「あえて江戸時代の日本と朝鮮半島の歴史を比較する(再利用スレ)」 | 3422|共感7
1534696| JAPANochimusha | 2007.10.28 05:09:21
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*これは以下の関連スレです
「所謂従軍慰安婦強制徴用問題の起源」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1825399
韓(
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 【原題】戦前日本が朝鮮半島の日本化に失敗した理由と結果 
*長文必死!! 概要が押さえたければまずここを!!

「日本は何故朝鮮半島の日本化に失敗したか・要約版」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1770925
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1770925
)


 2005年度版の冒頭言(レスとの関連であえて温存) 

  1. あえて断言する。慰安婦問題だけでなく、朝鮮半島に関する「全ての問題の根源は一つ」である。そして、これまでその「根源」の把握に失敗し続けて来たのは「これまでの前提自体に何処か間違いがあった」せいと考える。本来なら、まず真っ先に検討すべきは「戦前日本は、朝鮮半島を日本の様にしたかったのに何故そうならなかったか?」という設問だった。よく考えてみると、その答えは一つしか有り得ない。「日本人自身が、当時の日本がどうして出来たか完全には把握し切れてなかった」からである。
  2. それでは改めて「日韓併合期の朝鮮半島の発展史に正しく該当する日本史箇所は何処か」から再検討を始めよう。 
  3. 朝鮮半島の開発は「道路網も鉄道網も全く整備されてない場所にそれを敷設する事から始まった」。そして「各地の住民の大半は農民で、生まれた場所を一生動かないまま過ごすのが普通」だった。
  4. よく考えてみるとこれは「江戸時代最初期、参勤交代実施の為の道路整備が始まった時期」そのものではないか。何も驚くには当たらない。考えてみれば李氏朝鮮という国は、「インフラ面で見る限り秀吉の朝鮮出兵以降もずっとそのままだった」のだから。この視点から分析してみると驚くべき真相が浮かび上がって来るのである。


『耳嚢副言』(岩波文庫『耳嚢(下)』に収録)
『耳嚢』の著者である根岸肥前守鎮衛に関する評伝。

「嘉永四辛亥年八月廿八日発写」版、吉見儀助の述懐


寛政のはじめ白川候の御補佐ありし頃、「道中宿駅の食売(めしうり)女を停止(ちょうじ)せらるべきや、いかにあらん」とうちうちに評議ありしとき、翁道中の奉行たりしまま具(つぶら)に宿駅のありさま書つらね、「食売女といふもの旅人寝食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必(かならず)其主人の制しとどくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在て、定りたる家には更(さら)にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居とせる大船の船頭なるもの、湊(みなと)湊(みなと)にくぐつなる(ど)いへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」よしをことわり申され、「其中に目立たる花美(かび)を尽くし遊女屋にひとしき所業もあらんには、奉行より夫々(それぞれ)厳重の沙汰(さた)にも及び候(そうら)はん」との次第、誠意を尽くしたる趣言外にあふれたし事のよし。さらば其掟(おきて)にまかすべき事に決断有りしよし。


まず現実を直視する事から始めないといけない。

江戸末期の日本は『世界市場未曾有の売春大国』だった。
何故そうなってしまったのか? ここで語られているのはそれを理解する上での鍵である。


 1.江戸300年の意味(地域意識の成立と相補的信頼関係の構築) 

江戸時代は要約すると、単なる寒村に過ぎない江戸という街が急成長を遂げ、それまで文化の中心地だった『京坂(京都/大阪)』と互いに影響を与え合いながら独自性を確立し、そういう関係を全土に広めていった時期である。

江戸が参勤交代の起点にして終点である行政の中核都市でありながら、経済と権威の中核は別個に存在し、絶えざる交流を必要としながらそれぞれが別個の顔を持つ様になった点に特色がある。

全国各地の藩もまた江戸と自領の往復を通じて自己を客観的相対的に把握する視点を得て『馬鹿にされかねない部分は出来るだけ捨て、威張れるそうな部分は出来るだけ伸ばす』努力を続けた。

江戸時代の初期における交流の主役は武士と僧侶と神職者だったが、やがてそれに商人が加わり、引き摺られる形で農民が加わり、最後に各地の職人がその技巧を競い合う形で参加した。

最後の段階から街道網の整備と宿場街の配置というハードウェア的側面が完了していたから実現した事だが、全期間を通じてその上を走るソフトウェアのバージョンアップが続いていていた。

ここで言うソフトウェアとは個々の人間同時の関係と言い換えてもよく、政治上の必然から大名間の連絡網が京の公卿を巻き込む形で発達したのを皮切りに、経済的理由から商人と各地農民の間でネットワークが構成され、俳諧狂歌の類の連(れん)の様に階層や地域ごとにまとまりながらも相互関係を保ち続ける文化交遊の輪が誕生し、相互信頼が蓄積された結果直接会うのは初めての人々の手助けを受けながら見知らぬ土地まで安心して旅行できる体制が整う事になったのである。

日本は鎖国していた間眠っていたわけではなく三百年をきっちり使い、芋虫が蛹の状態を経て蝶になる様に全く別の生物に生まれ変わったと言ってよい。

  1. 韓国人は良く「日本は自国の軍隊の利便の為だけに朝鮮半島に道路網と鉄道網を敷いたというが、それは半分しか当たってない。
  2. 確かにその敷設が始まった1900年代には行動の利便を図られる対象が憎っき日本軍しかいなかったのは確かだが、これなしにそれ以降の経済発展が有り得なかった事は建設当時より既に織り込み墨だったのである。
  3. 日本が江戸期において既にこの方面において豊富な経験を積んでいた事は先に述べた通りである。ただ、惜しむらくはそれに続くべき内部交流網の自然形成を待つだけの時間が、当時の日本には残されていなかった。
  4. やっと朝鮮半島の振興に目鼻が付き始めたその折、日中戦争の泥沼に足を踏み込んだ日本では本格的に国内労働力の不足が深刻化し始めていた。それを補う為に恐る恐る実行されたのが「労務動員計画(1939年)」による「募集」と「国民動員計画」による「官斡旋(1942年)」だが、面白い程見事なまでに失敗した。
  5. 奴らの大半は物見遊山の気分でやってきて、自分が間違った場所に着いたと思うとすぐさま逃げ出しちまうんです。逃げなかった奴は不思議と肝を据えて頑張り抜いてくれましたがね」。当時のとある工場の現場監督の談である。住民の8割までが農民で生まれた土地を死ぬまで耕し続けるだけの生活を送っていた朝鮮半島住民にとって、貨幣経済の本格導入、品種改良米への乗り換え、現金収益を引き上げる為の副作物の模索、工業化の進行による貧農層の労働者への転換といったこれまで取られた施策だけでもう既に半万年を早回しで生きさせられた様なものだった。
  6. それにしては中々生活が改善しないので疲労感を覚え始めた人も少なくなかった事だろう。それが証拠に日本や満州といった国外への脱出者が後を絶たず、特にそれが集中した日本では定期的に密航者を狩り集めて本国に送還せざるを得ない事態となっていた。
  7. それでも日韓併合を新しい人生に乗り換えるチャンスと考える人々はいた筈である。問題はそういうタイプに限って理想と現実のギャップに我慢がならないという事で、志願制で行われた上記二つの徴募が逃走率70%以上という悲惨な結果に終わったのも致し方のない事であった。
  8. 「朝鮮半島は未だ総力戦に突入した事にさえ気付いてないのか?」。本国からそう問い質されたら黙って頷くしかない状況であった。結局日本は1944年9月以降実施した「国民徴用令」により強引に32万人の朝鮮系労働者を内地用労働力として確保する道を選ぶ。
  9. また同年8月に「女子挺身勤労令」を発行し1万人弱の未婚無職女子も動員したが、これはそれまで女子が社会に出て働く習慣自体がなかった朝鮮半島住民にとって完全に想像の域を超えた措置であり、『失踪者』の続出、早婚と就職の異常なまでの急増、「連れてかれると売春婦として働かされる」という流言飛語の流布と言ったさまざまな社会問題を引き起こした。
  10. その後終戦により両国は再び運命の袂を分かつ事になるが、何よりも悔やまれるのは内部交流の活発化により江戸時代において日本各地で芽生えた様な地域意識が形成され、、それが相補性と基本的信頼関係で有機的に結合される過程を実現できなかった事である。それ抜きでインフラの整備や技術革新の導入ばかり急いだ結果、『余所者』と相補的な信頼関係性が築けない中世的な集団意識に支配された恐ろしく偏った先進国家が生まれてしまったのではないか? そう考えるとつい空恐ろしく感じる時がある。

