THAILAND-JAPAN FRIENDSHIP MEMORIAL

英霊の言乃葉1



一億の号泣

 高村 光太郎

綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音ひびき終わりて又音なし
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす。
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。

  (昭和二十年八月十六日午前花巻にて)

昭和四十年八月靖國神社社頭掲示



ビルマの戦線より愛児へ

陸軍上等兵(通訳) 吉田 光栄 命

昭和二十年五月八日
ビルマにて戦死
神戸市生田区出身 三十五歳

 今日ハ大晦日デス。ビルマハ今トテモ美シイ花ガ、トリドリニ咲イテ、実ニ美シイデス。白イ小サイ花ハ路端ニ群ガツテ咲キ、高イ樹ニモ真赤ナノヤ紫ノ花デ飾ツタ様デス。ビルマノ少女ヤ娘サンハ、鈴蘭ノ様ニ小サクテ可愛イイ花ヲ髪ニツケテ、自然ノオ化粧ヲシマス。ソレガトテモ衣物ヤロンヂート調和シテ美シイト思ヒマシタケレド幾度見テモ手ヅカミデ御飯ヲ喰ベルコトハ感心シマセン。オ父サンハ先日ビルマ料理ヲ喰ベマシタガ、流石暑イトコロノ事デ滅法ニ辛ク、カレーヤ種々ノカラシヲ混ゼテ出来テヰマシタガ、ソレガ又非常ニ美味シク、コレハコレハト感心シマシタ。暑イトコロニハ暑イトコロニ合ツタ御馳走ガアリマス。来年ハ章子モ入学で、頑張ラネバナリマセンネ、シツカリヤツテ下サイ。先日敵機ガ近クデ一度ニ五機モ撃墜サレマシタガ、ソノ時アノ大キナ図体ノ四発ノ爆撃機ガ火ヲ吹イテ真スグ地上ヘ落チテ行クノヲ見テ、皆ハ手ヲ叩イテ喜ビ、万歳ヲシマシタ。―
ソレカラ、オ父サンノ腕時計ノガラスガ度々ワレルノデ困ツテヰタトコロ、合成ガラスヲ細工シテハメマシタノデ、今デハオ父サンノ時計ノガラスハ絶対ニワレマセン。又コノ次イロイロ報セマス。  草々

  昭和十九年十二月三十一日

昭和四十六年八月靖國神社社頭掲示



遺言状

陸軍兵長 池田 伝吉 命

昭和十九年十月十二日
ビルマ・サンドウェイ国境にて戦死
香川県大川郡引田町出身 三十一歳

 お国の為にお召にあづかる自分としてこの上もない喜び、男子の本懐となすところなり。自分が出征後親類一同に相談をして子供の安定をはかり、家計の事はきまりよくして、世間の人に対してご迷惑にならぬ様にしなさい。
 私が武運拙く戦死した時には、軍人の妻として心を落付けてなさけないふるまひせない様に頼む。自分は三人の子供の事が気がかりになるので随分によく気をつけてやつてくれ。お前も無理しない様に身体に気をつけて子供と一緒に末永く安楽に暮らしてくれ。
 頼りない遺言であるが、これ以上は書けない。
 では呉々も子供の事を頼む。
 右遺言す。                                         伝吉
 妻 ハスヲへ

