タイトル通り、安曇野から見える代表的な山である常念岳を中心に、安曇野の自然、日常の風景など、画像で綴っていきます。
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日経225

下の二つ並んだ道祖神のあるところから、県道中堀一日市場停車場線をやや西に向かうと、この双体道祖神がある。彩色されていてなかなか目立つ。これは握手像で、家のような形をした構えの中に描かれて(彫られて?)いる。文化四年(即ち1807年)という年号が読めた。

楡公民館よりやや北方、県道中堀一日市場停車場線沿いにあった道祖神。屋根付だ。双体道祖神と文字碑がある。双体道祖神の方は、手に何か持っているようにも見えるので、酒器像だろうか。後ろに回り込めなかったので、年代は不明。双体像の周りの達筆な文字が読めればヒントになるのかな。

池田町の県道51号大町明科線の西側を並行して走る道沿いにあった道祖神。詳しい場所は不明だが、池田町の中心部のやや南側になる。小さいお堂と二十三夜塔と並んで立っている。文久三癸亥年という年号が読めた。1863年だ。

波田中学校の校門脇に近いところにあった文字碑。比較的大きな石だが、建物とフェンスに挟まれたところにちょっと奥まって存在しているので、それほど目立たない。裏側に「紀元二千六百一年」と彫られていたので、おそらく1941年のことだろう。何だか時代背景を如実に表している年代表記だ。

楡公民館の前にあった文字碑。後ろに回って確かめることができず、年代不明。この画像では見にくいが、文字の他に落款みたいなものまで彫り込んである。落款付きの文字碑はあまり見ないタイプだ。左下の丸いのは「楡」と読めるが、その下のと右上のはよくわからない。

南小倉公民館の近くにあった双体像。年号は寛政七卯年と読める。1795年だ。この双体像は手に酒と盃を持っている酒器像と言われるものである。双体像は握手像が多いが、酒器像も結構あるらしい。注意して見てみたい。

しばらく前に載せた立派な大藤の近くにある道祖神。寛政八辰年は1796年。隣にある小さな石は「移転記念」で、道路改良の為昭和49年に移転したと彫られている。今となってはかなり狭い道だが、道祖神を移す前は車など通れない道だったのかな。

「その2」の道祖神から少し西側に行ったところ、民家のすぐ脇にあった双体道祖神。二つあるうち大きい方は真っ黒だが彫りはシャープ。明治参拾弐貮年(1899年)という年号が読めたので、まあ100年余り前だったら確かにシャープなまま残っているわな、と納得。しかし、真っ黒なのは何故だろう? 手前の小さい方も双体像なのだが、途中で折れたのを再び繋いだ後があり、どうもそのつなぎ目の辺りに年号が彫られているようだ。磨滅も激しくて年号は判読不能だった。

梓川中学校の北西側、多分地区名でいうと「下角」になると思うのだが、そのあたりにあった文字碑。ここのにもお祭りの提灯などの装飾をつける為の鉄柱が設置してあった。年号は明治十六年(1883年)。梓川の辺りは明治期以降のが多いのかな。

池田町の宇佐八幡宮境内にあった道祖神。他にもいくつか石塔があった。二つとも双体道祖神で、左の方が安永二年(1773年)、右のが天保十巳年(1839年)と彫られていた。右のはまだシャープなのに比べて左のはかなり磨滅していて顔の表情など全くわからない。年代的には70年弱の差なのだが、こんなに差が出るものなのだろうか。或いは石の材質とか、もとあった場所が違うとか、何かあるのかな。

三郷の西の方、小倉といわれるあたりにあった大きめの文字碑。台座とコンクリートで止めてあるなあ、と思ったら、「大正十一年」と彫ってあった。

先にアップした道祖神2つのうち、双体道祖神の方。2人が握手しているが、寄り添い方が近いのと表面が何となくきれいに見えるので、そんなに古いものではないのかもしれない。この画像では見にくいが、双体像の上に線画で松竹梅が彫ってある。なかなか芸が細かい道祖神だ。

扇町桜堤の北の端あたりにあった道祖神。文字碑と双体道祖神が並んでいる。すぐ後ろが民家で、後ろへ回って、というのはちょっと遠慮してしまうような状況。写真撮るのも躊躇したような状況なので、年代は調べられず。

家からそれほど離れていないところにあった道祖神。用水路沿いの道と県道319号小倉梓橋停車場線との交差点にある。この交差点は通勤ルート上にあるのだが、道祖神に向かってくるのは夜の為、この日まで全く気がつかなかった。双体道祖神でそこそこ古そうなのだが、何せ他人の家の庭みたいなところにある為、近づいて周りを確かめるのは遠慮した。よって、年代不明。

その3の道祖神とは梓川消防署を挟んで反対側にあった文字碑。それにしてもこのあたりの道祖神は文字碑だらけだ。何となくきれいで新しそうだなあ、と思ってみたら、昭和十四年という文字を発見。国を挙げて戦争の泥沼にはまっていった時期に産まれた道祖神、人々の願いは何だったのだろう?