【200710.27】実は1970年代以降になって、この壁は少なくとも農業分野において超克された感がある。
【参考】解放後の韓国農業
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1757412
韓(
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 2.江戸と遊郭(遊廓からの文化発信による『三都相補関係』の完成) 

その江戸の街で町奉行から公式に公娼許可を得ていたのは吉原だけだった。

元和3年(1617)に江戸中に点在する娼家を1ケ所にまとめる許可が下りて以来だから、幕府登場とほぼ同時期に歴史上に出現したと言ってよい。

当時の江戸は建築ラッシュの最中で、各地より寄せ集められた威勢のいい若衆若が住人の大半を占めていたから血塗れの喧嘩や騙し討ちが絶えなかった。旗本奴対町奴といった勢力争いの図式が無数に存在し、誰もが互いを本当の意味では信頼し合っていなかった。

そんな場所に突然、唐代の長安にあった遊里を模倣した優雅な区画が現れたのだから、さぞかし誰もが驚いた事だろう。西部劇における酒場同様、そこは唯一の休戦地帯と定義された。

一説に拠れば風魔の残党が警備を担当したと言う。吉原は実は幕府より私娼窟摘発の任務を追わされており、その目的を果たす為に街中に密偵を飼っていた。それは自衛の為を兼ねていたとする説もある。遊廓の独占を快く思わない者達と恒常的な対立関係にあったのは事実で、そのせいかしばしば不審火で焼けている

【2007.10.27】 将軍吉宗の時代以降は御公儀自らが「公儀隠密」を使い始め、それに関する史料が相応に残っているが、その主な役割は「(諸藩養殖者をも含む)人事評価」「世間の実情調査」だった。前掲の「岡っ引き」は鎌倉時代の「放免(犯罪者を免罪の代償に公儀の下働きや密偵として登用する制度)」に端を発し、幕末まで「手代制度」という形で後を引く。詳しくはそのうち別スレで。

『廓内喧嘩御法度』を徹底した結果、街の有識者達が交流の場所として利用する様になり、ついには京の島原や大阪の新町に匹敵する文化発信地として全国に認識される様になった。

【2007.10.27】  実際には間に一旦衰退期が挟まり、その後新興町民階層に再びサロンとして選ばれる、といった感じの流れが存在しそうなのだが、詳しくは調査中。後述するように歌舞伎の題目を見ても絵島事件以降半世紀近くの間、「八百屋お七物」「重物」「娘道成寺」といった街娘や裕福な商家の妻女を主対象とした演目を目玉とし続けている時期である。これについてもそのうち別スレで。

その契機となったのが、吉原の廓内で生まれ、その吉原のガイドブック『吉原細見』を定期発行していた蔦谷重三郎(1750-1797)の読本分野進出である。

折りしも京坂では『雨月物語(上田秋成)』刊行を契機に「読本でも大人向けの文学が提供し得る」という認識が広がりつつあった。これに目を付けた重三郎は、吉原の常連筋を辿って江戸中の著名絵師や著名戯作者達に執筆をお願いし、この新興分野を制するに至ったのである。

実際、今日の我々の眼から見ても涎の垂れそうな執筆陣であった。読本や黄表紙といった戯作分野では山東京伝朋誠堂喜三二恋川春町らの新作が次々と投入され、当時江戸を席巻していた天明狂歌を京坂に紹介する為に四方赤良(大田南畝)らが編纂した狂詩集や絵入狂歌本が次々と発表されている。挿絵を担当したのも北尾重政喜多川歌麿らといった当代一流の絵師達ばかりであった。

これらの交流網の輪の中から江戸落語の始祖にして次代の化政文化を担う事になる歌舞伎芝居の脚本(鶴屋南北との合作もある)や大仕掛見世物の紹介文(神社への奉納品や細工見世物の分野で華麗な大作が披露される様になり、全国の職人が文化の担い手として注目される様になっていく)を手掛けた烏亭焉馬もこの交流網から出た。また後に『南総里見八犬伝』を発表する滝沢馬琴も元を正せば山東京伝の弟子だったし、無名時代の十返舎一九も末期には執筆に参加していた。

この時期になってやっと江戸は京阪と相補的に共存/競合し得る独自文化圏を形勢し得たといえる。

既に幕府開闢から200年近くの歳月が経過していた。最初は相互信頼関係どころか共有言語さえなかった寄せ集めの住人がそこまでの存在に成長するには、それだけの時間が必要だったのである。

  1. 大幅な脱線ではあるが「日本の文化は売春が起源だから下劣」「そういう国だから従軍慰安婦の強制徴用もやって当然」という論調を時々見掛けるのでついでに論駁しておく。
  2. これまで述べて来たように日本の伝統文化を『三都の補完関係の全国化』として捉えた場合についていうと、まず最も古くから存続してきた『京文化圏』については『京の朝廷を中心に据えた天皇、公卿、女房達の相互交流』を起源とするのでこれには当たらない。

    正確に言うと江戸時代に入ってから豊臣秀吉の設けた島原を囲む様にして祇園のようなよりカジュアルな遊び場が増加して西陣織等を扱う大棚の旦那集が出入りする様になったという感じ。この構造は江戸においても吉原の周囲を深川や品川や新宿といった岡場所が囲む形で再現されていく。
  3. ただし「遊廓は、そこが有識者達の集合場所に選ばれると文化の発信地となる」というのも事実で江戸はこれに当たり、それより百年程先立つ元禄時代(1688~1704)頃に文化圏化した大阪についてもそういう側面は確かにある。