昭和四十八年十月靖國神社社頭掲示



最後の願ひ

陸軍伍長 広島 鶴雄 命
昭和十六年十二月八日
マレー・ケランタンサバクにて戦死
熊本県天草郡登立町出身 二十二歳

 拝啓などと書くのも何とやら、相変わらず霜雨にもかかはらず、お元気にてお働きの事と思ひます。―入隊以来、最早一年、何もわからなかった私でしたが、今ではどうやら、一軍人らしくなり、今度いよゝ本当の戦場らしい檜舞台に臨むに当り、もとより生還は期し難き覚悟ではありますが、いざ死すといふ事になれば、やはり皆様の懐が恋しくなつてまゐります。
 想い出しますに、鶴雄が六才の時より、入隊まで本当の父以上に可愛がつて下さいまして、ただ感謝に堪えません。―鶴雄亡き後は母の事をよろしく頼みます。母も年老いて頼るべき者はなく、哀れな者と思います。くれぐれもよろしくお願ひします。―東洋平和の礎となる帝国の人柱、残る心はただ母の事のみです。ただ信じてゐる父上に頼んで安心して死んで行きます。―南国の花と散る鶴雄の最後の便りです。
 さうして来春は楽しく桜花の下、靖國神社でお逢ひしませう。
 では皆様元気で、さやうなら。永久に。

昭和五十一年四月靖國神社社頭掲示



子供の夢を見た

陸軍伍長 島田 重正 命

歩兵第五十六聯隊
昭和十九年五月三十一日
ビルマ・モロコンにて戦死
佐賀県小城町出身 二十八歳

 お手紙有難う。自分の播いた野菜類が、どうやらものになって居るとの事大変嬉しく思ひます。営庭でも、食糧増産、自給自足の意味と思ひますが、野菜があちらこちらに播いてあり、立派に出来てゐます。
 はやいもんで、もう1ヵ月になりますね。先日写真をとつて送りましたが着きましたか。面会には誰も来ません。戦友諸君、皆、面会で楽しさうです。自分は到底来る筈がないと思い乍ら、日曜なぞは、若しや、なぞと思ふ事があります。
 それから先夜夢を見ました。男子が産まれて、雅子に似てゐるのです。その児を自分がお守りしてゐる傍に、正樹が遊んで居ました。偖、此の夢は正夢でせうか。調のお父さん、お母さん、武男さん、文ちゃんに宜敷く。名犬クロにもよろしく。
 やがて點呼、そして消燈。
 「正樹チャンおやすみ」。

昭和五十二年二月靖國神社社頭掲示



吾等は最善をつくしました

海軍大尉 細田 春中 命

海軍第一〇通信隊
ペナン島第四分遣隊長
昭和二十年八月二十三日
ペナン島にて責任自決
東京外国語学校卒
山梨県大泉村出身 二十八歳

 正義の戦と確信し最後の勝利を確信した私の信念も、終に破れました。
 思へば昭和十八年六月十二日、再度南方勤務の命を受け昭南に飛来して着任した当時は、此の信念にいささかも変りなかつたのですが、第十方面艦隊通信部隊長と云ふ学徒出身将校としては異例の抜擢を受け、ペナン市の司令部に着任して敵國の無電を接受する様になつてから、八ヶ月を経るに従ひ戦局に不安を感ずる様になりました。しかし斯くも無慙な、斯くも悲痛な敗戦の幕を閉ぢやうとは信じられない現実です。が、吾等は最善をつくしました。今更、戦争の指導者も、戦争財閥も恨みますまい。要は科学兵器に対して精神力兵器が敗れたのです。井中の蛙大海をしらずを、如実に物語つて居ります。
 元より私は一点の濁りもない崇高な気持ちで昇天の精神を以て、従容死に着くのでありますから、一掬の泪で満足致します。
 ではお父さん、お母さん、永々の御薫陶を万謝致しますと共に天寿を全うせられ、幼き弟妹を立派に御訓育くださいますやう、切に切に御願ひ致します。
 ではこれでお訣れと致します。

