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1900年代
▲ 1907年 電車線路補修工事
▲ 日帝時代
このように時代順に並べてみると,1880年から1910年頃の間に
景観に大きな変化が2回見られます。仮にEvent 1,Event 2としましょう。
Event 1では門前の藁屋根の仮家(カガ)が一掃されています。
Event 2では門の両翼の城壁が撤去され,ロータリーが形成されました。
Event 2に関しては,道路の開通,市街地整備のために
日帝(統監府)が改造を行ったようですね。
すえた悪臭も一掃され,さわやかになりました!
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=025&article_id=0000631779
で,Event 1。
この背景にはどのような事情があったのでしょうか。
甲午改革以後の 1896年 9月,
政府は「漢城内道路の幅を規定する件」という道路整備法を公布し,
道路の規定幅を55尺とし,これ侵犯するのない限界内で
計画的に仮家を排除しながら道路を整備しました。
イギリス人女性,イザベラ・バード(Isabella B. Bishop)が
1894年から1896年まで韓国を訪問したときの見聞記『Korea and her neighbors』によれば,
「古都の趣をだいなしにしていた,路地には悪臭が漂い,冬にはあらゆる汚物が堆積し,くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きわまりない旧いソウルは,みるみる地表から姿を消そうとしている。」 |
という具合に,最後に訪問した1897年2月のソウルの道路改修事業を褒めています。
これらのゴミ掃除は,鍾路,西大門周辺でも顕著に行われたようです。
すばらしいですね。日帝以前にも町の改造が行われたんですね!
でも,甲午改革というのが気になります・・・w
林鐘国,朴海錫,姜徳相『ソウル城下に漢江は流れる 朝鮮風俗史夜話』(1987年),66pより
(それに対する解説)日本人たちが多く居住するようになるとかれらは泥峴から南大門に通ずる道を改修し,溝渠を掘って,共同便所,街路などを儲けることを計画した。 1895年,この計画と前後して旧韓国政府も道路行政に関心を示すようになった。 <中略>この法令によって,日本人が前述のように南大門の道を改修するとき,容易に仮家(道路にでっぱっている小汚い小屋)を撤去することが出来た。 |