REPLY to『タモリとバラクーダー』 (1996/09/12 01:43:11)
「石川誠壱」さん、お久しぶりです。
そうですか、あれは“江頭”ではなく“出川”でしたか。シツレイ致しました。キッドも最終回は「文句タラタラ」でしたね。
>まず、萩原哲晶さんとの最初の仕事になるはずだった、
>例の幻のタモリさんのアルバムというのは、
>実際どこまで作業が進んでいたものなのでしょうか。
81年に『ロンバケ』の成功が原因だと思いますが、田辺さんから直接呼ばれまして、キャンティの二階で「タモリと“遊んでくれ”」と依頼されたのが“そもそも”でした。そして田辺エージェンシーでタモリさん・高平氏と打ち合わせも行いました。(5月ぐらいでしたか)
同年6月、私のFM東京の番組『スピーチ・バルーン』にタモリ・高平両氏がゲストと、取り敢えず雰囲気は順調でした。しかし、アイディアがそれ以上膨らまず、翌年(82年)へと持越となりました。(なかなか進まないのでタモリさんはイライラしていたかもしれません)
今年出ました『大瀧詠一ソングブック2』の「うさぎ温泉音頭」にも書きましたが、82年後半“萩原哲晶”さんとの出会いがあり、「イエロー・サブマリン音頭」へと繋がり、ここでタモリ・アルバムへの参加を依頼した、と書きましたが、どうも記憶にズレがあるようで、タモリ・アルバムのレコーディングはこの角川や金沢よりも前に始まっていたようです。(多分『トライアングル2』が終わったあたりからではなかったか、と。因みに82年1月1日発売の「うなづき・マーチ」のB面は高平哲郎作の「B面でうなづいて」で、この頃はタモリ・プロジェクトが“順調”だったと見ていいと思います)
82年のお正月、タモリさんから直接電話があり「「イエロー・サブマリン音頭」は最高!」との賛辞を受け、確か『今夜は最高』でやぐらのセットを組んでタモリさんが歌いました。(電話はこの1回きりで、少し酔っていたような気もしますが、確か「これはオレがやりたかった」というようなニュアンスがあったように記憶しています)
>83年夏ごろの「笑っていいとも!」での
>(私が素人で出演していた頃でもありますが)
>「正調いいとも音頭というシングルを出すかも知れない」
>というタモリさんの発言を覚えています。
これは全く記憶がありません。82年開始した大瀧・タモリプロジェクトが“挫折”したのは83年の1月です。これは萩原哲晶さんの死去によるもので、よって83年夏の企画は私絡みではなかったと思われます。(しかし、そのタイトルからして、アイディア段階では私には無縁ではなかったことは想像に難くありませんナ)
>その当時のタモリさんの所属レコード会社はCBSソニーです。
81年に田辺さんから話しがあった時、タモリさんもソニーに移籍した時だったのですよね。これも引き受けるにあたっては大きなファクターでした。というのも、ロンバケのポスターにある“ weproudlypresents ”というコピーは“ソニー+ナイアガラ”という意味合いがありました。
80年から81年にかけて、須藤薫、太田裕美、西田敏行、山口百恵、そして松田聖子、更にはトライアングル2と、“ソニーとの蜜月”をイメージ付ける意図が私にあり、このようにソニー関連の仕事を多くしたのです。(この“意図”に対して何の評価もされなかったので、ナイショですが、88年に一度契約を“切った”のです)
タモリさんがソニーを選んだ理由は、早稲田時代の友人(伊藤八十八)がディレクターだったからだそうです。(因みに、ジャズ仲間では有名な岩手・一ノ関のジャズ喫茶『ベイシー』のマスター・菅原さんも早稲田時代のジャズ仲間だったそうです。色川武大さんは、カミサンを置いて、晩年一ノ関に住んだのはこの『ベイシー』の音が聞きたかったからです。音楽評論家の草分け・野口久光さんが亡くなりましたが、野口さんのレコードがこの『ベイシー』に寄贈されたとのことです)
この伊藤八十八なる人物は昨年まで私のソニー側の“窓口”でもありました。(ただ、この後のタモリさんの移籍行動は全く知りませんでした)
>「レッツ・オンド・アゲイン」と同時期の
>「タモリ2」に「ピンカラレディーのサンスター」があること、
>タモリさんと大瀧さんのCBSソニー移籍がほぼ同時であること、
>「ナイアガラCMメドレー」のA面「化粧おとしてメイクダウン?」が
>「いいとも」で歌われていたこと。
