背後からハミング このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-01-20 研修という聖域 あるいはモラトリアムの憂鬱 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

悪いのは誰? - ある無人島漂流の物語 - タケルンバ卿日記を起点に、企業研修におけるセクハラ行為に関する議論を拝見していました。

本論に入る前に私のスタンスを表明しておきますと、元エントリーの議論がセクハラに当たるか否かの議論は、不快感を抱いた方のお心次第だと思いますが、それにしてもid:takerunbaさんは少し叩かれすぎだと思います。

 

■「性行為に対する個人の思想信条を衆目の場で吐露せざるをえない研修内容について、研修が参加者に対して強制性を伴っている以上はセクハラに該当する」というご意見は一般的に見ても当然かと思います。

対して、「参加者には正解を求めていないのであるから、性行為に対する個人の思想信条を隠して仮面の人格で議論することも、また沈黙することも個人的判断で可能である以上は、研修の必然的な*1内容として許容範囲である」とするid:takerunbaさんのご意見*2ももっともかと思います。

以前記事にしましたが、前者は個人的なレイヤー(当事者視点)で、後者は組織的なレイヤー(観察者視点)による言い分です。したがってレイヤーが違う双方の論理に正邪はつけようがありません。

あえて言うなら、組織的レイヤー(観察者視点)で語るべき話であるなら、最初からその前提を提示すべきだったかもしれません。「これは純粋に研修についてのテクニカルな話題なので、当事者として読むと問題の多い記述が含まれます」とか、「参加者の不快感に対しては誠意ある対応を取るように準備した上での研修であったはずです」とか、そういった企業研修で当然プロの研修講師さんがなされているような配慮をエクスキューズしておくのがよかったのかもしれません。

 

■くわえて、この問題には「企業研修は日常業務なのか?」という問いかけも潜んでいます。

つまり、研修が企業の業務上の倫理感とは違った環境で進められるようなことがよく起きるのです。

「研修内容で、男女ペアで背中合わせになりどちらかが凭れて支える内容があったが、あれは肉体の接触を伴うセクハラではないか」

「研修内容で、未婚の女性に母親役をやらせて子供役の男性社員を抱くロールプレイをしていたが、あれはセクハラではないか」

「宿泊研修で、10時を過ぎて誰かの部屋で居残りのグループディスカッションをしようとグループ内で多数決したが、それに反対した私まで同室を強いられるのはおかしい」

「研修内容で、罰ゲームと称して『見て肛門』という下卑たパフォーマンスをやるように講師に言われたが、いくら私が男でもあれはセクハラではないか」

「宿泊研修で、18時を過ぎてもカリキュラムが組まれているが、あれは残業ではないのか」 

「研修内容で、他己紹介のときにグループ内の同僚から容姿についてひどい中傷を受けたが、あれはいじめではないか」

などなど、私がおぼえているだけでも相談は結構な数があったと記憶しています。

 

これらは、企業の日常業務では到底ありえないような行為が、教育・研修という大義名分で行われてはいないか?という疑問の一例です。

ここのところは、労働組合も、企業労務も本来充分注意を払う必要がある部分です。

ともすれば、外注研修講師さんに丸投げし信用してしまうことが多いので、その研修の中で行われている理不尽に光が当たらないことがままあるからです。

ところが、上記のような疑問があったときに返してしまいがちな言葉があります。

「お客さんはもっと厳しいからねえ」

「それを乗り越えるから研修でしょう。いやなことをやらない研修なら、やる価値はないんだよ」

「しょうがないじゃない、研修なんだもん。仕事は個人でやるんじゃなくてチームでやるんだから、甘えを捨ててもらわなくちゃ」

「研修だって仕事だよ。先生があえてやるには研修としての意味があるんだから、どんなことでも真面目にやって」

「研修はあなたを一人前にするためのものに会社がお金を出してやってるんだよ。残業とか言うなら、自分一人で一人前になってみなさい」

「研修のことでの話を会社に持ち込みなさんなよ。研修の場で解決してきてよ。研修でチームワーク壊しちゃって、お前らなにしに行ったの」

研修は一銭も生みださない。研修は個人の能力を上げるためのもの。研修は本来個人がやっておくべきことを企業がやっていること。

だから、研修は仕事じゃない。仕事じゃないから、そこで起こった問題は個人で解決すべきこと。

それがいやなら研修行かなくていいよ。でも、それで使えない人材になるなら、自己責任だからね。自分で金払ってセミナー行っといで。

 

