2009-01-20
■東京の合唱
若い人たちが東京に憧れなくなったのだという。東京に求心力がなくなり、若者は「ジモト」を志向している。いい傾向だとおもう反面、そんな話を聞くと、わたしは自分だけがやけに歳を取ってしまったような気がしてならないのである。わたしは、みっともないくらい東京に憧れていた。
東京へいきたい。高校生のわたしは、それだけを生きるよすがにしていた。かっこいい東京。いや、わたしの東京への憧憬は、「憧れていた」などと過去形で語れるようなしろものではない。わたしはいまだに、東京に憧れているのだ。東京に住んで十九年。もうそろそろ飽きてもいいころだが、わたしの憧れは続いている。
たとえば、上京して十七年目のこと。わたしはついに、かねてからの希望であった、都内のとあるおしゃれタウンに越すことができた。たくさんの若者が集うことで知られる、音楽とファッションと文化の街。わたしはついに、おしゃれタウンの住人となったのだ。このときの満足をどう表現すればいいのか。家賃もいくぶん高めではあったが、わたしの定期券には、おしゃれタウンの駅名が刻まれている。やったー。それだけで、心がすっと宙に浮くようであった。
しかし、考えてみてほしい。街とは人が生活をする場である。こんなにうわついた、いいかげんな気持ちで日々の暮らしがたちゆくのだろうか。もし仮に、結婚して十九年、いつまでたっても嫁に憧れている男がいるとすれば、それはただのばかものである。「ああ、なんてかわいい子なんだ、俺なんかにふりむいてくれるかなあ」などと、嫁の後ろ姿に狂おしく悶える男。嫁に片想いする旦那。いいかげんにしろといいたい。いつまで憧れているのだ。
ことほどさように、わたしはいまだに東京に憧れており、つまりわたしはいっけん東京に住んでいるように見えるけれども、住んでいるのは肉体だけであり、精神は実家の六畳間に置いてきたままなのではないかと感じるのだ。きっとわたしは、まだ上京していないのである。