桜井淳所長から東大大学院人文社会科学系研究科のH先生への質問等 -神学研究の方法-
テーマ:ブログ東大本郷キャンパス法文二号館のH先生の研究室にて(2009年1月15日、14:30-15:30)。Qは桜井所長の質問項目の要旨、AはH先生の回答内容の要旨です。途中の立ち入った専門的な質問・回答内容は、差し障りがあるため、意識的に削除して編集してありますが、概ねつぎのとおりです。
Qキリスト教(イエス・キリスト・聖書)を研究するにはクリスチャンでなければならないのでしょうか。
A研究者として研究対象にするわけですから必ずしも必要というわけではありません。
Qヘブライ語を知らなければ研究できないのでしょうか。
A研究分野にもよりますから、必ずしも必要とは限りません。
Q聖書研究には歴史実証主義と聖書解釈主義がありますが、世界では、どちらの流れが主流なのでしょうか。
A半々です。
Aイエス(人間)とキリスト(神格化されたイエス)の歴史的記載の境界は明確になっているのでしょうか。
Q分かっていません。
Q古代哲学や古代科学史等の研究でもみな同じで、研究のひとつの方法には、一次資料に遡って解読・解釈するというのがありますが、どのように解読し、意味をどのように解釈するかですが、その一次資料とは、オリジナルな研究を実施するために、研究者が独自に探し出すことから始めるのでしょうか、それとも、世界のどこかの大学や研究機関に、そのような資料が体系化され、保存されていて、それを入手して、解釈するところから始めるのでしょうか。
A後者です。独自に発見するというのはめったにありません。
Q米大ベストスリーのハーヴァード大・イェール大・プリンストン大は、兄弟校であり、みな、建学精神がキリスト教ですが、それらには、大学院神学研究科があり、いまでも世界の研究の中心的役割を果たしておりますが、それらの研究方法を東大と比較した場合、何か相違点があるのでしょうか。
A特に相違点があるとは思えません。同じと受け止めてよいと思います。
Q私は、東海村の日本原子力研究所で、約30年間、物理(炉物理研究と原子炉安全解析)の研究等に携わり、30歳台半ばに、東京理科大学大学院理学研究科で学位審査を受けました。50歳台半ばに、東大大学院工学研究科で、原研時代の仕事の総仕上げとしての学位論文「核燃料サイクル施設の安全評価法の研究」をまとめました。さらに、40歳台初めから本格的に着手した社会科学の研究成果を体系化するため、5年前から、東大大学院総合文化研究科広域科学専攻(前半は広域システム科学系、後半は相関基礎科学系)に在籍し、社会科学の研究で学位論文をまとめてきました。原研時代は、大きく言えば、典型的な機械文明下の単なるひとつの歯車に過ぎなかったわけで(組織人は、職位に関係なく、すべて、ひとつの歯車)、次の社会科学の研究では、科学批判を基本哲学にしていたため、原研時代ほど自身を押し殺した殺伐としたものはありませんでしたが、それでも、なおかつ、満足感や心癒されるものは、何ひとつ見出せませんでしたので、長い間温めていた最後の研究テーマとして、「ローマ帝国の歴史と文化及び国教としてのキリスト教」、特に、キリスト教を中心とした神学の研究をしてみたいと考えるようになり、いま、人間と神の境界の世界に入り込みたいと念願しているところですが・・・・・・。
A珍しいケースになります。そのような哲学は京大の西田幾太郎哲学の流れです。
Qこれから問題を整理して方針を出したいと考えていますが、たとえ他分野で博士学位を取得していても、バックグラウンドや指導教官とのつながりからして、修士課程を超えて、いきなり博士課程の試験を受けることは、できないのでしょうか。
Aケースバイケースになります。
Q具体的に先生にお世話になるにはどのような方法と手続きが必要になるのでしょうか。
A具体的に考えてみましょう。
法文二号館は、正門から見て、右側の二番目の建物で、古い建物であるため、通路は、迷路のようになっており、目的とする研究室が、なかなか見つからず、あせりましたが、通りかかった学生に案内していただき、助かりました。2階と3階の廊下の隅には、高さ30cmくらいの座った姿での石像が飾ってありましたが、早足で通り過ぎたため、歴史上の誰の石造なのかまで確認しませんでしたが、次回に訪れる時には、ぜひ、確認し、もしそれらに東大の宗教学の基本理念が込められているのならば、その意図するところを解読してみたいと考えています。