はい、絵に描いたようなパワハラいっちょ上がりです。

ここで研修の内容に一部セクハラに受け取られる接触があったことを労組が企業に言っても、「あんまり今から甘やかさないでね」と言われるのが関の山です。それ以前に、相談された人が「いやあ研修だからねえ。僕らも同じように鍛われたよ」などとかたづけちゃうこともあるでしょう。

そうです。実は、研修という時空間は会社組織への通過儀礼という性格を持って、極めて独立性の高い治外法権を現実的に有している場合があるのです。*3

 

 

■特に新人研修に顕著ですが、「モラトリアムを捨てるために、今までの自分を客観視しよう」という手法があります。*4

自己分析などと呼ばれていますが、これは通常の精神状態でやると綺麗ごとが並ぶだけです。

かといって、他人に聞いても同じです。遠慮していいことを書いたり、そもそもよく話したこともないので上っ面しかわかりません。

そこで、昔ながらの研修手法の中には、一旦参加者の価値観を混乱に陥れ、全員を赤裸々モードに以降させようとするものが多くあります。

わざと荒れる話題しかも結論がないようなテーマを振って論争を誘発し、お互いの人格に対しての遠慮をなくしてしまうのです。

しかも、ディベートの技術を持たない人がいると場が感情的になりますから、その噴き出した感情に対しての配慮も透けてきます。

 

私は今回の難破船の話は聞いたことがないですが、たとえば、次のようなものは研修で受けたことがあります。

 

核シェルターの最後の5席。銃を持った警察官・女優・妊婦・年寄り・科学者・政治家、さて誰を残すか話し合いなさい」

「難破船の木切れにあなたとあなたが好いている女性とあなたを好いている女性とライフジャケットを持った船員と、あわせて4人。でも木切れは3人捕まると沈む。ライフジャケットは一人しか浮かべない。さて、あなたならどうするか話し合いなさい」

「吹雪の山小屋にあなたとあなたの妻とあなたの母親とあなたの子供と友人の子供が閉じ込められる。乾いている寝袋はふたつ。雪山を単独踏破できるのはあなたひとり。しかし誰も一夜を寝袋なしでは過ごせない。寝袋を誰に渡すか話し合いなさい」

「破産した友人の連帯保証人ヤクザから借金を負った男がいる。妻は子供をつれて離婚し男に慰謝料を請求している。友人は他の女の部屋に転がり込んでいるらしい。男は友人の妻から友人を殺して生命保険を分けようと持ちかけられる。男に金はあるが、慰謝料と借金を返すには足りない。男は殺人を実行する決意を固める。さて、一番悪いのは誰?」

 

これら自分の伴侶や両親、友人に聞いたら「はあ?お前アホか」と言われるような問いかけをグループディスカッションのテーマとして取り上げるのは、1.答えが出ない 2.それぞれの思想信条によって必ず討論となる 3.各人の答えに妥協の余地が少ない からです。

要はなんでもいい、ただできるだけ答えが出ず紛糾し時間がかかる議題を与えて、お互いの価値観を指弾し非難されつつ半日程度を無駄に論争させる。さらにそれを発表させて、他グループの批判に晒すことで自分の気持ちの中で更なる内的議論を触発する。そうしてすべての価値観に「?」がついた頃合いで、「さあ、ご自分の自己分析をしてみてください。そして、議論を通してあなたがどんな人だったか、グループ内のみんなに聞いてみて、あなたの自己分析と比べてください」とやる。

そこで出てくる他人の評価こそ、短時間で導かれた自己評価の近似値である。とする手法です。

 

もちろん、これらはすべて研修のためであると断られた上での議論テーマです。

通常、講師さんはここに至るまでに参加者さんと十分な信頼関係を築くのが普通ですから、研修室でこれらの問いが発せられたとしても、純粋な思考実験としてとらえられて、ハラスメントには至らないことがままあります。

例えるなら、芸人さんがタブーに触れるようなきわどい話をしても眉をひそめる人がいない(あるいは少ない)ように、あらかじめ「そういうものだ」という信頼関係を築くのです。

それでも、本来的に研修そのものへの疑問を呈する人も出てきます。その際には、オブザーバーとして講師の手伝いをさせるなどのケアを取るのが普通です。

少なくとも、私が参加してきた研修の講師の大部分はそうしていました。

効果があるかないかはともあれ、プロにはプロの蓄積があるのです。

 