これらは、残念ながら、単なる“偶然”ですね。
>(シャネルズの「事件」からの復帰第一弾の仕事が
>「タモリのオールナイトニッポン」であったこと、
これは初耳です。私の81年12月のコンサート『 LET'SDEBUTAGAIN 』に彼等を舞台に上げましたが、どっちが早かったのでしょうかネ。(^_^)
>「実年行進曲」に理解を示さなかったという所ジョージさんと、
>タモリさんの現在の寂しい関係にまで、妄想は進んでいます)
あの所発言は正直言ってビックリしました。「こんなモン作るヤツはロクな死に方はしない」まで言ってましたからねー。私は一度も所さんにも会ったことはないし、彼について一度も関連発言をしたこともない。むしろ評価していただけに、コチラとしては驚きました。何か“恨み”でもあるんでしょうかネぇ?単なる作品評価にしてはスゴイ剣幕でしたよね。あの『実年』が“単なるツギハギ”なら『スーダラ伝説』はどうなんでしょう?(^_^)
芸能界には疎いのでタモリ・所関係がどうなのかは知りませんが、それよりもタモリさんが私に関して“悪感情”を抱いていると思うようなことが結構あるように感じます。
もう私は82年のレコーディング以来、一度も会ってませんが、グッバイのメンバーがタモリさんのところへ遊びに行った。(『いいとも』に出た?でしたかね?)楽屋で「大滝さんのスタジオに遊びに行った」と言ったら「ヘンな人でしょう?」と“真顔”で聞いた、とか。「いや、別に普通の人でしたヨ」と答えたら「そう?」とまだ怪訝な顔をしていた、とか。
昨年満里奈が『いいとも』に出た時も「大滝さんと仕事したんです」「それがどうしたの」と、確かに“一般ネーム”ではないですからあの番組で長々と話す話題には相応しくありませんが、それにしても“ズイブン”な言い方でした。
現在タモリさんの“スゴイ”システムという噂のビデオ・プロジェクターを“紹介”したのも私でして、レコーディング期間中は別に感情がもつれるようなことは何一つなかったのですが、このアルバムを中途で放棄したので“恨んで”いるんでしょうかネー。(;_;)
>「いいとも」から出たレコード「きたかチョーさん待ってたドン」が、
>高平哲郎・細野晴臣コンビの作品であることも、
>何か関連づけて考えていいのでしょうか。
「きたかチョーさん待ってたドン」。懐かしいですね。これもありましたよねー。但しこの企画は私に全く関係ありません。
>たとえば「自分の代わりに細野さんを紹介した」というような。
ナイショですが、未だにこの“手”は多いんです。(^_^)ただ細野邸は「ハイスクール・ララバイ」もありましたし、ナント言ってもYMOですから、《大瀧の次は細野だ》というスタッフ側の意向があったことは容易に想像出来ます。
しかし。この仕事が細野邸であることは初めて知りました。(彼は“仕事を断らない”というクセがありますが、それにしても(^_^))
>長嶋ネタの歌を、なぜ大瀧さんが手がけられないのか、
>不審に思ったものです。
あれが“長嶋ネタ”。ですかぁ。(^_^)
>もうひとつ質問があります。
>86年の春ですが、私はLFの藤原龍一郎さんと組んで
>バラクーダーの番組を作りたい、と動いていました。
バラクーダーとのことの経緯はこうです。
まず私とビクターとの関係は、79年に友人経由で“川原伸司”(ペンネーム:平井夏美)と知り合ったことから始まります。彼は当時ビクターの社員でピンクレディーの宣伝担当でした。となると上司は“飯田久彦”ということです。
現在はダブル・オー役員として一緒に仕事をしている川原ですが、ビクター時代には杉真理をデビューさせたり、竹内まりやの幻のデビュー曲をプロデュースしたりしています。(『ロフト・セッションズ』というアルバム)(《アミーゴ・ガレージ》の“ホニオリン館”参照のこと)
で、川原との初仕事が「冬のリビエラ」でした。もっとも、森進一の長年のディレクター氏が82年夏に亡くなり、そこで飯田邸に担当が回って来た、ということだったのですが。 ビートルズの熱狂的なコレクターでもある川原は、いつか「イエロー・サブマリン」を音頭にしたい、と熱望していた。この話は79年から私は言われていました。そこへ「うさぎ温泉音頭」をキッカケに「イエロー・サブマリン音頭」へ。
ということでビクター連とも頻繁に会うようになり、どこかの食事会で「バラクーダーが面白い」と“軽く”発言したのが話の発端です。
