言ってはにかんだ三浦選手への印象は、初めの頃とはもう180度変わっていた。

7月17日(月)海の日、新宿フェイスで池田光正(花形)との試合が決まっている。このコラムがアップされる頃には結果が出ていることだろう。
笑顔の可愛い修行僧―三浦数馬選手の健闘を祈る・・・。




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●新田 渉世 (にった しょうせい)
1967年生まれ。92年横浜国立大学卒業。96年東洋大平洋バンタム級タイトル獲得。97年引退。98年米国サンフランシスコへ移住し、『ワールドボクシング』誌にて「ショーセイのアメリカボクシングライフ」連載開始。99年『Talk is cheap』にて「戦士と語る」連載開始、同年ケンウッド入社。03年2月神奈川県川崎市に新田ボクシングジムをオープン、同年ワールドボクシングwebサイト上にて「新米ジム会長奮戦記」連載開始。04年東日本プロボクシング協会書記担当理事に就任。

新田ボクシングジムHP
http://www.nittagym.com/

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