■企業は、これらの研修を、多くの場合アウトソーシングします。

モラトリアムの甘えを捨てさせ、自立し自律した人材を鍛えるのは、プロの手に任せるのが一番ですから。

同時に、きわどい手法を使うのに身内がやっては後々遺恨が残るということもあります。

すると結局、研修は企業が企画した自己啓発セミナーのような体裁を取ることが多くなります。

企業が採用する自己啓発セミナーの中には、理論学習よりも洗脳的手法を使うことがままあります。

尊厳に係る罰ゲームや特定の誰かに対して謝らせたり、手をつないで明かりを落として決意を語ったり、旅立ちの儀式と称して皆で抱き合ったり、参加者の感情を揺さぶって、擬似的な高揚感とともに「みんなのためなら死ねる!」というような連帯を作る研修を、私は多く見てきました。

 

企業は、そこで起きている内容は関知しません。

修了した従業員たちに、「ごくろうさん。これからがんばってな」とやるだけです。

骨も牙も抜かれた若い人材は、こころからそれに「はい」と答えるのです。Sir,Yes,Sir!と海兵が答えるように。

そして、大部分の参加者たちは、その高揚も連帯も、3日もしないうちに忘れていきます。

ただ、あんなバカバカしい苦行に耐えたというイニシエーションが残るのみです。

 

  

■日本人は、教育ということばにきわめて曖昧な特権を与えてきました。

そこで得られるものが大きいと知っているだけに、そこで行われていることに寛容できました。

しごきやセクハラ、押しつけや人格否定、さまざまな理不尽を「個を鍛える手段」として許容してきました。

多くの企業研修は、そういった風土の中で行われてきたものです。

多くの研修をそうした聖域にしてきたのは、「文句があったら即戦力で入ってこい」という、企業人のモラトリアムに対する不寛容なのかもしれません。

そして残念ながら、私にはそのことに対する処方は思いつきません。

 

*1:これがなんであったかは後述します

*2:相違があったら申し訳ありません。

*3:歓送迎会での新人の一発芸などもその亜流です。往々にして、新人研修が厳しいところは歓送迎会の芸も破廉恥なところが多いと聞きます

*4:以後は、私が経験的に学んだことで、けして専門的・体系的な研修理論として裏付けのあることではありませんのでご留意ください。

yellowbellyellowbell 2009/01/21 11:03 id:mrcmsさんがブックマークコメントで「軍隊かこれは」と書いてらっしゃって、新入社員当時私も同じことを考えたことを思い出しました。
もっとも私らは入社するなり自衛隊に1週間押し込められたので、まさに「軍隊かこれは」だったんですが。
会社入って最初に覚えたのが敬礼と行進の仕方って、ちょっとシュールすぎです。
  
id:WinterMuteさんの疑問もその通りだと思います。
一般的かと言われれば、けして一般化しちゃいけないことだろうと思います。
企業に金もないし、今はもうこの種の研修はほとんど廃れているのでしょうけれども、逆にそこを通過した人材は残っていて、今度は人を採用する側にいるわけです。
私の元同僚にいますが、「最近の新卒は富士の裾野で仲間と抱き合って泣いてねえからすぐネを上げる!」と息巻くような人が人事担当になってます。
「俺はお前と肩組みながら、『なんで静岡まで来て号泣する男と肩組んでありがとう連呼せにゃならんのや辞めようこんな会社辞めちゃおう』と思ってたよ実際同期の●○さん(女性)ってあのあとすぐ辞めちゃったじゃんよ。まったく汗臭いのは相変わらずだネ」と言うと、「だからお前は組合幹部までやったのに続かなかったんだ!」と怒られます。
  
ここにはヒントがありまして、「持続こそ力」の価値観は、「どんな嫌なことがあっても、どんな恥をかいても耐えてその場に居続ける」訓練が重要です。
つまり「持続こそ力」が支配する人事の下では、こうした研修に需要があるのかもしれません。
  
id:typewhiteさんのご意見ももっともです。
でも、だから叩くのでは逆にお互いのお立場を固定してしまいかねません。
  
パワハラという概念は、実は私が企業にいたころにはなかったものです。(セクハラはありましたが)
昔は「甘えるな!」「お客さんは甘やかしてくれんぞ!」「なんで給料もらってると思ってんだ!」なんて噴飯ものの怒号がまかり通っていたものです。
逆に言うと、そんな育てられ方をしてきた企業人たちが、今まだ多く残っておいでだということでもあります。
  
この種の話題で私が気をつけたいなと思うのは、「近頃の若い者は」的な世代間闘争と、「だから主婦は」的な職業間闘争と、「だからフェミは」的な属性間闘争に飛び火しちゃいけないなということで、ならばこそ、できるだけお互いに戦略的撤退がしやすいよう、個人を責めるのはほどほどにしておきたいと思うのです。
もちろん、だからといってパワハラ的な言動やセクハラを開き直るような言説が批難されることをおかしいとは言いません。
  
いや、我ながらさしでがましいですね。すいません。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20090120