1945年11月、福岡県添田町の国有鉄道田川線(現JR日田彦山線)で起きた「二又(ふたまた)トンネル火薬爆発事故」で、爆発5分前に現場近くの彦山駅に到着予定だった列車の存在が知られている。列車は到着が遅れたため惨事から難を逃れた。「定刻に着いていたら間違いなく巻き込まれていただろう」。乗車していた男性は、半世紀以上胸の内にしまっていたあの日の様子を口にした。 (田川支局・佐伯浩之)
証言したのは添田町落合の農業、野北善高さん(76)。当時13歳で、学校から帰宅するため行橋発彦山行きに乗った。彦山駅の一つ手前の豊前桝田駅には、定刻の午後5時2分に到着。しかし沿線での火事のため、なかなか発車しなかった。
ホームにいた5時20分ごろ、「どすん」という地響きがした。南の空には、煙とがれきが舞い上がっていた。何が起きたかは分からないまま列車はそれから10‐20分後に発車したが、彦山駅の約1キロ手前で再び停車。歩いて彦山駅に行くとホームには死者や助けを求める人があふれ、レールが曲がっていた。その様子を見て大きな事故が起きたことを知った。
彦山駅の到着予定は、事故約5分前の5時15分。爆発のすさまじさから、「列車が定刻に着いていたら、駅で降りた乗客の多くも巻き込まれていた可能性が高い」と野北さんは話す。
「彦山駅の壁には、血のりがべっとりと…。誰かを呼ぶ声や叫び声が渦巻いていた。駅の近くでうずくまっていた派出所員がいたが、翌日亡くなったと聞きました」。自身は事故に遭わなかったが、父は爆発の犠牲になった。そして、「多くの犠牲者のことを考えると、爆発に巻き込まれなかったことを喜ぶ気持ちにはなれない」でいた。複雑な思いからこれまで事故や列車のことを語らなかったが、「風化させてはいけない」と証言を決意したという。
事故を知る町の関係者は「戦争被害の貴重な証言」と語る。直木賞作家で、事故を題材に作品を執筆した北九州市立文学館(同市小倉北区)館長の佐木隆三氏(71)は「当時の乗客が存在し、証言したことは非常に興味深い」と話している。
▼二又(ふたまた)トンネル火薬爆発事故 1945年11月12日午後5時20分ごろ、彦山駅から約500メートル南にあった未開通の「二又トンネル」(約100メートル)で、旧日本軍が貯蔵していた火薬約530トンと信管約180キロを占領軍が燃焼処理していたところ、格納火薬の種類などを検討しなかったことが原因で爆発。近隣住民ら147人が死亡、負傷者149人、倒壊家屋135戸の被害が出た。
住民は48年11月、国を相手に損害賠償を求め東京地裁に提訴。1審は敗訴したが2審の東京高裁は国の責任を認め逆転勝訴。最高裁も国の上告を棄却した。占領軍などが絡む事件事故は判明しているだけでも全国で2000件以上あるが、被害規模は全国一とされる。
=2009/01/14付 西日本新聞夕刊=