昭和五十三年五月靖國神社社頭掲示



部下と共に散らん

陸軍少佐 市川 清義 命

歩兵第二一五聯隊
昭和二十一年七月十五日
ビルマ・ラングーンにて法務死
福島県二本松市北杉田出身 二十七歳

 前略 不肖戦犯者としてラングーンの獄に投ぜられしより早や半年を過ぎ連日枕辺に雨ダレの音を聞く雨期の候と相成候。其の間ラングーン初頭の裁判に絞首刑の宣告を受け、中隊長(部下)三名と今は其の執行を待ちをる次第に御座候。朝に咲き夕に散るは世の慣ひ今南国の獄に死すとも自己の過去を貫く誠の心は、信念に生きた足跡は、自らの心を静かならしめ、亡ぶる肉体のさだめは敗戦の犠牲として唯運命として、武人の諦めの裡に有り、父上母上、兄上、弟よ悲しみ給はざる可く候。多数の部下達の戦死せし戦場に当然散るべき身なりと諦め被下度候。元より我々の行動たる死生を超越し自らを捨て戦争目的達成の為に邁進したる事に有之、何等恥づる所無之候。親子の愛情も交はさず疎き事八年に至り候へ共国家の為一身を捨てたる事、孝の最大なるものと自認致し居り候。亦連日不肖の武運長久を祈り給へる父母の恩に対しては深謝措く能はざる次第に御座候。
 先づは此の世の別れに一筆心境御報らせまで如斯に御座候。
敬具

昭和五十三年七月靖國神社社頭掲示



私捨公就

陸軍中尉 木本 修 命

歩兵第百十四聯隊
昭和十七年二月十一日
シンガポール島ブテキマにて戦死
山口県豊北町出身 二十三歳


 吾、人身を享けてより二十三年。
 君恩、親の恩、師恩、万物の恩を一身に受け、一として返すを知らず。唯、帝國軍人として國民最大の誇りを持ち、微力を尽くし得たるは、無上の光栄、本懐なり。あゝ吾が喜び何に比すべき。然れども報恩の一をも算じ得ざるを強く深く痛む。
 時は刻一刻として移る。人の良心は即ち神にして永劫の時間に没入し人の死は一点も残さず。吾が身窮むるとも吾が心永遠に君國に尽さん。
 大元帥陛下の御為、祖國のために、一身一家を捧げ、私を捨てて公に就かれんことを祈る。隊長殿、部下諸氏、祖父、父母、姉上、恩師、大変お世話になりました。弟妹よ、何の役にも立たず兄たるの資格なきを心から詫びる。何一つ心配なかりし吾生涯を喜ぶと共に、一億國民の一層私心を捨てて共々に生き、國家の弥栄に貢献されんことを祈る。
 以上、吾が生涯の信念と御礼を記す。

昭和五十四年六月靖國神社社頭掲示



遺詠

陸軍伍長 宮本 宣胤 命

昭和十九年九月十九日
ビルマ・モーライクにて戦死
山口県出身 三十七歳

再びも命かしこみ海原を
  越えて射向ふ時は迫りぬ

命としあらば火にも水にもと思へとも
  父の命よ何処に坐さむ

ビルマ高原に咲きし桜を瓶に生け
  病室にありて年を迎へむ

垂乳根の母の命よ小休止の
  路上の夢に出て来給ひし

伸びし髭を剃りつゝ思ふ故里の
  妻は 髭伸びしを好まざりしを

昭和五十五年四月靖國神社社頭掲示



遺書

陸軍少佐 原 徹郎 命

昭和二十二年七月十六日
仏領印度支那(現ベトナム)
サイゴンにて法務死
島根県出身 三十歳

裕子へ
オ前ハ父ヲ知ラヌ不憫ナ子供ダ。父ハ幼イ時ニ親ヲ失ツタカラ親ノナイ子供ガ如何ニ不幸デアルカト言フコトハ此ノ身デ体験シテヰル。ダカラオ前ノ将来ニ就テハ、父ノ体験ヲ生カシ立派ニ養育シヤウト思ツテ居タノダガ、コンナ思ヒ掛ケヌ災厄ニ会ツテ真ニ申訳ナク思ツテ居ル。然シ、オ前ノ母ハ、父ノ最モ敬愛スル人デ、日本女性トシテ恥シカラヌ資質ヲ具ヘテヰル。オ前ハ常ニ母ヲ信ジ、母ヲ輔ケヨ。
「裕」トイウノハ、父ノ性質ニ欠ケテイタ「裕」ヲオ前ニ望ム為ニツケタ名前ダ。オ前ハ日本女性トシテ凡テノ隣人ヲ愛シ、国家社会ノ為ニ聊カデモ寄与シ得ル人トナランコトヲ望ム。