翌週のオリコン新聞にバラクーダーのインタビューがあり、そこには「近々、大瀧詠一のプロデュースでアルバムを出す」と出ていたのです。
早速川原に事の経緯を聞きましたが、全くの飯田邸のハヤトチリでした。(もっとも、やりてのディレクター氏。先に活字で出しておいてから話しを進める、という芸能界調のいつものパターンのつもりだったのでしょうがネ。相手が違っていたことには気づかなかった、と)
>その時にバラクーダーの事務所の方(五木さんです)から
>「大瀧さんのプロデュースで、音頭物を集めたベスト盤を出す」
>という話を聞いたのです。
この話はこうです。ビクター側はアルバム・プロデュースのつもりでいた。私は、彼等は飽くまでもステージ芸であって、もしどうしてもレコードにしたいなら“ライブ”をそのまま録音して、面白いものだけピック・アップして出したらどうか、と提案したのです。
そのために、確かに彼等のライブのテープを借りました。(自分で作ったベスト・オブ・バラクーダーがあり、昨日もたまたまテープの整理をしていて聞いていたところです)
>当時のバラクーダーはビクター所属です。
>後の「レジェンダリー・リマスター・シリーズ」を思えば、
>十分ありえる話です。
“図星!”です。“88年”からビクター関連の仕事が多いデショ(^_^)。
>その年の9月となり、私はベートーベン鈴木さんから
>その時、ベスト盤の顛末について聞きました。
>その時のお答えは「ある程度までは進んでいて、
この“ある程度進んで”というのは、私がテープ編集をした、ということですね。
>大瀧さんにライブに足を運んでもらったりもしたのだが、
はてさて。ライブ、行きましたかネー。(;_;)これが全く記憶がない。行ったのかナー???
但し、彼等とは一度も会ったことはありませんよ。マネージャー氏ともないハズです。
つまり。彼等との話は“全て”仲介者が“担当”した、ということです。しかも“話しを膨らますのが得意の”(^_^)芸能界ウン十年の方々。
また「イメージが違う」というような断り方は、私は“絶対に”しませんからね。断る場合でも、必ず“具体的”に話しますから。
てなカンジがバラクーダーとの“事の顛末”ですかネ。ま、バラクーダーさんとしては、どうしても『全国酒飲み音頭』の“夢”が忘れられなかったのでしょうね。(気持ちは分かります)
しかし、この話も、話し方次第では“私が悪者”になっているかもしれませんね。私は、とにかく、“人に会いません”から(年間、新しい人は多くても10人ぐらいなモンです)、結構いろいろなところでウワサになっている“らしい”のです。
また、表に出て行って訂正する、というタイプでもないので、いろいろなことを“押し付ける”には都合のいい人物(存在)のようなんですヨね。
タモリさんにしても、もし“誤解”があるとしたら、原因は大体がそんなモンだろうと思っています。(誤解されるのはコチラとしては本意ではないのですが、まさか「誤解してますか?」と聞いて歩くワケにも行きませんから、そのままにしておく以外テはありません)
ま、テナ感じで。ですからタモリさんに直接このアルバムに関して聞いても“いい顔”はしないと思いますから何かの機会がありましたら慎重になさった方がヨロシイかと。
私としては、時期を見て、誤解を解いた上で、いつかは“ナイアガラ未発表集”のようなものに入れようという腹づもりがないことはないのですが、これもまだまだ“腹案”の状態で、そのままオクラ入りの可能性の方が高いですね、現在は。
この内容はいつか《アミーゴ・ガレージ》に書く事もあると思います。また事実関係の時間軸は少し違っているものがあるかもしれませんのでこれから調べてみます。
以上です。
P.S. V9。清水義範でしたか。私も「小林さんがそんなこと書くかなぁ?」と一瞬思ったのですが、ま、インターネットは“裁判所”ではないので、違っていたら訂正すればいいか、てな感じで載せました。
“訂正”はしますが、結構“ナイーブ”な人が多いので、その“訂正の仕方”は私に任せて下さい。(結構これでも気を遣っているんです(^_^))
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eiichi ohtaki
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