    【2007.10.27】大阪商人がケチだからか島原という本物が近くにありすぎたせいかは不明だが、大阪には新町というカジュアル目の遊び場所しか生まれなかった。それも最初は年貢米を換金する武士達相手の商売として始まった為、初期は随分武骨な場所だった様である。
  4. なにしろこの時代の大阪文化は商品経済発展による豪商の後援によって成立していたので、遊廓で後援者を交えた集会を開き続けた井原西鶴の様な人物が喜ばれ、遊廓における人間模様を肌理細やかに描いた『人情物』が発表作品の主力となるのは仕方なかったのである。
  5. ただし元禄期は、それに反抗するかの様に松尾芭蕉門下を代表例とする俳諧愛好者ネットワークの構築が進み、近松門左衛門脚本作品を筆頭とする人形浄瑠璃/歌舞伎文化が大躍進を遂げた時代でもあった。
  6. その一方でこの時期江戸では荒々しい立ち回りを見せ場とする『荒事歌舞伎』が盛況を極める事によってやっと最初期における『江戸文化』の確立をみたが、京阪文化圏に『野蛮』『つまらないパクリ』と一蹴されてしまう。
  7. それ以降は『荒事/大立廻』『和事/人情物』の融和を課題と捉える様になり『助六由縁江戸桜』『色彩間苅豆(累物)』『伊達娘恋緋鹿子(八百屋お七)』、そしてさらに蔦谷重三郎登場のしばらく前には平賀源内が登場し『薬品会(第一回は宝暦7年/1757年)』開催等を通じてそれまで『俳諧』『博物学』といったジャンルごとに構成されてきた全国有識者交流網のクロスオーバーを試みている。こういう一連の動きがあってはじめて『江戸の独自文化圏化』『庶民文化の一斉開花』『明治維新とその後の躍進の達成』が有り得た事を決して忘れてはならない。

 3.幕府と江戸の遊郭の関係(贅沢と非服従の象徴である都心部のそれは否定) 

そういった「文化の中心地」となっている吉原や芝居界(こちらは深川の料亭等を主に会合場所として使っていた)を、江戸幕府は一切認めなかった。

そもそも「幕府の目の届かない所で有識者が交流ネットワークを構築する」事自体が気に入らないのである。そこでは政道批判が行われるかもしれず、その結果それが『倒幕者連絡網』と化してしまうかもしれないではないか(この予感は幕末期において的中する。特に薩摩藩藩邸に近い品川が利用された)。

まず最初に行動を起こしたのは綱吉将軍で、いきなり町名主認定を取り消し吉原を番外地扱いとした。『儒教をもって綱紀を正す』政策の一環とされているが、もし本当にそれだけの理由で江戸最大の金主を貶める道を選んだのだとしたら、儒教が政治に弊害しかもたらさない好例としか言いようがない。

また正徳4年(1714)には『助六由縁江戸桜』の成功で気炎を上げていた歌舞伎四座の一つである山村座が大奥のスキャンダルに連座させられる形で取り潰され、『享保の改革(将軍吉宗』『寛政の改革(老中松平定信』『天保の改革(老中水野忠邦』でも『倹約令』の名の下に全ての遊廓と芝居小屋に徹底的な営業規制が行われている。

老中松平定信に至ってはそれだけに飽き足らず、『政道を愚弄する』蔦谷重三郎の出版物に目を付け、多くの執筆陣を断罪した上に重三郎の個人財産まで半分召し上げた。

そもそも本来江戸市中においては吉原以外の遊廓の出店は全て違法とされていたのに、実際には深川をはじめとする多数の『岡場所』が半公認状態で公然と営業を続けていた事自体に、吉原の収益を少しでも減らそうとする意図を感じざるを得ない。

さらに吉宗将軍の命により町奉行として改革遂行中だった大岡越前は江戸近郊に存在する岡場所6ケ所深川州崎、深川八幡前、本所横堀鐘撞堂辺、護国寺音羽町、根津門前、新氷川門前)の公娼地格上げまで検討していた。

吉宗将軍は倹約令だけでは根本的解決にならない事を知っており、新田開墾を推進したり、飛鳥山や墨田川堤に桜が植樹して『花見の名所』を増やすといった経済活性化を狙ったりしていた様な人物であったから(三大改革のうち経済効果が実測出来たのは彼の行った『享保の改革』だけ。残り二つは李氏朝鮮の諸改革同様「爪痕一つ残せず」と判定されている)そういう意味で経済効果が期待出来るか吟味させていただけかもしれないが、この時点でこの裁定が下っていれば、倹約令で消耗していた吉原は確実に凋落し、蔦谷重三郎の様な巨星が台頭してくる事もなかったであろう。

結局この案は実施されずに終わったが、『地方の遊興場の振興をもって、都心の遊廓の勢力を弱める』という発想自体は、吉宗の孫に当たる松平定信が推進した『寛政の改革(1786-1793年)』においても多少形を変えつつも引き続き検討された事を示しているのが上掲の『耳嚢』中の逸話だったのである。

* 公娼追加が見送られたのは、吉原からの賄賂工作のせいとする説もある。また、その検討はむしろ逆に年々『大夫(最上級の娼妓)』の数が減っていくのを観察し『既に吉原の権威は失墜してつつあるから補強策の検討を始めないといけない』と考えたせいとする説もある。


 4.その時歴史が動いた(国際社会への対応が可能な近代的日本人の誕生) 


上掲の文章を現代語で要約してみよう。

『寛政の改革期間中、白川候(松平定信)は当時道中奉行だった根岸肥前守鎮衛に各宿場の「食売女(飯盛女)」の実情について調べさせ「必要悪で御座います」との報告を受けて倹約令の施行を見合わせた』。

この時日本は、ヨーロッパとアジアの多くの国で考えられない状態に突入しようとしていた。

全国レベルでの相互信頼保障網の完成によりどこへでも安全に旅行でき、それを娯楽とする人々が圧倒的多数派を占める世界…

生まれた土地から一歩も出ずに一生を過ごす事をむしろ『恥』と捉える感覚の普及…

これ以降幕末期に向けて治安性は悪化の一途を辿るが、庶民は互いに情報を交換し合って危険の最小限を図るだけで旅行自体を取りやめようとはしなかった。その時なはもう、過去の一箇所に縛り付けられる生活に戻る事など、誰にも思いつけなくなっていたのである。


* 文面を見る限り宿場の利用者として想定されているのは「行商人、飛脚、運輸業者」といった「プロの旅人」だけの様なので、まだ上記の様な変化は起こってない時期の裁定と考えて良いだろう。

問題は先例主義ガチガチの愚鈍な官僚達が変化後、それを感じ取ったかである。

旅行ブームの到来により街道の通行料は急増し、それに合わせて飯盛女の設置数も急増していく。当時の証言から見て少なからぬ人数が悲惨な境遇で働かされていた事は間違いない。

しかし、それにしては特別な規制や取り締まりが行われた形跡がなさ過ぎるのである。

そして当時の幕府の行政感覚から言うと、その根拠がこの時の判例であったとしても別におかしくはない。


 5.「世界史上未曾有の旅行社会=世界史上未曾有の規模の売春社会」の誕生 

 

今の感覚で言うと『コミック版旅行ガイド』とも言うべき十編捨一九『東海道中膝栗毛(1802-1809)』が出版されると、未曾有の『旅ブーム』が到来した。

当時の庶民の旅の主な名目は『神社仏閣参り』『病気療養』当たりだったが、次第に旅そのものを楽しむ風潮が広がっていく。これ以降、江戸文化の主役は完全に庶民の手に渡った

