
多田元吉
日本の体制が大きく変わっていった、大政奉還の後。江戸幕府最後の将軍・
徳川慶喜Tokugawa Yoshinobuに仕えていた家臣達は、それまでの特権も地位も捨てて、新しい生活を始めざるを得ませんでした。
慣れない商売を始める者、新政府の役人として働く者、果ては身に付けた剣術を使い「撃剣」の興行をする者。彼らの新しい生活は、さまざまでした。・・・その中に、「紅茶」造りに全てを賭けた、一人のサムライがいたのです。
これから数回、私にしては珍しくギャグ抜きで、彼の半生を皆様にご紹介してみましょう。
多田元吉Tada Motokichiは、その青年時代に千葉周作の道場で剣を学び、開国後は二人扶持の神奈川奉行下番世話役として幕府に仕えていました。倒幕の動きが急を告げ始めた慶応元年(1865)には「歩兵組」に転属し、数々の戦闘も体験したようです。千葉道場でも使い手として知られていた元吉が、この激動の時代に何を体験し、どのような活躍をしたのかは、残念ながら世に知られていません。
そして江戸が東京とされて間もない、明治二年(1869)のことです。元吉を含む徳川家の家臣一万七千人は、江戸城を新政府に明け渡した慶喜に従って
駿府sunpu(現・静岡市)に移りました。しかしながら、彼らの新しい生活は、決して楽なものではありませんでした。禄を失った彼らは、自ら家族を養うための収入を獲得しなければならなかったのです。
そんな状況で当時40才の元吉が選んだのは、荒地の開墾でした。
まったくの荒地だった
丸子Mariko(「とろろ汁」で有名ですね)に居宅を構え、日本に限らず中国の文献までもを読み漁って茶作りの技術を学んだ彼は、ここで茶の生産を始めました。
その頃、勧業政策を推し進める日本にとって、外貨の獲得が重要な課題となっていました。そしてその手段として、重要な特産品として西洋諸国に輸出されていた日本の緑茶ですが、欧米諸国の評価は必ずしも高くありませんでした。粗悪品の混入も一因でしたが、何よりも彼らの嗜好に合った茶の生産が、当時の日本では出来なかったのです。
日本の輸出する緑茶よりも、清国の作る発酵茶「
紅茶」(当時日本では
赤茶と呼んでいました)こそが、欧米人には人気だったのです。



当時の輸出用日本茶パッケージ(詳しく知りたい方は「蘭字」で検索してください)
これを察した明治政府は、清国から紅茶の製法を学ぼうとしました。しかし、清国は紅茶用品種の茶を日本には売ろうとしませんでした。紅茶と緑茶とは、本来同一の品種から作ることが出来ます。しかし、紅茶を見たことすら無い者が大多数である日本の政府は、そんな基本的な知識も無いままに、この新しい、そして莫大な利益を生む「赤茶」の生産を決意したのです。
(この項つづく)