昭和五十五年六月靖國神社社頭掲示



東洋平和に協力

陸軍伍長 大加茂 寅一 命

昭和二十年四月十日
ビルマ国キャクピューにて戦死
兵庫県夢前町出身 二十七歳
 
 その後は久しく御無沙汰致しました。皆様お元気ですか。降而小兵相変らず元気旺盛にて御奉公致し居ります故 乍他事御休心下さい。
 お祭りも済み愈々お忙しい事と存じます。銃後の方々の御苦労を偲ぶ時、只々感謝、そして自己の任務に一層の決意を持つ次第です。八郎も元気で奮闘して居る事と存じます。
 扨土地の風俗習慣等も大体分かつて来て、此の頃では折を見て土民より、ビルマ語の勉強をしたり、日本語を教えたりして居る。子供等内地の子供と大して変はらない、日本の「白地に赤く」「兵隊さん有難う」等大変上手に歌つて居る。澤山の人種が居るが、ビルマ人は内地人と大差なく可愛い感じがする。いづれ我々と足並をそろへて東洋永遠の平和の為に協力する事でせう。
 皆様の御健康祈りつゝ(返事待つ)                            敬具

昭和五十六年十二月靖國神社社頭掲示



遺書

陸軍軍曹 勝間 三六 命

昭和十九年三月二十三日
ビルマ国チンドインタムにて戦死
東京都千代田区出身 二十八歳

 一、理解アル父母ト、後事ヲ託ス妻蝶子ヲ固ク信ジ、何等後顧ノ憂ナクオ召ニ応ジ、陛下ノ股肱トシテ戦地ニ馳セ参ジ得ル今日ノ我ガ幸セヲ喜ブ
 一、御両親様
 年毎ニ春ヲ迎ヘルト共ニ老イ行クハ理ナリ、
 今迄ノ如キ働キハ御無理、寒暑ヲ厭ハレ、長寿ヲ祈ル
 一、蝶子殿
 前世ヨリノ約束事ナリヤ、予期セヌ縁ニ二世ヲ誓ヒテ今日ニ至ル、夫トシテ至ラヌママ、今、後事ヲ託シテ戦ノ庭ニ参ゼントス
 結婚後ノ苦労ニ感謝スルト共ニ、今后ハ呉々モ健康ニ留意シ、我ニ代リテ父母ヘノ孝養ヲ第一ト心掛ケ、万事宜敷ク頼ム
 桜花神前ニ咲キ薫ル靖國ノ庭ニ会ハン哉

昭和五十八年四月靖國神社社頭掲示



戦地からの便り

陸軍大尉 小山 幸一 命

昭和十九年五月二十日
インドにて戦死
京都府出身 二十五歳

 其の後皆様にはお変りありませんか。私もお陰様で元気に御奉公致して居ります故御安心下さい。
 内地は冬の真盛で大変寒い事でせう。こちらは相変はらず大変暑いです。夜の涼しいのが、せめてもの慰めです。昼は真夏ですが、夜は月冴え、虫鳴き、十月頃の気候です。
 其の後兄上から便りはありますか。今頃はどの辺に居りますか。
 今日は節分、内地では豆撒きが盛に行はれて居る事でせう。
 紀元の佳節を目前にして意気益々軒昂です。
  月見れば しゞに偲ばる はるかなる
    父母いかに 兄やいかにと (当地にて)
 尚、皆の写真を送つて下さい。もし不到着だといけませんから、「書留」とか何か、さういう確実な方法を取つて下さい。
 小山 憲一 様