梓川消防署から西側に少し行ったところにあった道祖神。これも文字碑。筆で書いた字のかすれたところまで忠実に彫って表現してある、何とも芸が細かい文字碑だ。これは年代が文政十二年(即ち1829年)と読めた。

梓川の野々宮神社の鳥居前にあった道祖神。達筆の文字碑だが、それほど古くはなさそうだ。しかし、年代を表す文字は読み取れず、定かではない。参道を挟んで反対側に「野々宮合戦場跡」と書かれた標柱が立っていた。天文十九年(1550年)十一月、甲斐から信濃に攻め入った武田信玄の先鋒隊を小笠原長時(信濃の守護大名)軍が破った「野々宮の合戦」があったところらしい。

この前の日曜日(4月16日)に、梓川村〜波田町方面を走ってきたときに見た道祖神。これは多分三郷と梓川の境あたりになると思うのだが、詳しい場所を忘れてしまったのでどちらになるのかは定かではない。勢いのある字の文字碑だが、明治十年と彫ってあり、そんなに古くはない。といっても130年前。この外側にお祭りの提灯をぶら下げる為の鉄枠が作ってあった。お祭りのときに来たらにぎやかに飾られているかな。

先週土曜日(15日)に堀金で見かけた道祖神。4月初めにお祭りをしていた神社から三郷寄りに来たところ。異なるタイプ、年代の道祖神が二体並んでいる。左側のは文字碑で「文化」の文字が読み取れるので今から200年ほど前の文化年間(1804-1817)のものであることはわかるが、肝心の数字の部分が削れたか何かで読めない。右側の大きい双体道祖神は、達筆な字で双体像の周りにデザインされたように年代と地域名が彫ってある、時々見かけるパターンだ。あまりにも達筆で自信が無いのだが、おそらく「嘉永二」と読めるので1849年。この道は自転車でよく通る道なのだが、こんな結構大きめの道祖神に気がつかなかったとはねえ。

その1の道祖神から西側に大きく回っていったら見つけた。ちょうど家から西に向かって歩いていったあたりだ。二十三夜塔も一緒に立っている。向かって右側が文字碑で、左側は風化と磨滅が激しくてこの画像でははっきりと見えないのだが、双体道祖神である。右側のは文化九年とあるので、1812年即ち190年余り前のものだ。左側のは何とか双体道祖神とわかったものの、文字等が全く読み取れず(彫られているのかも定かではない)、いつごろのものか全くわからなかった。

日曜日に家から南側の方へを歩いていたら見つけた道祖神。文字のみだが、このあたりで見かける道祖神ではかなり大振りな石で、文字も大きい。寛政八丙辰年とあるので、1796年に建てられたもの。今から210年前だ。

その2の道祖神から更に上ったところにあった道祖神。こちらは色鮮やかで、彩色されて間もないと思われる。その2は鳥居の上部だけが装飾のように描かれていたが、これは鳥居の中に人物像がある。彩色については、以前、道祖神のお祭りのときにその地区の子供たちが色を塗るというのを聞いたことがあるので、お祭りがあってからそれほど日が経っていないのだろう。ここのも二十三夜塔にも色が塗られているが、穂高の辺り特有のものだろうか。天保四巳年の年号が見えるということは、1833年即ち170年ほど経っていることになる。隣の二十三夜塔には「保高村」の文字が読めるが、穂高はもとは保高だったということか。
このあとの帰路はもろ逆風になって非常に辛かった。おまけにここからいくらも離れていないところで自転車がパンクしてしまった。パンクは何とか修理できたが、何とも散々な帰路だった。道祖神を眺めるだけでお参りも何もしないから、罰が当たったかな。

