とうとう米国で新政権が発足しましたね。なんだかんだ言って、初のアフリカ系大統領の誕生で、米国は新しい一歩を踏み出すことになるのでしょう。そしてそれは、世界にもさまざまな影響を与え、世界のありよう、枠組みを変えていくのかもしれません。日本時間のきょう未明に行われたオバマ大統領の就任演説を見ていて、そんなことを考えるとともに、演説の中身を読んで、指導者と国民との間で国家に対する認識の大きな部分が共有されている米国が少しうらやましくも思えました。
就任演説について、今朝の産経は1面で「新しい責任の時代」と大見出しをつけ、3面のワシントンの有元隆志記者の記事で次のように指摘しています。
《オバマ氏は選挙戦などでたびたび「責任」の重要性に言及してきた。それは政府の責任であり、一人一人の責任でもあった。
「責任」に重きをおいたのは、1961年に同じ民主党のケネディ元大統領が就任演説で、「国があなたたちに何ができるかではなく、あなたたちが国のために何ができるかを問いかけよ」と訴えたのを意識したとみられている。》
確かに、就任演説でオバマ氏は、現下の経済危機についてもその責任は「困難な決断を行い新たな時代に向けた準備を怠ってきた我々全員にもある」と述べ、国民を免責していません。日本だったら、首相をはじめ政治家がこういう言い方をしたら、どういう受け止めをされるだろうかと考えました。もちろん、米国と日本はこの問題に対する立場が違いますし、また直接民主制と間接民主制の差異もありますが、国民にも「責任」を問うということが、日本では許容されるだろうかと。そこで以下、外務省の仮訳をもとに、演説から私が気になった部分を引用してみます。
「政府ができること、そしてやるべきことに関する限り、この国が依存するのは、米国民の誠意と決意である。それは、堤防が決壊した時に他人を迎え入れる優しさであり、友人が職を失わないように自らの労働時間を削減する無欲さであり、煙に包まれた会談を駆け上がる消防士の勇気であり、また、子供を育てようという親の石である。こうしたものこそが、最終的に我々の運命を決めることになる」
「勤勉と正直、勇気とフェアプレー、寛容と好奇心、忠誠と愛国心といった、我々の成功が依拠する価値は古くからのものである。これらは真実である。これらは我々の歴史を通じ、進歩の静かな原動力であった。必要なのは、これらの真実に報いることである。今、我々に求められているのは、新たな責任の時代、すなわち、米国民のそれぞれが、自らと国家及び世界に対し義務を負っていることを認識することである。困難な任務に対し全力で奉仕すること以上に我々の精神を満足させるものはないということを強く認識し、嫌々ではなく義務を果たすことである。これこそが市民権の代価であり約束である。これこそが我々の自信の源である」
…国の歴史も成り立ちも人種構成も宗教も、何もかもが異なる米国と単純に比較するのは乱暴であることは分かっていますが、改正教育基本法に「愛国心」という言葉を盛り込むことすらマスコミや与野党内の猛反発でできなかった我が国とは、やはり全く違うなあと感じ入った次第です。また、日本で首相や政府高官がこういうことを述べたら、国民としての当事者意識の薄いマスコミや左派・リベラル系国会議員らからふくろだたきに遭うのではないかとも思いました。
直接であろうと間接であろうと、民主主義制度下においては、国民(有権者)に政治のあり方に対する責任があるのは当然のことだと考えますが、その点を指摘することは日本では何かタブーのようになっている気がします。マスコミは、政府や政治家の批判は書き放題でも、その政治家を選んだ有権者に批判の目を向けたり、応分の責任の負担を求めたりすることは決してしません。というか、そんな反発を買うような恐ろしいことは考えもしないことでしょう。
で、今朝の新聞各紙を読んでいたところ、少し面白いことに気付きました。毎日新聞は1面トップと6面を使ってこのオバマ就任演説の内容について詳細に報じているのですが、私が注目した部分がなぜか省略されていたのです。訳の巧拙はあえて言いませんが、例えば「忠誠と愛国心」の部分や「これこそが市民権の代価であり約束」といった部分は毎日の記事からは抜け落ちていました。たまたまかもしれませんが、同様に詳報を掲載した朝日にはちゃんと載っていましたし、毎日の訳者だか書き手だか編集者だかの好みや考え方、意向が反映しているのかもしれませんね。私は実際、ここはとても大事な点だと思うのですが。
by 阿比留瑠比
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