ゴッホ
ゴッホの讃える日本
「日本の芸術を研究してみると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者である人物に出会う。・・・自らが花のように、自然の中に生きていくこんな素朴な日本人が我々に教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか。
日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。・・・僕は、日本人がその
作品の全てのものに持っている極度の明確さを羨ましく思う。・・・彼らの仕事は呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように簡単に、楽々と確か
な数本の線で人物を書き描き上げる。
ああ、僕もわずかな線で人物が描けるようにならなければならない」
モネ
日本の衣装を着けた妻カミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』 1876年の第2回印象派展に出品
モネは日本庭園も好きで自宅に池を作り、睡蓮(suiren)を盛んに書いた。
モネが作った池。
ゴーギャン
「説教の後の幻影」(The Vision After the Sermon)では、ヤコブと天使が闘う姿は、「北斎漫画」の相撲の図から借用であるし、画面を斜めに渡る幹の大胆なトリミングはまさしく広重のそれである。ゴッホも「種蒔く人」で応用している。
エドゥワール・マネ エミール・ゾラの肖像
ピエール・オーギュスト・ルノワール
団扇を持つ少女
Emile Galle (1846~1904)
ガレは、自然に恵まれたフランス東部ロレーヌ地方のナンシーに、陶器・ガラス工場の一人息子として誕生します。幼い頃から文学と植物を愛した少年は、教育
熱心な両親のもと、リセー(高等中学校)で哲学・文学・植物学・絵画に優れた成績をおさめます。16才でドイツのワイマールに留学し、鉱山学やデザインを
学んだ後、父の工場を継ぐため、マイゼンタールのガラス工場で修業しました。1878年、32才の時、パリ万博に出品した作品が金賞を受賞したことによ
り、ガレは世に認められます。 40才の時、彼はナンシーで一人の日本人・高島得三(北海)と出会います。 フ
ランス語に堪能で、画才もある高島は、ガレに日本の美術(特に花鳥草木を装飾モチーフとした表現)を伝えます。ガレは自らの作品に、菊や竹、朝顔、とん
ぼ、かまきり、ばった等日本風の文様をとりいれるようになりました。もともと園芸を趣味とし、東部フランスの園芸協会の副会長を永年務めたという経歴をも
つガレは、並々ならぬ自然への愛着を持っていました。ガレの心に眠る「自然」と、「ガラス」という素材が、「日本美術」を通して結びついた時、彼の作品は芸術となり、ヨーロッパに広がるアール・ヌーヴォー様式の流れを生み出したのです。 幼
い頃から親しんだ草花や昆虫、自然への愛情を作品に映しこみ、またある時はヴィクトル・ユゴーやメーテルリンク、マラルメの詩をガラスに刻み、「語りかけ
るガラス」といわしめる、メッセージ色の強いガレのガラス。これらは1889年、1900年のパリ万博でグラン・プリを獲得し、フランス最高の勲章である
レジオン・ドヌール受章の栄誉に輝きます。王族や著名人への贈り物としての注文も多かったそうです。アトリエの扉には、「MA RACINE EST
AU FOND DES BOIS(我が根源は森の奥にあり)」というガレの信条が刻まれていました 。「運命のいたずらでナンシーに生まれた日本人」と評されるほど、日本のこころ、日本の美を愛し理解した彼の作品は、100年の時を経た今でも、多くの人々に愛されています。
<浮世絵と国際交流>日本美術が海外に与えた影響 * ジャポニスム (japonisme) はフランス語の言葉で、直訳すると、「日本主義」であろうが、「日本ブーム」、「日本熱」、「日本趣味」あるいは悪く言うと「日本病」、「日本マニア」の意味で、
十九世紀後半に、パリを発信地としてフランスと西洋全体に広がった「日本的なもの」の流行 を指している。また、美術史で西洋美術、とりわけ印象派と ア-ル・ヌーヴォに認められる日本美術の影響を意味している
* 日本美術に対する関心は、開国の後、1856年あたりから現われてきた。最初の出会いは、日本の主要な輸出品目だった磁器の包装紙として使われた『北斎漫画』だったと伝えられている
*
