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大特集

運慶
リアルを超えた天才仏師


【解説】山本勉[やまもと・つとむ 清泉女子大学教授]

古代から中世まで仏像の名品は数あれど、運慶ほど人々の心を騒がせる仏師はいません。
運慶が生きたのは、12世紀半ばから13世紀の初頭にかけて。王朝が没落し、武者の世が幕をあける文字通りの歴史の曲がり角でした。
運慶という人間についてわかっていることはじつはきわめて少ない。正確な生まれ年さえ不明で、人柄を彷彿させるエピソードひとつ残っていません。彼について教えてくれるのは、ほんのわずかな文献のほかは、800年の歳月を超えて今に伝わった、およそ30体の仏像だけです。
気流のように渦巻く衣を纏う堂々たる如来像、うつつの少年に向き合う思いに誘われる可憐な童子像、男性的なエレガンスが匂いたつ天部像、仮借ないリアリズムで偉大な行動者の気魂を捉えた高僧像……。
神わざのノミさばきが生み出したもの言わぬ彫像たちの、しかしなんという雄弁さでしょうか。ひとつの境地にとどまることを知らず、生涯、変わりつづけた天才仏師・運慶。新時代の美をもたらした軌跡をたどります。


平成15年、本特集の解説者・山本勉氏の前に忽然と現われた大日如来。謎の来歴とニューヨークのオークションにおける高額の落札で注目を浴びた。豊かな奥行き、むにゅっと弾力性を帯びた体躯、ぐっと胸を張り出した姿勢は、像のサイズをはるかに超えた堂々としたスケール感を感じさせる。
《大日如来坐像》 建久4年(1193)頃
木造、漆箔・玉眼 像高61.6cm 真如苑蔵
撮影=広瀬達郎[本誌]


山本 平成20年(2008)の春、運慶の《大日如来坐像》が、NYクリスティーズのオークションで、総額約14億4000万円で落札されたことは大きな話題を呼びました。この像はそもそも平成15年の夏に、当時の所有者だった個人の方から私が調査を依頼されたもので、調査・考証の結果は翌年、東京国立博物館の研究誌『MUSEUM』(第589号)に発表しました。
 この論文では、栃木県足利市の光得寺(こうとくじ)が所蔵する《大日如来坐像》や神奈川県横須賀市の浄楽寺(じょうらくじ)の《阿弥陀如来および両脇侍像》など、関東地方にある他の運慶仏との様式の比較と文献の研究をおこない、鎌倉幕府の有力御家人である足利義兼(よしかね)(?~1199)の依頼で運慶が建久(けんきゅう)4年(1193)に制作した像である可能性がきわめて高いと結論づけています。また、平成19年は、史料の研究によって興福寺が所蔵する鎌倉時代の《仏頭》が運慶の作であることが確定し、神奈川県横浜市の称名寺光明院(しょうみょうじこうみょういん)が所蔵する《大威徳明王像(だいいとくみょうおうぞう)》の像内納入品からこの像が運慶の作であることを示す記述が見出だされるなど、「運慶のあたり年」と言われています。
Q 興福寺はともかく、すぐれた仏像のほとんどが近畿地方に集中する中、関東地方で何体もの運慶仏が見つかること自体おどろきなのですが。
山本 運慶は、奈良仏師と呼ばれる奈良在住の仏師集団に属する康慶(こうけい)の息子です。にもかかわらず、運慶について考える際、東国というファクターは外せません。康慶・運慶の一門は新時代の権力の中枢である鎌倉幕府と強固な関係を結び、社会的地位を飛躍的に上昇させました。さらに東国での活動によって、運慶の名声が中近世を超えて近現代になっても衰えることなく伝わり、仏師として随一の知名度を誇ることにもなったのです。

(続きは本誌でお楽しみください)


大日如来坐像 東京・真如苑
結跏趺坐(けっかふざ)した脚部の見込み。ふくよかに丸みを帯びた腿やふくらはぎは、指で押したらへこみそうだ。衣の襞のやわらかな曲線の反復が、気持ちいい。撮影=広瀬達郎[本誌]


梵天立像 愛知・滝山寺   帝釈天立像 愛知・滝山寺

運慶は生涯に多くの多面多臂(ためんたひ)の像を手がけたはずだが、良好な状態で現存するのは本作のみ。横からのぞいたお顔が妖しい。   滝山寺の梵天・帝釈天もまた東寺講堂の像に学んでいるらしい。あちらは動物の上に乗り、こちらは立像という違いはあるが、手で結んだ印や服装の形式が同じなのだ。




◆運慶流
2008年11月11日→12月21日(終了) 山口県立美術館
2009年1月1日→2月15日 佐賀県立美術館
◆国宝 阿修羅展
2009年3月31日→6月7日 東京国立博物館 平成館