昭和五十九年二月靖國神社社頭掲示



遺書

陸軍伍長 金山 利美 命

昭和二十年七月二十八日
ビルマにて戦死
島根県出身 二十八歳

 父上、母上、病気になつたでは心配を掛け、学校に入つたら入つたで心配を掛け、文学をやるといつては心配を掛け、随分我慢をして長い間御世話になりましたが、いよいよ征途に上ることになりました。
 薄志弱行何もなすことの出来なかつた不肖の子の本懐であらうかと思ひます。これを開封された時は、僕の人生も終わつてゐるのです。
 遺言を書き残すやうにと言はれてゐるのですが、行に臨んでは、最早、言ふ可きこともありません。どうぞ呉々も御身御大切に御暮し下さいますやう。
 弟よ、お前については、お前の二世が一日も早く出来るやうに祈つて一足先きに征途に上る。お前も軍人だ。来る可き日を期して仲良く暮してくれ。
 義妹よ、あなたについては、殆ど親しむ機会もなく征くことになつたが、どうぞ万事のことを宜しくお願ひ致します。
 父上、母上、弟よ、義妹よ、さらば。
  昭和十九年六月十四日
於京城
金山 利美

 追伸 僕には婦人関係はありませんから、戦友の忠告により後顧なきやう此処に認め置きます。

昭和五十九年七月靖國神社社頭掲示



遺言

陸軍中尉 三木 清 命

昭和二十年八月六日
ビルマトングー県にて戦死
兵庫県出身 二十五歳

 謹みて
 父上様 想えば幼少の頃より慈しみ下されまして誠に有難う御座いました。何もいたさない私の如き者に、斯くも親とは申せ御慈しみ下されし事を重ねて深謝致します。
 今、幸にも大東亜の花と歌はれし○○に向ひます。
 唯御両親始め妹に何一つとして盡さなかりし身を悲しむのみです。
 護りの神として遥に九段の神域に神鎮ると思へば、唯皇恩の厚きに涙流るゝものを洵に感慨にたえません。
 幸にして戦死を得ますれば 清よ よく死んでくれたと一言申して戴きますれば 南十字星のもと、私は世界一の幸福者です。
 墓は極く小さな物にて可。決して亡き母上より大きくすべきにあらず。
 唯此上は御父上様には御体を大切に、長寿を全うせられます様御祈り致して居ます。
 母上(注 継母)妹様の御健康を祈りつゝ身も心も清く、笑つて○○に向つて行く事が出来ます。
 昭和十八年二月二十三日

 父上様

昭和五十九年十月靖國神社社頭掲示



妹への便り

陸軍軍曹 大住 太吉 命

昭和十九年十一月八日
ビルマ、ピンレブにて戦病死
奈良県出身 二十五歳

 其の後は暫くでした。お前も元気で祖父、父母に孝養を盡しながら、産業戦士として御精励の事と、兄は遥か南方の一角より推察して居ります。其の後、兄は益々元気にて軍務に精励して居ります故何卒御放心下さい。
 正月も無事に迎へました。裸で正月をした事をお前に知らせても本当に思はないだらうな。内地は吹雪でせう。当地は晴天続きで、晝間は盛夏を思はせる気候です。(中略)
 お前も祖父、父母に、兄に代つて充分に孝養を盡して、立派なる農村女性となつて下さい。兄はお前の健康を祈つてやまない。兄の身に異常があつた場合には、泣かずに喜んで下さい。病には絶対たふれぬ覚悟だ。
 近所の人々や親せきの方々に宜敷く。
 御身大切に。
草々

昭和六十一年二月靖國神社社頭掲示



父母への手紙

陸軍憲兵中尉 塩田 源二 命

昭和二十二年十一月二十二日
ビルマ、ラングーンにて殉難死
栃木県出身 二十四歳

 突然お知らせせねばならない不幸をお許し下さい。先頃もお知らせ致しましたが、不幸戦争犯罪なるものに問はれました。そして先頃裁判があり、その結果、思ひがけず絞首刑の宣告を受けました。私は自分の行った行動に対しては、何等の後悔も持つて居りません。
 私は断じて愧づべき行動をとつて居りません。私は甘んじて、否満足して、この大東亜我々民族の礎石として死んで行きます。
 私として心残りは私の最後をお知りになつて、お悲歎遊ばされるのではないかと思ふことです。何卒はかない運命の私と思ひなされて、あきらめ下さる様お願ひ申上げます。
 私は身はたとへ南の地に果てても私の魂は皆様のお傍近く必ず行きます。そして皆様のお幸福の為にお守りする積りです。
 昭和二十二年十月十日
蘭貢監獄にて
源二拝
父上様
母上様
   遺書をよむ父母の心を思ふとき
   はるかに居ます方ぞをろがむ