全国の旅籠に置かれる『飯盛女』が急増する一方で過当競争が生じ、『客引き』の手段もまた過激化の一途を辿っていった。

宿場に入る時、所持品を全て固く結び合わせておかないと必ず持ち去られた」「服の袖が破り取られるなど日常茶飯事だった」等、壮絶な逸話が沢山残っている。庶民はそれはそれでイベントとして楽しんでいたらしい。

* ちなみに『戦前まで人口の八割を占めていた朝鮮半島の農民層は、比較的早婚だった事もあって最近まで売春という悪習など知らずに過ごしてきた』という説がある。その代わり旅の楽しみも知らず、生まれた土地で耕作する以外の生活も全く知らなかったのであり、それこそが「前近代の状態に留まっている」という事だったのである。


 6.そして、売春婦達は旅だった(そして、「日本軍は必ず慰安婦を同行する」という伝説の誕生) 明治維新が到来し、明治5年(1872)の新橋-横浜間開通を皮切りに日本国内で未曾有の鉄道敷設ラッシュが始まる。

それは全国に満遍なく点在する無数の宿場町にとっては「駅を誘致出来なかった時点で存続が不可能になる」壮絶な間引きの試練でもあった。

この争いに敗れた旅籠主達は失業した飯盛女達を引き連れて大陸に渡り「一旗組」と呼ばれる事になる。
 「一旗組」「娘子軍」についての証言  
「<鬼子(グイツ)>たちの肖像(武田雅哉)」
『点石斎画報(中国の絵入新聞)』の記事「以身報国」より

「倭人の女は元々破廉恥であり男女の混浴も厭わず、旅館で働くものには女が多い。女中のごときは、親しくなれば一夜妻にもなる。かつてかれらが群れを成して中国にやってきて上海で東洋妓楼や茶館を開設した。あとになって日本の領事がこれを目にして恥とし、やっとの事で帰国させたのである」

*「飯盛女」の業態が恐ろしい程正確に伝わっている。本場物の「客引き」もセットだったら国際都市上海を震撼せしめたに違いない。領事が『国辱』を感じたのはそういう部分も含めてに違いない。「江戸幕府も飛んだ置き土産を残してくれた」。本気でそう思った事だろう。

* ちなみに記事自体は、そんな彼女らがせっせと国防献金をしてる様を描いている。寄る辺ない身上である彼女らは人一倍国に頼る気持が強かったのか、それとも最近のアラブ系アメリカ人の心の中に巣食っているという「機会がある都度、真っ先に愛国的行動を取り続ける事でしか迫害の対象となる事を免れない」という脅迫概念の同類だろうか?

「上海に日本妓楼が多い事が指摘されているが、これは日本側でも問題とされてきた。明治16年(1883年)1月16日の『東京日日新聞』には「近頃上海残留の日本婦人にして、ひそかに淫売をする者あるのみならず、往々公然娼妓となりて外人に淫を鬻ぐ者あり。これらは我が国の対面を瀆し、汚辱となる事少なからねば、吏人を放ちて厳密に探偵を尽くし、逮捕のうちはそれぞれ帰国せむべし旨を、このほど同港の我が領事よりその筋へ上申せられたる由に聞けり」とある。また明治18年(1885年)4月5日の『朝野(ちょうや)新聞』にも、「去年上海の売淫者7、800名の多きに至るを、安藤領事の尽力によりて退去せしめられ、今日は二百名ばかりに減ぜしという」とある。安藤領事とは、1884年から翌年にかけて領事を務めた安藤太郎の事。このような領事の措置によって日本に帰国したものもあるにはあったが、中国の別の都市やヴェトナムなどに居を移すものも多少あったらしい。中国や朝鮮では領事によって娼婦の帰国措置が取られたが、領事館のないロシアのウラジオストクにも日本人娼婦が大量にいて、取締りが十分でないとの事が、明治20年(1887年)10月29日の『東京日日新聞』に見えている」

* 「吏人を放ちて厳密に探偵を尽くし」とは具体的に何をやってのけたのか(やってる事がまさしく「岡っ引き」である)? どうすれば1年で600人も捕捉して帰国させられるのか? この記事にはまだまだ解かなければいけない謎が多い。


* 「海外まで進出した飯盛り女」がどれだけいたか、実際には不明である。最初から海外まで出掛ける事など思いもつかなかった方が多数派を占めたろうし、『世界の壁』に敗れて引き返した組もあっただろう。『転売』されて、新たに発展を始めた都市に無事落ち着けた人も案外少なくなかったのかもしれない。いずれにしろ芸妓の寿命などそんなに長いものではなく、「からゆきさん」の分野は次第に九州(特に五島)の出身者に独占されていく事になる


日清戦争中の『点石斎画報』の記事「我亀」より

「日本軍は投稿した清国兵をてなずける為、最初は紙幣を配給していた。これが全く使い物にならない事を知るや清国兵は騒ぎ出し、脱走を企てる者まで現れた。そこで『倭帥』は一石二鳥の妙案を思いついたのである。いつも連れ歩いている慰安婦達に相談し、その紙幣を『花代』として使えるようにした。そしてその結果投稿兵達は祖国を忘れ、目の前の快楽に溺れ、腑抜けになり果ててしまった」


*この時点ではまだ「従軍慰安婦」が組織されている筈もないし、状況から見て軍隊に「一旗組」が勝手についていく目撃霊があったかも不明(朝鮮半島では都市に開店したくても追い払われてしまう)。そういえば日本軍側もプロパガンダでしきりと「清国の将軍一行は女連れ」と宣伝していた様だが、こちらも別に目撃談はない。

殆ど100%の確率で100%に近い捏造記事だが、それにしても捏造してまでして伝えたかった事が何かこれでは分からない。大陸の人間はなんでみんなこんなに大雑把なのだろう?


「慰安婦と戦場の性(秦郁彦)」
「初期の中心地だったシンガポールでは、英人の妻として渡航した「お豊さん」なる女性が夫に死に別れ、天草から若い日本人女性達たちを「密輸入」して売春宿を開いたのが元祖とされている。1870年前後の事である。以後「娘子軍」と呼ばれた彼女達の進出が広まり日露戦争(1904-1905年)の頃には900人以上が居住し、国防献金をしたり、沖合いを通過するバルチック艦隊を見送った美談も伝わっている」
「山田朋子『サンダカン八番娼婦』の主人公である「おサキさん」が1910年頃300円で売られた英領北ボルネオでは、日本人の経営する女郎屋が九件、中国人の経営する女郎屋が十数件あったという」
「1895年、首都ペテルブルクの在留邦人8人に対し、ウラジオストクには220人、シベリア全体では993人の日本人女性が居た。その半ば近くまでが「からゆき」であったといわれる」
「日露戦争直前の1903年の旅順は201人の娼婦人口を抱え、攻撃の最中篭城した女もいたという」
「日露戦争後には、南満州に一旗組の売春婦がどっと流れ込み、女郎屋の店頭に日の丸の旗を掲げていたので中国人の中には日本の国旗と思わず女郎屋のサインと信じ込む者もいたという話がある」
シンガポールで開業していた一歯科医の回想録(1941年敢行)
「寒村僻地至るところに日本娘を見られぬ事がない。彼女らの勇気と征服力の偉大さは賞賛に余りある」
こうして一時期「世界の売春史上を席巻した(「からゆき」研究家倉橋正直談)」日本人売春婦だが、第一次大戦後に東南アジアやシベリアで公娼制が相次いで廃止され、日本政府による取り締まりが強化された煽りを倉って1937年頃より減少に転じる。満州と中国方面では従来通り繁栄を続けたが、ここで急速に数を伸ばし始めた朝鮮系売春婦からの急追を受ける事になる。