ジャポニスムの起爆剤になったのは1867年にパリで開催された国際博覧会である。この博覧会に幕府は参加して、「日本館」を展示した。当時の日本の事情を反映して、幕府のほかに、薩摩藩、佐賀藩と民間人も独自で展示場を設けた。幕府の日本館は日本建築で、日本庭園もあり、美術品、工芸品、織物、日常生活の道具など展示され、民族衣装を着ていた日本人と本物の芸者もいた。謎の国の日本に対する好奇心が強かっただけに、日本館の人気は高く、百六十万人にもなった万博の入場者の大部分はそれを訪れ、展示物は完売された * 日本館に注目したのは、特に知識人と芸術家であった。彼らを中心して、日本ブームは強い勢いで広がってきた。同じ1967年にパリでClub Jiglarというクラブは開店し、そこに日本のファンは、日本的な雰囲気で、 saki(さけ)を飲みながら楽しんでいた。そのなかに、当時フランスの文学界を風靡した作家のゾラとボードレールと評論家のゴンクール兄弟もいた。1982年に、Club Jiglarについで、Le Divan Japonaise (日本のソファ)という新しいクラブが開店した
* 日本の美術品、工芸品などは多量に輸入され、浮世絵・墨江・花鳥画・屏風・扇子・団扇・茣蓙・陶器磁器など、パリを始め、西洋各国の中流階級のサロンを飾るようになった。着物も流行した。japonaiserieまたは japonerie(日本的なもの)の流行は20世紀の初頭まで継続し、美術品、日常品、ファッションなどに影響を与えた
* 明治政府も万博の政策を継承し、その後のすべての万博に積極的に参加し、日本文化の独自性を強調した。それはジャポニスムに拍車をかけた
*
1867年のパリ万博の日本館に100枚ぐらいの浮世絵が展示されていた。その鮮やかな色と、凝った装飾性、珍しい構造など、芸術家の関心を呼び、浮世絵のブームも起した。モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ロートレック、ゴーギャンなど、当時の重要な画家は浮世絵を蒐集し、それに少なからぬ影響を受けた。1890にパリの美術学校で日本美術の展示会が開かれ、1153点の浮世絵が展示された。 1888年から1891年までLe Japon Artistique(美術の日本)という豪華な月刊誌まで出版されるようになった。また、多くの芸術家は日本を訪れるようになった。浮世絵の絵師のなか、もっとも評価されたのは北斎と広重で、それらについで写楽と歌麿も重視された * 印象派の絵画に浮世絵の影響は特に強い。19世紀半ばのフランスの画家たちは、自然の再生を追求したルネッサンス以来の美術にあきらめ、新しい表現を模索していた。彼らは浮世絵との出会いから大きな刺激を受けた。印象派の絵画に浮世絵の影響として指摘できるのは、
1. 立体感の少ない平面的な画面
2. 影の少ない明るい表現への志向
3. 色彩で構成された画像
4. 従来の常識から離れた構造
5. 日常的生活から得られるテーマ
* ジャポニスムの知識人は日本を美と優雅の国として理想の桃源郷として理解していた。画家のドガの言葉は象徴的である。パリで洋画を勉強しに来た日本人留学生を見て、「日本で生まれる幸運に恵まれた人間は、ここで美術なんか勉強するのは全く無意味だ!」と * 反面、ジャポニスムの芸術家たちは日本美術を正確に理解したとはいえない。日本の美術品をその文化的環境からはずして独断的に解釈し、自分の作品のための刺激として利用するに止まった
* 19世紀の終わりごろ、日本の美術についてもっと本格的な研究が行われ、浮世絵のほか、墨江、日本画、陶器も注目され、日本の美の意識はにぎやかな浮世絵で尽きず、地味な志向もあることが分かるようになった。このあたりから日本のデザインとして花鳥画に焦点を置き、自然の表現と曲線の美が重視された。それはアール・ヌーヴォの形成に大きな影響を与えるようになった
ロートレックとジャポニズム
トゥールーズ=ロートレックが生きた19世紀後半では「ジャポニズム」という日本芸術に対する好奇心と熱烈な称賛が流行していた。知識人達は強く触発さ
れ、画家たちにいたっては流行以上のものとして多大な影響、その後の絵画の流れを左右するほどの影響を受けていた。当然ロートレックもジャポニズムに深く
影響された画家の一人である。
ロートレックが始めてジャポニズムというものにふれたのはパリであった。パリでは1880~1890年代にかけて頻繁に質の高い日本の絵画及
び浮世絵の展覧会が催されていた。ロートレックはパリに出たての1882年からボナやコルモンに絵を学んでいた。しかし浮世絵と出会ってからはその二人の
技法を捨てて浮世絵と言う新しい絵画に夢中になった。またコルモンのもとで学んでいた時にはあのヴィンセント・ヴァン・ゴッホと出会っている。ゴッホもま
たジャポニズムの魅力にとらわれた画家の一人である。
ロートレックは持ち前の感受性や時代の空気と様々な人々を鋭く観察していた事が日本画の影響を受けるにあたり素晴らしい作品を生み出す要因と
なったと考えられる。これは日本画における歌麿の大首絵や写楽の役者絵にみられるような興行界を意識した絵、ロートレックが「ムーランルージュ」に代表さ