穂高駅の南側、穂高神社のすぐ西側の踏切を渡って上っていったところにあった道祖神。これは「大黒天」と一緒に立っている。うっすらと彩色された跡が残っていた。何年かはわからないが、「安政」の年号は読めたので、今から150年ほど前のもの。鳥居の装飾があるのを見たのは初めてだ。

彩色された道祖神。隣の二十三夜塔も色が塗り込んである。かなりきれいなので、最近塗られたものか。「文政七甲年二月」なので、今から約180年ほど前の1824年に建てられたもの。「田中村中」の文字も見えるので、穂高町柏原の一部だ。

「その1」の道祖神からそれほど離れていないところにあった道祖神で、すぐ裏に「小田多井弘法屋敷跡」という標柱があった。これも「文政七年正月」の文字がはっきりと読み取れた。「その1」と同じく約180年前の1824年のものだ。これも何故か男性の方の顔が削り取られている。イスラム教徒によって破壊された仏教遺跡みたいだ。何か意味があるのだろうか?

(旧)堀金村小田多井で見つけた双体道祖神。「文政七年仲秋」の文字がはっきりと読み取れた。文政七年は1824年なので、今から180年ほど前になる。この道祖神は、何故か男性の方の顔が削り取られている。

拾ヶ堰沿いで見かけた道祖神。双体道祖神なのだが、よく見る2人が寄り添って立っている姿とは違い、ここのは一方が座っている。何となく親子にも見えるが、どうなのだろう? 新しそうに見えたが「天保四巳年」の年号が読めた。即ち1833年、今から170年ほど前で、天保の大飢饉のころだ。天保四巳年の道祖神は以前にも見たが、天に祈るしかない状態だったのだろう。親子にも見えるこの道祖神は、子供を救いたいという気持ちの現れなのかも知れない。

今のところ家から一番近いところで見つけた道祖神。双体道祖神で、二十三夜塔と並んで立っている。時々二十三夜塔と道祖神が並んでいるのを見かけるが、何かポイントとなる場所だったのだろうか。いまいち読み取りにくかったのだが、裏に彫られた年号が「寛政十年」と思われるので、1798年即ち210年ほど前のものだ。

側に「八坂神社」という標柱が立っており、そこに書かれた文章から、明治末期に熊野神社に統合された神社が建っていたところだとわかる。ここにある道祖神はかなり古そう。後ろに回ってみるが、文字が摩滅しているのか、たとえ文字が彫ってあるにしても読み取れない。隣にある二十三夜塔には弘化二年と彫ってあり、そっちは非常にはっきりと読み取れるので、それよりも古い、即ち、1845年以前のものと予想される。

「道祖神」という文字だけのもの。こういうのも所々にある。後ろ側に「天保四巳年」と彫ってあったので、1833年の作の模様。即ち、170年ほど前で、天保の大飢饉の頃だ。飢饉を脱する願いを込めたものだろうか。

もう一つ、摩滅しかけた双体道祖神を見つけた。「安政」という年号が読み取れたので、1850年代中頃、今から150年ほど前のものだ。「安政」というと江戸時代末期で、安政の大地震だったり、井伊直弼の安政の大獄だったり、桜田門外の変だったりと、地面も社会も大揺れだったようなことしか思いつかない。何となく暗い世相に見える時代に、人々は何を託したのだろう。