【参考】「朝鮮近代公娼制の起源」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1902316
韓(
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「慰安婦と戦場の性(秦郁彦)」
 純粋に『商品』として見た場合の優劣 

麻生軍医による1938年の南京慰安婦検診時の回想
「内地人の大部分は、甚だ如何わしき者のみにて年齢も殆ど二十歳を過ぎ、中には四十歳になりんとする者ありて、既往に売春家業を数年経験し者のみなりき。半島の若年齢且つ初心な者多し」

1937年に株湖に駐屯した砲兵隊の証言
「強姦を懸念して内地から慰安婦を呼んだところ、日本女性と朝鮮女性が来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次これに代える事になった」

山田忠三郎「北のからゆきさん」1931年談
「娘子軍まで日本人が敗退してゆくとは、喜ぶべき事か、悲しむべき事か」

『朝鮮史研究会論文集』1930年における日本人と朝鮮ゆっけ人娼妓の前職調査
「1.朝鮮在住の日本系娼妓の場合、6割までが前職も売春婦 2.朝鮮系娼妓の場合、5割以上が無職、農婦、女中などの非風俗分野からの参入」

「初心に見えた」のは「本当に初心者だったから」という次第である。

朝鮮半島における特記事項
「仲介業者(主に朝鮮系)が日本人接客婦が減少した分を朝鮮系女性で埋め合わせようとすると、零細企業が多数を占める朝鮮系妓楼主(正確には『貸座敷経営者』)が猛反発してと警察沙汰になる事もあった」

* ここで絶対に記憶しておくべきこと。「『置き換え』が進んだのは何よりもまず『品質競争』において日本娘子軍が朝鮮娘子軍に敗れたからである」。しかしその勝利は彼女らの若さと初々しさゆえであって、気付いたら周囲から昔の様にチヤホヤされなくなっていたという事体も十分考えられる。

*それにしても「朝鮮系娼妓を使いたくない一心で朝鮮系女衒と本気で喧嘩する朝鮮系妓楼主」という図式というのは凄すぎる。『朝鮮系娼妓徴募の実情』を知っていて黙認してきたのだとしたら、切れるタイミングが違いすぎる。


 朝鮮系娼妓増加の悲惨な内面 

金富子『(女衒を含む)仲介/斡旋業者の実態』
「(紹介業は)資金や専門知識がなくても成功の見込みがある職業の一つであり、紹介業者は農村から輩出され職を求める女達を工場や女中奉公に紹介する振りをしたり、あるいは言葉巧みに騙したりして売春業者に売り渡した。業者にとっては朝鮮半島よりも遠く中国、日本、台湾、樺太などの朝鮮外に人身売買する方がより多くの稼ぎにつながった。売値が倍以上であり、かつ法律違反のリスクが低い為である。1920年代半ばに朝鮮から外地に売られた女性総数5,000人(年間)のうち、80%は斡旋先が売春業である事を知らされず、性経験のない女性だったという」

* 良くも悪くも日本における女衒業は長い伝統がある故に素人の入り込める世界ではなかった。多分、バレた途端に確実に命はなかったと思う。記憶が正しければ大正期にボクシングの技を身に着けて果敢にチャレンジしたバンカラ学生くらい居た筈だが、あくまで少数派に留まった筈である。

* また日本人娼妓の場合身売りされた場合でも「私が売られてなければ一家全員が餓死してました」「借金を返して親の恩義に報いる為」等の証言が多く「だまされた」と言い立てる場合が少ないのが特徴である。


『朝鮮史研究会論文集』宋連玉の頁
「業者に売買された朝鮮系女性1920年代で年間3万人に及び、値段は1200円から500円までの幅があった」


* ところでここで興味深いのは「からゆきさん研究家」「商品経済がある程度以上発達した場所でないと身売りは普及しない(売った金で切実な問題が解決可能な経済段階が前提)」とした上で「朝鮮系慰安婦の本格的増加は1941年以降であった可能性がある」としている点である。

この時期の『東亜日報』『時代日報』『中外日報』の見出し
「処女を誘引し人肉商に売る」「売られてゆく12女工密航中発見」「処女13名誘拐」「金百円也で嫁売渡した舅(しゅうと)」


金一勉『天皇の軍隊と朝鮮ゆっけ人慰安婦』
「(満州国に該当統計データがなかったので実態ははっきりしないが)満州に連れ出された女性の大部分はだまされた朝鮮少女であり、残りは九州北部の日本人の商売女であった様である」

* もちろん日本の警察は事態を傍観していた訳ではない。

目に余るケースにはすかさず介入し、業者に捻じ込んで数十人単位で年季を縮めさせたり借金を棒引きにさせる様な介入も行ってたし、『人攫い団』も見つけ次第検挙してきた。

皮肉にも事態の突破口となったのは戦時下において人員不足から女性の社会進出が進み発言権が高まった事だった。日朝ともに娼妓達の処遇が契約面でも法令面でも劇的に進んだが、その一方で日本人においては廃業して自ら工場労働者に志願する様な場合が多数見られる。

但し内実は炭鉱で働く労働者向けに企業が設置した「産業慰安所」への就職だった場合もあるので注意が必要である。


ところで、中世的社会意識というのがある。

「未開人的社会意識」「タブー論理」「何か現世利益を与えてくれる絶対原理の様なものへの盲目的服従」といった定義で日本では平安時代以降(12世紀)、ヨーロッパでは十字軍以降(11世紀)以降全面的な形でしか存在しなくなっていくが、これと「人種/宗教差別」を組み合わせを視野にいれるとそう簡単に「自然消滅した」とは言い切れない様だ。

1.「客観性」「合理的判断能力」の欠如(その代わり『現世利益』で報われ続ける限り『絶対原理』に従う

2.「他者」についての非寛容と不正直(『絶対原理』に反しない限り一度恨みを抱くと絶対忘れない。『敵/獲物』には何をしても良心が痛まない

3.「同朋」に対する徹底的寛容(『絶対原理』に反しない限り、なのだが『他社との対立』が入ってくると止められない事も

西洋人が怪物の様に恐れる『無神論者』とは、ここまでの社会意識にしか到達してないのに『タブー』『絶対原理』の規制を外れた人間の事を言う。

「サイキック・タスク-俗信と社会制度-(ジェイムズ・フレイザー)」には、大航海時代の宣教師が「タブー破壊」により幾つかの部族を破滅に追い込む過程が紹介されているが、本当に恐ろしいものである(西洋においてはこれを起源に「未開人は見つけ次第全滅させてあげる方が親切」という考え方が生まれる)。

そして、この時期の「朝鮮系詐欺師」の実体を見ている限りどうしてもここでいう「無神論者」という言葉を思い浮かべざるを得ず、そういう分析は既に当時からあった。


「朝鮮ゆっけ人労働者の質的考察(鄭然圭)」:雑誌「東洋」(1932/2)


