日本はじめ、世界の軍隊の女性に対する暴力行為に怒りを覚える韓国の皆さんこんにちは
世界の女性の味方 愛の戦士 キューティーnisiokaです。
韓国の方々が怒りを覚える日本軍の性暴力、、
君達の気持ちは痛いほど判ります。
そう、同意のもとに行われた慰安婦制度は別として、その他の世界の戦場で行われた性暴力は許さざるべきものであると 小生も皆さんと同じく怒りに燃えています。
皆さんは日本軍の性暴力に関心があるようですが、しかし、いくら怒りを感じても、相手は海峡を隔てた小さい列島に居ます。直接糾弾することは難しいでしょう。
日本に居る性暴力犯罪者の糾弾は わたくし愛の戦士nisiokaにお任せください。
Vaw○ーnetの集会などに参加し、その都度 皆様にご報告いたします。
さて、それでは軍隊による性暴力を憎む大陸国家の韓国の愛の戦士の方々は 為すことが無いのでありましょうか?
いいえ、そんなことはありません。
韓国軍の性暴力を糾弾すればいいのです。
君のお父さんや お爺さんが朝鮮戦争やベトナム戦争で性暴力を犯しています。
思いっきり過去の性暴力を糾弾しましょう。
親切な良心的日本人のnisiokatuyosiが 韓国の愛の戦士に その題材をお届けします。
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朝鮮戦争での韓国軍慰安所設立に至る道
第2回 拷問・母性否定・強制結婚
このスレをお読みになる方はまず前スレッドをお読みください
日本側:http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=93872
韓国側:http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=93872
さて、前回に引き続き このスレッドでも 韓国人の方に指示をされている証言を中心にお届けいたします。
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なお、今回も、慰安婦の聞き取り調査で有名な金貴玉氏の調査報告を元にしております。
五・一八光州民主化抗争で見られたような軍部による性暴力が、朝鮮戦争を前後した時期にもおこなわれた。女性の性器に対する暴力、妊婦や胎児に対する反人間的な暴力は、済州島四・三抗争や麗水・順天事態で明らかになった。女性の乳房をえぐったり、妊婦のお腹を切って槍で刺したり、竹槍で女性の局部を突き刺したり、子どもを殺したあと両親に子どもの肝臓をくわえさせて村中運れ回したりした。
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証言
性拷問
証言者:ピョン・ヨンヒ 1924年生れ 全羅南道出身 主婦農業補助 女
○○面で共に入山した女性がいたのだけど、彼女の夫は旧パルチザンで六・二五の前に死んだそう。姓が「羅」さんで、その女性も九・二八後退時に私たちと一緒に入山したの。ただ彼女には息子が四人いて、置き去りにしたままだからそりゃ心配でしょう。心配だから山を下ると言って、私たち最初は反対したのよ。「もう少し後で下りなさい、いま下りたら死ぬ。いままさに軍人たちが入ってきているのに……」と。それで下りたとたんに軍人たちに殺されました。道端で両足両腕を広げたまま逆さに吊るされて、子宮に棒を突き刺して殺したんだ……。
入山した母親は子どもたちが心配になって下山したが、彼女に返ってきたのは侮蔑と差恥心、無法な処刑だけだった。現在は五、六十代の老人となったであろうその子どもたちにとって、母親の死は一生忘れられない事件だろうが、長い間母親の凄惨な死をやりきれなさと同時に恥ずかしく回顧したかもしれない。
母性否定
証言者:キョン・ヨンチョル 1930年生れ 黄海道出身 農業 男