下長尾公民館の前にあった道祖神。表面がやや摩滅していて、表情等はわかりにくくなっているが双体道祖神。途中から土に埋まっていて見えなかったのだが、後ろ側に「寛政」の年号が読み取れたので、おそらく1790年台、即ち210年ほど前のものと思われる。
2007/08/16 01:43
道祖神
2007/08/06 01:05
七夕飾りの道祖神
2006/06/23 02:22
楡の道祖神
下の二つ並んだ道祖神のあるところから、県道中堀一日市場停車場線をやや西に向かうと、この双体道祖神がある。彩色されていてなかなか目立つ。これは握手像で、家のような形をした構えの中に描かれて(彫られて?)いる。文化四年(即ち1807年)という年号が読めた。
2006/06/23 02:11
楡の道祖神
楡公民館よりやや北方、県道中堀一日市場停車場線沿いにあった道祖神。屋根付だ。双体道祖神と文字碑がある。双体道祖神の方は、手に何か持っているようにも見えるので、酒器像だろうか。後ろに回り込めなかったので、年代は不明。双体像の周りの達筆な文字が読めればヒントになるのかな。
2006/06/22 02:31
道祖神(池田町)
池田町の県道51号大町明科線の西側を並行して走る道沿いにあった道祖神。詳しい場所は不明だが、池田町の中心部のやや南側になる。小さいお堂と二十三夜塔と並んで立っている。文久三癸亥年という年号が読めた。1863年だ。
2006/05/30 02:43
道祖神
波田中学校の校門脇に近いところにあった文字碑。比較的大きな石だが、建物とフェンスに挟まれたところにちょっと奥まって存在しているので、それほど目立たない。裏側に「紀元二千六百一年」と彫られていたので、おそらく1941年のことだろう。何だか時代背景を如実に表している年代表記だ。
2006/05/30 02:38
道祖神
楡公民館の前にあった文字碑。後ろに回って確かめることができず、年代不明。この画像では見にくいが、文字の他に落款みたいなものまで彫り込んである。落款付きの文字碑はあまり見ないタイプだ。左下の丸いのは「楡」と読めるが、その下のと右上のはよくわからない。
2006/05/30 02:35
道祖神
2006/05/30 02:33
道祖神
南小倉公民館の近くにあった双体像。年号は寛政七卯年と読める。1795年だ。この双体像は手に酒と盃を持っている酒器像と言われるものである。双体像は握手像が多いが、酒器像も結構あるらしい。注意して見てみたい。
2006/05/30 02:28
先週の道祖神
しばらく前に載せた立派な大藤の近くにある道祖神。寛政八辰年は1796年。隣にある小さな石は「移転記念」で、道路改良の為昭和49年に移転したと彫られている。今となってはかなり狭い道だが、道祖神を移す前は車など通れない道だったのかな。
2006/05/08 03:25
先週の道祖神その3
「その2」の道祖神から少し西側に行ったところ、民家のすぐ脇にあった双体道祖神。二つあるうち大きい方は真っ黒だが彫りはシャープ。明治参拾弐貮年(1899年)という年号が読めたので、まあ100年余り前だったら確かにシャープなまま残っているわな、と納得。しかし、真っ黒なのは何故だろう? 手前の小さい方も双体像なのだが、途中で折れたのを再び繋いだ後があり、どうもそのつなぎ目の辺りに年号が彫られているようだ。磨滅も激しくて年号は判読不能だった。
2006/05/08 03:18
先週の道祖神その2
梓川中学校の北西側、多分地区名でいうと「下角」になると思うのだが、そのあたりにあった文字碑。ここのにもお祭りの提灯などの装飾をつける為の鉄柱が設置してあった。年号は明治十六年(1883年)。梓川の辺りは明治期以降のが多いのかな。
2006/05/08 03:12
先週の道祖神
池田町の宇佐八幡宮境内にあった道祖神。他にもいくつか石塔があった。二つとも双体道祖神で、左の方が安永二年(1773年)、右のが天保十巳年(1839年)と彫られていた。右のはまだシャープなのに比べて左のはかなり磨滅していて顔の表情など全くわからない。年代的には70年弱の差なのだが、こんなに差が出るものなのだろうか。或いは石の材質とか、もとあった場所が違うとか、何かあるのかな。
2006/04/29 02:00
先週の道祖神
三郷の西の方、小倉といわれるあたりにあった大きめの文字碑。台座とコンクリートで止めてあるなあ、と思ったら、「大正十一年」と彫ってあった。
2006/04/29 01:55
先週の道祖神
2006/04/29 01:50
先週の道祖神
2006/04/29 01:45
双体道祖神