昭和六十一年十一月靖國神社社頭掲示



遺言書

陸軍曹長 川北 偉夫 命

昭和十九年十月十八日
ビルマにて戦病死
京都府出身 二十七歳

 御両親様
 生ヲ享ケ茲ニ二十六年、御心配ノミオ掛ケ申シテ先立ツ不孝、何卒御許シ被下度
 然シ乍ラ 恐レ畏クモ
 天皇陛下ノ御為、萬歳ヲ唱ヘツゝ戦死シタソノ状況ハ、平素ノ言行カラ推シテ決シテ女々シイ振舞デナカッタ事ヲ信ジ被下度願上候
 母上ハ特ニ生涯御心配バカリナサレテ、真ノ御健体ト思ハレズ、充分御養生アッテ長生キ被下度御願申上候
 千代子殿
 予テ軍人ノ妻トシテ嫁グ前ヨリ覚悟ナシ居リシコトゝ思フガ、決シテ取乱スコトナク、ソノ武勲ヲ喜ンデ呉レヨ
 ヨク仕ヘテ呉レタ事ヲ心ヨリ感謝シテ居ル
 短イ期間デハアッタガ、誰ヨリモ可愛イ妻トシテ暮シタ事ハ忘レナイ
 飽ク迄川北家ニ踏止ッテ御両親ニ仕ヘテ呉レ
 右 昭和十八年十二月二日
       入隊前日認ム
川北 偉夫

昭和六十一年十二月靖國神社社頭掲示



殉難前夜の遺書

陸軍憲兵曹長 辻 豊治 命

昭和二十一年九月二十日
シンガポール、チャンギーにて殉難死
滋賀県出身 二十八歳

 御両親様
 御許を離れてより早や八星霜を経、嘗て大君への誠忠と御両親様への報恩を誓ひしも何等為す事も無く、今日に至りました。
 思へば残念なれど之亦天命、今チャンギーに果てます。何も思い残す事はありませんが、只重なる不孝の身が恨めしく、御両親様の小子に対する期待を無にしたるを御詫びする外ありません。只道と思ひて為した事、是と信じて為した事を咎められて果つるは、喜んで行くべきと思ひます。
 此の上は唯々武夫の道を立派に守ります。
 楠公の誠忠を偲びつゝ御別れします。
 今宵九月十九日 故郷の月も変りないでせう。
 明日の出発には黙祷を捧げて祖國の将来を祈り「海行かば」を歌って日本男児の本領を発揮します。
 先立つ不忠不孝は御許し下さい。
   昭和二十一年九月十九日夜
豊治

   七生の誠を尽せ大君に雄々しく行かん武夫の道
   故郷の八十路に近き両親は今日の音づれ何と聞くらむ

昭和六十二年九月靖國神社社頭掲示





海軍二等機関兵曹 多田 美好 命

昭和二十一年六月二十八日
シンガポール、チャンギーにて殉難死
岐阜県出身 三十三歳

    遺 言
 母上
 長い間色々御厄介になりました。此の度の件、お國の為に一生懸命働いたのですが、敗戦と云ふ大変動で戦犯人として刑を受ける事になりました。然しお母さんの教えを守り、家の名を辱める事は決して致しませんでした事を嬉しく思つて居ります。
 大らかな気持で喜んで國難に殉じて参ります。唯、生前何等の御孝養を尽すことなく、それ計りが心残りです。
 どうかお母さん、何時迄もお元気で幸福にお過し下さいます様お祈りして居ります。
 判決のあります前夜、お母さんにおぶつて頂いて川を渡つた夢を見ました。私は随分仕合せでした。何もかも唯なつかしく、凡て夢の様です。
   親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ如何にきくらん
 お母さん、私は死んでは居りません。何時も何時もお傍に居ります。