日本に流入して来る朝鮮ゆっけ人労働者の種類は、今日まで大体三期に分けて考えることが出来る。


初期は向学青年の渡来期、第二期は無頼漢の渡来期、現在は経済的原因よる農民労働者の渡来期で、
初期時代における日本内朝鮮ゆっけ人労働者の多くは、勉学の目的に渡来したものが労役に従事するようになったもので、この時期における朝鮮民族の道徳性は、基督教々会を中心に漸く新刺激を受けはじめた時で、まだ完全に孝本思想及道徳が厳存していたのである。であったから日本に来ている向学青年労働者たちの素質も善良で、徳性を以て身を高く持していたのであって、日本の労働者より遥かに高徳であったのである。殊に彼等は相当の智力と漢学の素養を有していたのである。

第二期の無頼漢の渡来期は、可なり長く最近まで続いたもので、極端な射幸心と放浪性による者の渡来期であった。この期の前半は主に儒生のなり損いものと、何等かの事情で郷党と相入れられないものの入来期で、博徒の最も多かったのもこの期である。入来無頼漢の種類が高等無頼漢から下等無頼漢に変るに従って、道徳性は低下し、労働力は漸高したのであるが、この頃における朝鮮は、新文明と総督府の同化政策とキリスト教諸教化事業によって、朝鮮民族の道徳観は混乱期に遭遇していたのであった。ために無頼漢の増加を来したのであった。


第三期即ち現在の経済的原因による渡来労働者は、多く小作民及び以前の中産階級以下のもので、生活上の困窮の結果労銀を得るために流入するもの等で、労働婦人の入国もこの期に著しく増加して来ている。この第三期入国労働者の特徴は、彼等は経済的に日本の資本家によって敗惨されているばかりでなく、同化政策によって、その民族性が破壊されて、性格の破綻を来していることである。朝鮮民族の徳性の根底であるところの孝本思想及道徳が破壊された結果、ここに良心性の中心を失い、この民族の最もの痼疾であるところの他害心と利己心と好争性のみが、極端に発揮されるに至ったのである。であるから現在の朝鮮ゆっけ人にとっては、生活の困窮が問題の全体であって、道徳や徳性は顧みるの余暇もなければ、又反省力を持たぬほどに人為的にその性格は破壊されているのである。
 
 両班(最上階級)中人(第二階級)常民(町民階級)賎民(婢僕階級)の朝鮮の四大階級より見る時には、第一期入国労働者の多くは両班及中人階級に属し、第二期は中人及常民階級、第三期は全階級渡っているが、良家のものは少ないのである。
 朝鮮ではその属する階級によって、その良心性や徳性に非常に相違のあるもので、従来朝鮮は支配階級であるところの両班階級のものばかりが学問することを許されていて、学問は儒学で、修身斉家の道をならい徳性を養ったのであるが、中人以下階級のものは常に上級階級者により圧虐され酷使されることばかりに追われて、その良心的素質は反抗的に、或は屈従的に悪化して来たのである。だから或一人の朝鮮ゆっけ人が如何なる階級に属するものであるかによって、又同じ両班階級者にしても、その門閥と血統によって、その善良性を異にするものである。
 も一つ朝鮮ゆっけ人の素質を知るに重要なことは、その生まれた道(県)である。(中略)日本に来る労働者の多くは、地理的関係から慶尚南北道のもので、次は全羅南北道、忠清南北道のものであるが、慶尚道の人間は根気は強いが愚鈍で粗暴であり、婦人はその性粗悪である。全羅道人は昔から敏捷で、奸智に丈けていることで知られている。忠清道人は京畿道人と同じく、温しく小智に富んでいる。しかして同じ道の人間であるにしても、農村に居住していたものと、商業町又は海岸や山奥に居住していたものとの間には、その善良性において非常な相違があって、農村生活者は道義的であり真味に富んでいるが、町や海岸地方のものは利に明るく利己的であり、射幸心に強く好争性に富んでいる。又山奥のものは山男的で蒙昧である。ところが日本に流入する労働者は、第三期初め頃までは殆んど商業町や海岸地方のもので、最近に至って純農民が移入するように至ったのである。
 
 斯く観じて来れば、日本流入朝鮮労働者はその善良性において、朝鮮において既に一般朝鮮ゆっけ人より劣っている者等で、且つ真面目に働くものは殊更に日本にまで渡来する理由を見出し得ないのである。そうした彼等は一度日本の土を踏むや、幾許もなくその性格に激変を来し、素質の悪化を来すのである。この彼等の素質の悪化は、彼等の人為的に破壊された民族性(これを個的にいえば、破綻を来している各人の性格)が、環境の変化に依る外部的変動によっておこなわれているのである。
 即ち現代の朝鮮ゆっけ人は、自己を抑制すべき自制心も反省力も有しなく、極端な感情と衝動によってのみ行動の全てが支配されているのであって、彼等の良心性は外部の社会上の掣肘によってのみ保たれているのである。しかして経済的困窮は益々彼等をして非徳性的たらしめている。然るに朝鮮の社会と違って、日本の社会は彼等をして係縁の拘束力からも、因襲的道徳の制御からも放たしめるがために、・・・つまり彼等は親戚知友に対する気兼ねもなければ、又朝鮮の道徳によって律せられなく、日本の道徳によっても律せられない状態に置かれているが故に、良心の外制力を失い、しかして異郷心理と経済的脅威とは、益々彼等をして本能的衝動にのみ動くに至らしめているのである。

* 当時の朝鮮系知識人の文章は自民属について語る時相当「」が入り、「脱出組」を歯に衣着せずに非難するのでそこは割り引いて考えよう。

とはいえ「当時の半島脱出者の少なくとも一部にこういう傾向が見られた」という認識が当時存在したのもまた事実である。先の分析で浮かび上がってきた「理想と現実のギャップがいつかどこかで埋まると信じて逃げ回る自由労働者層」にもこの考え方は適用可能かもしれない。

* これまでの資料を併せ読むと1920年代の人攫いの容疑者層として「総督府の同化政策とキリスト教諸教化事業」に追い詰められた「極端な射幸心と放浪性を有する」「儒生のなり損い」「何等かの事情で郷党と相入れられなくなったもの」「博徒」「無頼漢」という推論が成立する。「朝鮮総領府の犯罪者狩りが厳しくなって都心部にいられなくなった悪党達は、田舎に逃げ込んだ。窮地に追い詰められたと思いきや、そこで純真な少女を騙して売り飛ばすと案外金になる事に気づいて『人攫い』に転身した」といったストーリーが浮かぶ。

*ちなみにかつて台湾や中国でマフィア討伐が行われた際に、この通りのプロセスが本当に起こっている。こういう事はきっと「騙されやすい田舎の純真な少女」を地上から撲滅しない限り決してなくならないのである。

【2007.10.27】 とはいえ、後に確かめられた朝鮮農村崩壊速度から見てその人数が急激に増えていったという事も特にはなさそうである


朝鮮系斡旋業者と軍隊慰安婦募集との関係について


『共同研究 日本軍慰安婦の研究』尹明淑の頁
「この様な周旋業者や女衒の役割は軍隊慰安婦募集の場合においても同様であった」


川田文子『戦場の性』
「近世以来の”女衒の存在”の層の厚さが(従軍慰安婦募集の場合も)有効に機能した」

* これは既に日韓共に否定出来ない事実として認められつつある。


あくまで断っておくが、残された少なからぬ量の史料全てが「慰安所については慰安婦の募集、監理、設備運営の全てが民間の業者にまかされていた(実は直営も試みた事があるが「とでもデキる雰囲気ではない空間」とのモニター結果が続出し早々に撤収した)」事を示している。「では、その民間業者が行った不正に何の責任もないか」はまた別の次元の話だが、それを論ずる前に「当時横行していた詐欺の一つではないか?」「勝手に従軍して『私設慰安所』を自称していた者達の犯行ではないか?」の二点に関する精査を経る必要がある。何度も表明しているが、これが私の考え方である。