先にアップした道祖神2つのうち、双体道祖神の方。2人が握手しているが、寄り添い方が近いのと表面が何となくきれいに見えるので、そんなに古いものではないのかもしれない。この画像では見にくいが、双体像の上に線画で松竹梅が彫ってある。なかなか芸が細かい道祖神だ。
2006/04/29 01:35
先週の道祖神
扇町桜堤の北の端あたりにあった道祖神。文字碑と双体道祖神が並んでいる。すぐ後ろが民家で、後ろへ回って、というのはちょっと遠慮してしまうような状況。写真撮るのも躊躇したような状況なので、年代は調べられず。
2006/04/22 01:57
今週の道祖神その5
家からそれほど離れていないところにあった道祖神。用水路沿いの道と県道319号小倉梓橋停車場線との交差点にある。この交差点は通勤ルート上にあるのだが、道祖神に向かってくるのは夜の為、この日まで全く気がつかなかった。双体道祖神でそこそこ古そうなのだが、何せ他人の家の庭みたいなところにある為、近づいて周りを確かめるのは遠慮した。よって、年代不明。
2006/04/22 01:53
今週の道祖神その4
その3の道祖神とは梓川消防署を挟んで反対側にあった文字碑。それにしてもこのあたりの道祖神は文字碑だらけだ。何となくきれいで新しそうだなあ、と思ってみたら、昭和十四年という文字を発見。国を挙げて戦争の泥沼にはまっていった時期に産まれた道祖神、人々の願いは何だったのだろう?
2006/04/22 01:47
今週の道祖神その3
梓川消防署から西側に少し行ったところにあった道祖神。これも文字碑。筆で書いた字のかすれたところまで忠実に彫って表現してある、何とも芸が細かい文字碑だ。これは年代が文政十二年(即ち1829年)と読めた。
2006/04/22 01:27
今週の道祖神その2
梓川の野々宮神社の鳥居前にあった道祖神。達筆の文字碑だが、それほど古くはなさそうだ。しかし、年代を表す文字は読み取れず、定かではない。参道を挟んで反対側に「野々宮合戦場跡」と書かれた標柱が立っていた。天文十九年(1550年)十一月、甲斐から信濃に攻め入った武田信玄の先鋒隊を小笠原長時(信濃の守護大名)軍が破った「野々宮の合戦」があったところらしい。
2006/04/22 01:18
今週の道祖神
この前の日曜日(4月16日)に、梓川村〜波田町方面を走ってきたときに見た道祖神。これは多分三郷と梓川の境あたりになると思うのだが、詳しい場所を忘れてしまったのでどちらになるのかは定かではない。勢いのある字の文字碑だが、明治十年と彫ってあり、そんなに古くはない。といっても130年前。この外側にお祭りの提灯をぶら下げる為の鉄枠が作ってあった。お祭りのときに来たらにぎやかに飾られているかな。
2006/04/21 00:00
先週の道祖神
先週土曜日(15日)に堀金で見かけた道祖神。4月初めにお祭りをしていた神社から三郷寄りに来たところ。異なるタイプ、年代の道祖神が二体並んでいる。左側のは文字碑で「文化」の文字が読み取れるので今から200年ほど前の文化年間(1804-1817)のものであることはわかるが、肝心の数字の部分が削れたか何かで読めない。右側の大きい双体道祖神は、達筆な字で双体像の周りにデザインされたように年代と地域名が彫ってある、時々見かけるパターンだ。あまりにも達筆で自信が無いのだが、おそらく「嘉永二」と読めるので1849年。この道は自転車でよく通る道なのだが、こんな結構大きめの道祖神に気がつかなかったとはねえ。
2006/04/12 01:06
一昨日の道祖神その2
その1の道祖神から西側に大きく回っていったら見つけた。ちょうど家から西に向かって歩いていったあたりだ。二十三夜塔も一緒に立っている。向かって右側が文字碑で、左側は風化と磨滅が激しくてこの画像でははっきりと見えないのだが、双体道祖神である。右側のは文化九年とあるので、1812年即ち190年余り前のものだ。左側のは何とか双体道祖神とわかったものの、文字等が全く読み取れず(彫られているのかも定かではない)、いつごろのものか全くわからなかった。
2006/04/12 00:56
一昨日の道祖神その1
日曜日に家から南側の方へを歩いていたら見つけた道祖神。文字のみだが、このあたりで見かける道祖神ではかなり大振りな石で、文字も大きい。寛政八丙辰年とあるので、1796年に建てられたもの。今から210年前だ。
2006/04/02 04:05
今日の道祖神
2006/03/27 01:50
今日の道祖神その3