昭和六十三年七月靖國神社社頭掲示



新年の便り

陸軍上等兵 沖 源八郎 命

昭和十九年十一月十八日
マレー第四十六師団野戦病院にて戦病死
福岡県出身 二十五歳

 拝啓
 明けまして御目出度う御座居ます。
 随分永らく御無沙汰致しまして申訳ありません。
 父上、母上をはじめ皆元気ですか。
 文雄はどうして居りますか。
 小生も元気で○國で(以下検閲のため消字)でました。全く平凡な物足らぬ正月でした。
 熊本迄、度々御来駕願ひ、感謝に堪へません。
 インドネシヤの子供が唱ふ愛國行進曲や軍歌の上手なのに驚きました。
 詳しい事が書けぬのが残念です。
 では近所の御方に宜敷、又後日。
 寒気厳しい事と思ひますが、御自愛下さい。
不一
   大君に仕へまつれと我れを生みし
   我がたらちねの尊かりけり
 父上 様
 母上 様

平成元年一月靖國神社社頭掲示



妻への便り

陸軍伍長 野尻 司 命

昭和十九年四月二日
ビルマにて戦病死
愛知県出身 三十歳

 その後変りありませんか。私も相変らず、この田舎町の警備についてゐます。何の変りもなく・・・・・・
 弘美は丈夫ですか、靖彦はどうですか。
 もう歩けるかしら等と、時々夢に見ます。
 内地と異つて、何時弾丸が来るか判らない全くの敵地、元より、命は捧げてはあるものの、何時でも思ふものは優しい妻であり、可愛い子供であります。
 強い日本の女性として、否日本軍人の妻として、石よりも固い決心を持つて何事にも打勝つて下さい。
 そして靖彦も弘美も、立派な人間に育て上げてやつて下さい。
 よくある話にも、その蔭にかくれた涙ある事を知つてゐます。お前ならば必ず誰にも負けない妻であり、母であつてくれると確信してゐます。
 何一つの心配もなく、かうして御奉公出来るのも、一つにお前様のお蔭と、何時も感謝してをります。
 では弱い身体、充分寒さに気をつけて、元気に暮される様、戦地からお祈りします。
草々
 野尻 しの 様

平成元年二月靖國神社社頭掲示



有難うございました

陸軍中尉 室木 能之 命

昭和二十年五月十四日
ビルマ・レバタン東方にて戦死
石川県出身 二十三歳

 母上様
 幼きより私と苦楽を共にせられたる御恩靖國の御社より永遠に御慕ひ申上げます。
 私の一死にて御心身相乱さるる事なく銃後の一婦とし邁進せられん事を御祈り致します。
 最後に幸子を御願ひ申し上ぐる我が儘を御許し下さいませ。
 遥かに御身体の健かならん事を併せて御祈り致します。
 有難うございました。
能之
 母上様
 昭和十九年七月十三日

 幸子様
 兄は大忠孝に死す。
 唯幸子の立派な一皇国女性にならん事のみ靖國の御社より御祈りします。
 御父上様御母上様の御教へ通り最後迄正しく進まん事を祈ります。
 幸子は常に兄が加護しあり苦しい時は兄を思へ。
 「死は苦よりも楽」とは武人たる兄の心なり。
 死を超越し苦を乗り切り皇国の一女性として立派に生きられよ。
能之
 幸子様
 昭和十九年七月十三日