 慰安婦の実像  *「典型例」を三つ程挙げてみる。


「1発1円」
別冊一億人の昭和史 日本陸軍史(毎日新聞社)
三木外師盛(高知市・教員・60歳)


「北満ハイラルの町は前世紀の眠りから覚めずまだ眠っている。文化施設として完備されているものもないではないが、それも十指にはみたない。文化施設に取り残されたハイラル市は、同時にまだ日本の経営者に委ねられてないことを証明している。こうした町の中で兵隊と一番関係が深いものとして慰安所がある。看板は○○料理店として出されているけれど、兵隊はこれをピー屋と呼んでいる。ピー屋は文化に立ち遅れているハイラルに非文化的なものの代表みたいに沢山ある。きたない路地の奥まった所や、横道にそれた所などに幅一尺、長さ二尺ぐらいの赤いペンキで塗られた板に、黄色の文字で、二等、三等、四等と等級を書き表した看板が吊るされている。」
「二重装備の扉を押して入ると、特有のにおいがプンと鼻をつく。割合に日本的な雰囲気をただよわしてくれてはいるけど、どうもニンニクの匂いには閉口する。畳三畳くらいのせまい室に、床から三尺ほどの高さに板の間があり、汚れた赤い布が敷いてある。それぞれの室には番号札と女性の名前が記入されている。赤い毛布は入口にも吊るされている。この毛布の外側に扉があって、この二重装置の扉を押して入っていくと、そこに居合わせた女たちが
 「一発(イッパツ)一円」
 「兵隊さん、一発」
といいながら、入ってきた兵隊達によりそってくる。なかには、相当年季の入った女もいて
 「当番、お茶もってこい」
 「お前、ボサーッとしてるぞ」
 と、兵隊の使う言葉を使って、若い兵隊を面食らわせる者もいる。兵隊はことさら進んでこうした場所に足を踏み入れるものではない。彼らの中には、冷やかしの為に入っていく者や、特異な存在に対する青年の好奇心から入っていく者も多分にいると思われる。
 兵隊にとって大切なものとして存在している料理店という名の慰安所は、ハイラル市内に軍関係のものを含めると三十件以上はありそうだ、最近軍側で新しく八ケ所を増設している。これは開特演で増強された兵隊の需要に対するものとしてだろう。ただしここへ行くことを推奨する意味で作ったものではないという設立趣旨書が、部隊会報として私達には伝達されている。
 増設されたとはいっても八ケ所に散在しているわけだけど、外出した兵隊たちはその全部を確認している者が多いのに驚いた。第一慰安所が大きいぞ、いや第二の方に女が多くいるとか、勝手な話をしている。
 軍専用の所は民間人の入ることは許されない。開設当時には他部隊とけんかしてはいけないとの理由で、単独で入らずに、五、六人の少人数で行くように、という休日の週番士官の注意が出されていたものである。こうした料理店にも「性病を防ぎましょう」のポスターが貼られている」


* もしかしたらこの時期のハイラル、慰安施設以外に何もなかったからそれを冷やかす以外に自由時間の使い道がなかったんじゃ? そういう状況で血気盛んな若者を放置しておいて「軍として利用を推奨するものではない」はないと思う。間違いなく女の子達は兵士の顔を覚え「兵隊さん、今日こそ一発」とか「兵隊さん、今日も一発」と言い出した事だろう。これで名前までバレてしまったら目も当てられない。


* で、こういう駐屯地においてコッソリ近づいてきて「兵隊さん、イッパツ、75銭」とか耳元で囁いて来るのが「ただの」慰安婦/客引きという訳である(記事を信じるなら「従軍慰安施設」に「客引き」はいなかった様だ)。 そんな偽物もさすがにこんな田舎町までは出現しない。いくら何でも割が合わな過ぎるのだろう。


1933年6月熱河省を視察した中山忠直談(『東洋』1933年11月号)


「日本軍が支那婦人を冒さぬのは、娘子軍あればこそで、彼らは決して(私利私欲の為に働く)淫売ではない。砲弾の雨をくぐって兵糧を運んだり、負傷兵を看護したりもしている」

* それって「契約違反」じゃなかろうか? やってる事が李氏朝鮮の両班並に酷い様に思えるのは気のせいか? それともここは「雇用主がこういう意識の持ち主だから合わせるしかない」という部分を含めて『軍属』と割り切って考えるべきなのだろうか?


曽根一夫『元下級兵士が体験見聞きした従軍慰安婦』
上海-南京戦の一場面


「千人の兵の前にトラックが横付けとなり、内鮮混合の慰安婦6名が降り立った。寺を接収し、坊さんを追い出し、仏像を放り出して大工経験者が嬉々として本堂に畳を敷く。アンペラで個室を仕切り、民家から調達した寝台を据える工事を黙々と進めていく。兵士たちは、週番下士官から買った一枚一円五十銭の桜券(日本女性)と一円の桃券(朝鮮女性)を握り締め、上官から「大元帥閣下におかせられましては、戦地にある将兵を御労りくだされて、慰安するための女性をつかわし下され…」と訓示を受けた。それから二月の寒空の下、足踏みで体を温めながら順番を待った。私の場合三時間待って行為は三、四分。言葉を交わす暇など当然ある筈もない」

* 「強姦の懸念が急増した戦域への緊急措置」だそうである。どうしても『個室が出来上がっていく光景』が慰安婦達の目に『楽しげな食人族の食事の準備:具は自分達』と映っていたとしか思えない。一応、従軍慰安婦には「気に入らない相手を振る」権利が契約上保障されていたが、こういう殺気立った雰囲気の中での行使は見合わせるを得なかった事だろう。相手が朝鮮系慰安婦だという事で乱暴に振舞う日本兵もないではなかったが、「天皇陛下同じよ」と叫ぶと大抵は謝罪して行いを改めてくれたという逸話がある。ここにもある通り『従軍慰安婦』とは生身の人間でなく『軍からの下賜品』と捉えられる事もある存在だったのである。


さて、阿部首相が『河野談話』を継承したという事は「これを裁く」という事になる訳だが、ここまで書き綴ってきた私にも、どこからどこまでをどうすべきなのか未だにさっぱり分からない。当然(それが日本の失政によって生まれてしまった存在だったにしろ『人攫い』『慰安婦の取り分をピン撥ねした吸血鬼』は罰せられるべきだろう。そして最優先課題は現在なお稼動し続けている『慰安婦徴募システム』を一刻も早く停止させる事だと思うが、果たしてそれは日本人の血税をどれだけ投入して遂行すべきミッションなのか? 韓国政府側の公式見解も是非聞きたい。