その2の道祖神から更に上ったところにあった道祖神。こちらは色鮮やかで、彩色されて間もないと思われる。その2は鳥居の上部だけが装飾のように描かれていたが、これは鳥居の中に人物像がある。彩色については、以前、道祖神のお祭りのときにその地区の子供たちが色を塗るというのを聞いたことがあるので、お祭りがあってからそれほど日が経っていないのだろう。ここのも二十三夜塔にも色が塗られているが、穂高の辺り特有のものだろうか。天保四巳年の年号が見えるということは、1833年即ち170年ほど経っていることになる。隣の二十三夜塔には「保高村」の文字が読めるが、穂高はもとは保高だったということか。
このあとの帰路はもろ逆風になって非常に辛かった。おまけにここからいくらも離れていないところで自転車がパンクしてしまった。パンクは何とか修理できたが、何とも散々な帰路だった。道祖神を眺めるだけでお参りも何もしないから、罰が当たったかな。
2006/03/27 01:45
今日の道祖神その2
穂高駅の南側、穂高神社のすぐ西側の踏切を渡って上っていったところにあった道祖神。これは「大黒天」と一緒に立っている。うっすらと彩色された跡が残っていた。何年かはわからないが、「安政」の年号は読めたので、今から150年ほど前のもの。鳥居の装飾があるのを見たのは初めてだ。
2006/03/27 01:29
今日の道祖神その1
彩色された道祖神。隣の二十三夜塔も色が塗り込んである。かなりきれいなので、最近塗られたものか。「文政七甲年二月」なので、今から約180年ほど前の1824年に建てられたもの。「田中村中」の文字も見えるので、穂高町柏原の一部だ。
2006/03/22 02:04
今日の道祖神その2
「その1」の道祖神からそれほど離れていないところにあった道祖神で、すぐ裏に「小田多井弘法屋敷跡」という標柱があった。これも「文政七年正月」の文字がはっきりと読み取れた。「その1」と同じく約180年前の1824年のものだ。これも何故か男性の方の顔が削り取られている。イスラム教徒によって破壊された仏教遺跡みたいだ。何か意味があるのだろうか?
2006/03/22 01:59
今日の道祖神その1
(旧)堀金村小田多井で見つけた双体道祖神。「文政七年仲秋」の文字がはっきりと読み取れた。文政七年は1824年なので、今から180年ほど前になる。この道祖神は、何故か男性の方の顔が削り取られている。
2006/03/21 01:36
今日の道祖神その2
拾ヶ堰沿いで見かけた道祖神。双体道祖神なのだが、よく見る2人が寄り添って立っている姿とは違い、ここのは一方が座っている。何となく親子にも見えるが、どうなのだろう? 新しそうに見えたが「天保四巳年」の年号が読めた。即ち1833年、今から170年ほど前で、天保の大飢饉のころだ。天保四巳年の道祖神は以前にも見たが、天に祈るしかない状態だったのだろう。親子にも見えるこの道祖神は、子供を救いたいという気持ちの現れなのかも知れない。
2006/03/21 01:21
今日の道祖神その1
今のところ家から一番近いところで見つけた道祖神。双体道祖神で、二十三夜塔と並んで立っている。時々二十三夜塔と道祖神が並んでいるのを見かけるが、何かポイントとなる場所だったのだろうか。いまいち読み取りにくかったのだが、裏に彫られた年号が「寛政十年」と思われるので、1798年即ち210年ほど前のものだ。
2006/03/06 01:29
今日の道祖神その2
側に「八坂神社」という標柱が立っており、そこに書かれた文章から、明治末期に熊野神社に統合された神社が建っていたところだとわかる。ここにある道祖神はかなり古そう。後ろに回ってみるが、文字が摩滅しているのか、たとえ文字が彫ってあるにしても読み取れない。隣にある二十三夜塔には弘化二年と彫ってあり、そっちは非常にはっきりと読み取れるので、それよりも古い、即ち、1845年以前のものと予想される。
2006/03/06 01:27
今日の道祖神
「道祖神」という文字だけのもの。こういうのも所々にある。後ろ側に「天保四巳年」と彫ってあったので、1833年の作の模様。即ち、170年ほど前で、天保の大飢饉の頃だ。飢饉を脱する願いを込めたものだろうか。
2006/02/26 03:19
道祖神その2
もう一つ、摩滅しかけた双体道祖神を見つけた。「安政」という年号が読み取れたので、1850年代中頃、今から150年ほど前のものだ。「安政」というと江戸時代末期で、安政の大地震だったり、井伊直弼の安政の大獄だったり、桜田門外の変だったりと、地面も社会も大揺れだったようなことしか思いつかない。何となく暗い世相に見える時代に、人々は何を託したのだろう。
2006/02/26 03:05
道祖神
下長尾公民館の前にあった道祖神。表面がやや摩滅していて、表情等はわかりにくくなっているが双体道祖神。途中から土に埋まっていて見えなかったのだが、後ろ側に「寛政」の年号が読み取れたので、おそらく1790年台、即ち210年ほど前のものと思われる。
2006/02/19 04:02
道祖神