私たちの里に治安隊が組織されて、隊長はホン○○といって農業を営んでいた民主党員だったがひどいやつだった。(略)"パルゲンイ"家族十余人を殴って殺したり、穴を掘らせては生き埋めにさせた。うちの姉はノ氏のところにお嫁に行ったのだが、義兄が労働党員だったため、国連軍が来てからは息子を連れて実家に戻ってきた。治安隊が母親をつかまえては、子どもを風呂敷に包み、親に穴を掘らせて風呂敷ごと穴に捨てさせて生き埋めにするんだ。
証言者:キヨン・イヨン 1921年生れ 黄海道出身 農業 男
証言者:キム・イルマン1921年生れ 黄海道出身 農業 男
国軍が北朝鮮地域を占領して人民軍が後退すると、各地域は越南反共指導者や青年が中心となって地域政権を出帆させたが、その先鋒に立ったのはいうまでもなく西北青年団("西青=ソチヨン"として有名だが、大韓青年団、つまり"韓青=ハンチョ_ン"がより大きな組織)であった。西北青年たちは各地で治安隊や青年自治組織員として活動し大虐殺を主導するなかで、パルゲンイ処断がうまくいかないと圧力をかけて強圧的に処断をした。そうした強圧的雰囲気のなかで、地域のパルゲンイ遺族たちはさまざまなやり方で処理された。子どもを生き埋めにさせられた母親もまた、治安隊の手によって死に追いやられた。
強制結婚
独立映画会社であるハニバラム(「西北の風」の意)のチョウ・ソンボン監督が制作した記録映画『レツド・ハント』(一九九七年)を見ると、済州島四・三抗争を鎮圧するために済州島に入った「西青たちは、来るときに一台のトラックに乗ってきたとしたら、行くときは二台のトラックに乗っていく」という話が出てくる。つまり、島の少女たちと強制結婚して陸地に帰るという意味である。朝鮮戦争当時でも、こうしたことは非常に多かった。
証言者:コ・スニョン 1935年生まれ 黄海道出身 中学生 女
治安隊が組織され、上の兄も歩哨をしながらパルゲンイやその家族をつかまえる仕事をしたんです。処刑場には村の人々や子どもたちもたくさん集まったんですが、兄は私には見せないようにしました。あまりにも残忍だったから。治安隊〔韓青〕は通りごとに見張っていて、党員や党員家族をつかまえて倉庫に閉じ込めて審査した後に殺した。家族のうち娘たちは殺さず、そのほかの特に息子たちは皆殺しでした。娘たちのうち、治安隊員と強制的に結婚させられることもしばしばでした。ほんとに悪いやつら。二人の女を覚えているけど、強制結婚させられた後に夫と越南して水原に行って暮らした女性がいるし、また李○○という女性の場合、夫が労働党員でわが軍が入ってきてから逃げたんだけど、彼女は治安隊によって強制的にくっつけられたのよ。
証言者:束草住民たち
韓国軍番一番として有名なイ・ヒョングン将軍も、仁川収復の際に歓迎の花束をかけてくれた女子高三年生を後妻として得て、五一年に一軍団管轄地域であった束草に連れてきて暮らした。
証言者:O氏ハルモニ 1923年生まれ 江原道 主婦・農業補助 女
二軍団司令部近隣の扶月里一般住民たちの家を無断で奪い、そこで本妻でもない、北部から後退する際に連れてきた若い少女たちも一緒に住まわせた
証言者:チェ・ミンギル 1934年生まれ 咸鏡南道 事務員補助 男
北部から女性たちを位致し、昼は部隊の身の回りの世話をさせ、夜は慰安婦をさせた。拉致された女性たちのうち、チェ・ミンギルと同じ故郷の友人だった女性の場合、北派工作員管理者だった下級将校が一緒に連れて住んでいたが、停戦協定以後に除隊するなかで捨てられた
証言者:チョルシク 仁川市出身 農業 男
KLO部隊員に銃殺されにいく男の妻に「体を許したら生かしてやる」と言われ、女性は夫を生かすために体を売り、結局夫も殺されたという。KLOはその女性としばらく暮らし、そのまま捨てて陸地に発った
金貴玉氏によると、「女性の粒致は、ほとんどが性暴力と強制結婚につながり、しまいには軍慰安婦としても利用された。」とのことである
参考・出典:金貴玉氏の論文