追伸:本稿をまとめてるうちに、やっと「韓国」「北朝鮮」の事が理解できた様な気がしてきた。「他者との関係が日本の江戸時代レベルで止まっている」と仮定するなら結構色々な事が腑に落ちる。北ゆっけ朝鮮の核実験でさえ・・・その先の事はあまり考えたくはないが。


関連スレッド

【資料】朝鮮半島における『勤労女子』徴用の真相
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1765081
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1765081)
【資料】「元憲兵が語る『軍政の反省点』」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1846813
韓(
http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1846813
)
IP xxx.175.xxx.199
falstaff|10-10 15:44
三行要約しる!
 → ochimusha|10-10 15:50
最短の要約「韓国人と北朝鮮人の物の考え方は、江戸時代で言うと元禄時代までも到達してないかもしれない。これからはそういう前提で見守っていこう」です。
serra30|10-10 15:51
やっと読みました.Orz.
 → ochimusha|10-10 15:52
上の要約、ちゃんと翻訳されてますか?
 → serra30|10-10 15:54
ギョウギョウ読みました. 翻訳はよくできています.しかし思わなければならない点が非常に多く生じて, 難しいですね.
 → ochimusha|10-10 16:03
ここで書かれている内容を事実として受け止めるのは、日本人でも大変なのです。
serra30|10-10 15:53
枚-ツンと戦争間の連関性はよく分からないが; 日本が自国内戦争時にも, 慰安婦があったし, スペインも中南米戦争時には慰安婦がありました.最近慰安婦募集広告に対する意見も, そんな基準が日本にあったから可能だと言う人もいます..いつから, 慰安婦が非公式的だったのか, 他国の芸道もうちょっと分かれば, 比べることができるはずだが, 惜しいですね.
 → ochimusha|10-10 16:01
関連部分だけ要約してみます。「江戸時代後期、日本人は庶民の多くが国内旅行を楽しむ国になっていた」「それを接待する為、宿場ごとに大量の慰安婦がいた。」「明治維新が来ると彼女らは海外に進出した」「最終的に朝鮮系慰安婦は日本系慰安婦の市場を奪取しかけていた」。読めましたか?
 → serra30|10-10 16:01
はい..そうです.
 → ochimusha|10-10 16:08
過去は過去として単独で存在しているだけではありません。現在は現在として独立して存在している訳ではありません。時間の流れとは世界で一つしかないのです。
serra30|10-10 16:00
強制性可否をまず論外にして,; 慰安婦というのも一種の文化衝突ではないか? 思います. シンガポールみたいな場合, この前にドキュメンタリーを見たが, 元々の日本人留宿がいる前にも, 中国人留宿がいたし, 朝鮮の場合請いに行って来た女性さえ卑下じて, 人取り扱いしないほどの厳格な基準が施行されていた国家だから, 価値期与えた , しも大韓開放性差がひどすぎる.例えば平壌芸者学校も 1905年やっと門を開きます. 大韓帝国時までも公娼制がなくて,..西欧で宿泊業と言うのは当然枚-ツンスックの役目をしかし, 朝鮮時代に対しては具体的な言及になっていないです. 万が一に, 業者たちが指針書を受けて, 読んでも, まさか, それが枚.春日のだ? と思うほどにならなかったのか...グランセングガックが入る時もあります.
 → ochimusha|10-10 16:06
ただでさえ長いので今回は削除しましたが、実は世界大戦は全世界で女性の地位を向上させたのです。韓国でだけそれが起こりませんでした。その鍵を握るのが「勤労女子徴用問題」なのです。
 → serra30|10-10 16:07
本文削除よりは置いて読む人々がいるはずだから差し置けば良いと思います.勤労女徴用も, 初めの手始めは地位向上意図ではない労動力欠乏を補う手段だったが, 以後結果的には地位向上が当たります.
 → serra30|10-10 16:10
遊興業の場合も, 産業資本注意がもう初期や中期段階に入った国家で, 普通は公開的に栄えることも事実で, その前段階の国家では鼻孔改籍だろう.
ochimusha|10-10 16:11
.勤労女徴用も, 初めの手始めは地位向上意図ではない労動力欠乏を補う手段だったが, 以後結果的には地位向上が当たります>問題は、その時までの韓国人女性は大半が一生家から一歩も出ない人達だった事です。彼女達をいきなり工場で働かせる事自体が当時の韓国では驚くべき事で、みんな避けようとしたのです。
 → serra30|10-10 16:12
そんな粘度ありますね.しかし, 例えば新女性教育受けた女性を憧れる風潮が強かったので, 小基本教育でも, 貧しい家庭ではむしろ工場に行って教育受けたいという欲求が川したかもモルルイルです.
 → ochimusha|10-10 16:16
そうですね。でも、そういう人が悪い同国人に沢山騙されて海外に売り飛ばされてしまったのです。
 → ochimusha|10-10 16:30
本文中でも書きましたが「騙されて売られていく少女」を無くすには「騙されやすい世間知らずの少女」を国内からなくすしかないのです。
serra30|10-10 16:11
しばらくナがブァはしかし, このスレをまた確認します. レスが知りたいので..^^
ochimusha|10-10 16:14
この原稿では、日本の文化が複数の都市の相互影響で出来上がった事についても触れています。これはアメリカやヨーロッパでも同じですが、韓国にはソウルしかありません。これについてどう思いますか?
ochimusha|10-10 16:22
この原稿はこうも要約出来ます「日本は自国の300年分の歴史を朝鮮半島で再現しようとしたが、急ぎすぎて沢山の失敗をした。しかも実際に掛けられた時間はわずか30余年だったから、益々中途半端になってしまった。何がどうそうなのか理解出来たら、今の韓国がこれからどうすべきか、これから北朝鮮にどう対処していくべきかの目安になるかもしれない」。
 → ochimusha|10-10 16:37
北朝鮮人の考え方が江戸時代で止まってるとしたら、こういう推論が出来ます。「1.戦争が始まったら、何の躊躇もなく死ぬまで徹底抗戦を続ける可能性があります」「2.どうやって金正日を別の何かにすりかえるかが鍵です(間違えてもそれまで殺してはいけません。恐らくアフガニスタンの様になってしまいます)。誰にすりかえるべきかまでは分かりません」
siamhan|10-10 21:41
そこいらの学者の著作より、ずーっと読みごたえあった。 記念かきこ。
pakurinara|10-14 11:24
「朝鮮ちんぽ人は中世的社会意識のまま進歩していない」ということがわかりました。
kimuranobuo0001|10-31 23:28
( *H*)y-~~致命的な間違いを指摘:×「他者との関係が日本の江戸時代レベルで止まっている」
kimuranobuo0001|10-31 23:29
( *H*)y-~~○「他者との関係が日本の平安時代レベルで止まっている」
ochimusha|10-29 00:54
ちょっと補整。「農村は朴正煕時代に江戸時代レベルまで高められた可能性が有る。しかしその時点で既に韓国は都市中心の国家となっており、その成果が対極に影響を与える事はなかった…」
rock555|10-29 17:02
最高に面白かった。噂には聞いていた、伝統版ですが、これからも読みに入ろうと思います。推薦!
店|・ω・) <全日本ストレス解消友の会 [6]
- 「あえて江戸時代の日本と朝鮮半島の歴史を比較する(再利用スレ)」 [28]
(= ̄ω ̄)y-~~ 貴方の族譜は幾らでしたか? [10]