平成二年九月靖國神社社頭掲示



今日アルノ覚悟ハ十分ニ出来テ居リマス

陸軍憲兵准尉 住本 茂 命

昭和二十三年四月二十日
サイゴンにて殉難死
兵庫県出身 三十六歳


   伝 言
 皆様ノ御厚意ニハ感謝ノ辞ガアリマセン。
 私ハ今年二月死刑ノ判決ヲ受ケマシタ。
 爾来既ニ今日アルノ覚悟ハ十分ニ出来テ居リマス。今更何モ驚クコトハアリマセン又申スコトモアリマセン。常々乏シキ中カラ色々ノ差入ヤ御配慮ニ感謝シテ居リマス。幸道司令官以下「キャンプ」ノ方々ニ住本ハ幾重ニモ感謝ノ意ヲ表シテ刑ニ服シタト言フコトヲ御伝ヘ下サイ。
 最後ニ、子供丈ケハ御國ニ役立ツ立派ナ人間ニ育テル様申伝ヘテ下サイ。只ソレ丈御願シマス。

   最後ノ言葉「刑場ニテ」
 大楠公精神ヲ継承シ七度生レ代ッテ誓ッテ皇國ニ報ゼン。
 日出ズル國日ノ本ニ生ヲ享ケタル大丈夫ガ今旭日ヲ浴ビツツ従容トシテ國ニ殉ズ、男子ノ本懐之ニ過グルモノナシ。(國歌奉唱二回)
 皇國ノ彌栄ト皇國ノ隆盛ヲ祈ル。
 天皇陛下万歳(三唱)
 此レデ終リマス。サア、ヤッテ下サイ。
               (「射て」の意)

平成三年六月靖國神社社頭掲示



リッパナ日本人ニナレ

陸軍上等兵 迫 末一 命

昭和十九年四月十五日
印度アッサム州チエザミにて戦死
奈良県出身 三十二歳

正一ハ父ノ顔ヲ知ラナイダラウ。生レテヨリ十一ケ月ダカラネ。母ノ手ニダカレテ、ヨクナイタモノダヨ。父ナキアトハ母ノ言フ事ヲヨクキイテ、リッパナ人ニナレ。
オヂイサンヤ、オバアサンノイフコトハ、ヨクキイテスナホナ子供ニナルコト。カラダヲタイセツニシテ、母ニシンパイヲ、カケナイコト。センゾヲシッカリトマモリ、リッパナ日本人ニナレ。職業ハナンデモヨイカラ、スキナヨウニセヨ。ナンデモジシンヲモッテセナクバイケナイ。ソレカラ土ヤ原ノオヂイサンヤ、オバアサンノ、ハカマヰリニモ度々行クコト。
 親孝行ヲセヨ。
  正 一 殿
     昭和十八年十月四日
父ヨリ

平成四年九月靖國神社社頭掲示




奇麗な絵葉書ありがとう

陸軍伍長 小泉 博美 命

独立自動車百一大隊
昭和十九年三月二十七日
ビルマカレワ県にて戦死
神奈川県出身 二十五歳

先日は大量の絵葉書を皆さんして誠に有難う御座いました。絵葉書の一つ一つがとても巧妙にすてきにそして奇麗に出来て居るのでびっくりしました。兄ちゃん一人ぢゃないんだよ。戦友も班長さんも皆なの。御礼の御葉書を書かうと思ったのですけれど住所が分からないので出すわけにもゆかずちょっと困ってしまひました。そして最後に優秀な敬子ちゃんから級友の皆さんに御礼を云って戴かうということにしました。
戦地でもお正月になれば密柑や南京豆もあるしバナゝやお菓子も沢山あります。然し何処をさがしても皆さんの書いた美しい絵葉書や又は素的なお写真は一つもありません。兄ちゃんは遠いビルマの戦地から皆さんに厚くゝ感謝して居ります。



    ― 謹みて御霊に捧ぐ ―
  御佛の 生れし國なる 印度をば
  救はむ聖戦に 君神になりぬ
高津高等学校 札場眞一(妹の恩師)

平成十七年十二月靖國神社社頭掲示



―続く―



 

 英霊の言乃葉は靖国神社拝殿前の社頭に掲示された、インド・タイ・ビルマ・マレーシア地域に斃れられた英霊の遺書や遺詠を紹介させていただくものです。