れるポスターを製作した事と共通している事からも明らかであろう。
ロートレックが造形上浮世絵から影響を受けた事は多い。それは影を付けないことであったり、「ディヴァン・ジャポネ」や「ウィーン女エルザ」
などと言った作品に見られるような明るい色彩を使用する事であったり、情景を普通とは異なる切り方、「ディヴァン・ジャポネ」に代表される「任意に切り
取った非常に大胆な前景から視線を画面の奥に誘い空間に奥行きを出す広重好みの画面構成」(引用元:ロートレックと日本展・監修:陰里鐵郎・出版社:アー
ツ・インターナショナル・コーポレーション)で画面に取り込む事、この時代に普及した写真に影響を受けたと思われる構図の処理の仕方、日本的な線の使い方
をロートレック自身のアラベスクに応用した事などが挙げられる。
ロートレックの日本画にふれようとする姿勢は、ロートレックの友人であるモーリス・ジョワイヤンが次のように述べている。「ロートレックはモ
ンマルトル大通り19番の半地階で織りなされる全ての事に常に熱心に立ち会い、貪欲に学ぼうとしていた。現在はパリ国立図書館所蔵のテオドール・デュレの
日本の浮世絵と絵本の素晴らしい収集品が委託されたときは、何昼夜もかけてそれを整理し、北斎や歌麿、清長や春信の作品についての知識を仕入れ、彼等の落
款を読みとれるように覚えたり、書いたりしたものだった。」「浮世絵を研究するうちに、ロートレックは、黄色と緑と空刷りを施した灰色の織りなす調和が絶
妙な鳥居派と春信、もっと多彩で複雑な清長、歌麿、栄之の初刷りから学んだ。ロートッレクは歌麿の吉原の絵本に特に傾倒していた。そこには青と薔薇色と緑
の洗練された色階の全てがあった。その色調には言い得て妙な、詩的な名称がついていた。茄子の白。魚の腹の白。薔薇色の雪。桃花雪。青みがかった雪。桃花
月。海老緑。玉葱の芯の緑。緑茶。蟹緑。濃い青は空の黒という。
またロートレックは日本趣味の品を収集する趣味も持っていた。ロートレックが持っていたコレクションには藤椅子や日本の根付、掛け物や多数の
工芸品があったとジョワイヤンが述べている。またロートレックは日本から墨と筆を取り寄せたりもしていた。他に彼が所持していたものとして小さな象の置物
や葛飾北斎や喜多川歌麿の署名入りの浮世絵などがあった。
この事からもわかるようにロートレックは非常に日本に関心を寄せていた。彼の芸術性が高まったのは日本画とであった事が多数の影響を与えている。
実はロートレックは日本へと旅行したがっており、それは計画されたのだが残念ながら実現する事は無かった。
[PR]
外国為替証拠金取引
もし、ロートレックが日本に来ていたとしたら、彼の絵はさらにすばらしいものとなっていただろうか。しかし今となってはそれを知る術は無くなったのである。
■
踊りの花形(エトワール、又は舞台の踊り子) 1878年頃
(L'étoile de la danse (L'étoile ou danseuse sur scène))
60×44cm | モノタイプ・パステル | オルセー美術館(パリ)
印象派を代表する画家エドガー・ドガ随一の代表作とされる『踊りの花形』。エトワール、または舞台の踊り子とも呼ばれる本作は、画家が旅行先のアメリカか
ら帰国した1873年から、頻繁に手がけられるようになる≪踊り子≫を主題に描かれた作品である。本作で最も目を惹きつけるのは、舞台上で軽やかに舞う踊
り子であり、(舞台に設置される)人工的な光に下半身から上半身に向かって照らされる踊り子の表現は、秀逸の出来栄えを示しており、画家が得意とし、しば
しば自身の作品で取り上げ表現した人工光の描写は、本作において斬新かつ効果的に舞台上の踊り子を引き立たせている。また対象が瞬間的にみせる肉体の運動
性や躍動感、踊り子の衣装の絶妙な表現も本作の注目すべき点のひとつである。本作では、観者が踊り子を上から見下ろすという非常に大胆な構図が用いられて
いるが、これは日本の浮世絵の奇抜な構図構成に影響を受けた為である。画面奥には踊り子らのパトロン(夜会服の男)と、出番を待つ脇役の踊り子の姿も描か
れており、舞台上で繰り広げられる華やかな世界とは異なる、厳しいバレエの現実世界も、ドガは容赦なく画面の中に描き出している。なお本作に使用されてい
るパステルは光に弱く、長期で照らされると色褪せが発生する為、所蔵先のオルセー美術館では、照明を落とし、ガラスケースの中に入れられ公開されているほ
か、同一構図による作品が数点、フランスやアメリカに確認されている。
---------------------------
上の方にもあるが、ドガの言葉
パリで洋画を勉強しに来た日本人留学生を見て、「日本で生まれる幸運に恵まれた人間は、ここで美術なんか勉強するのは全く無意味だ!」