九天飛翔
木村秀政物語
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木村秀政先生の
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<空飛ぶ機械との出会い>
- 木村秀政先生は明治37年(1904年)4月13日、札幌市に生まれた。木村家はいまから約400年前に、藩主南部利直の命により木村秀清が五戸を領し、次の秀勝のとき徳川幕府により五戸の代官になった。以来、木村家は五戸町に住み、秀政先生は16代目にあたるが、父の秀実が北海タイムスの記者をしていたため、札幌で産声(うぶごえ)をあげた。
- 満1歳になる前に一家は上京し、東京港区の青山に住む。この青山は、木村先生の大空へのおもいを育(はぐく)み、やがて飛行機への情熱をかきたてることになる。自宅の近くには青山や代々木の練兵場があったのだ。当時は空港などないから、海外からやってくる”空飛ぶ機械”(フライング・マシーン=そう呼ばれていた)は広い練兵場をデモンストレーションの場所に使った。
- 木村先生が初めて”空飛ぶ機械”を見たのは明治44年2月8日である。山田猪三郎が作った山田式飛行船が、デスト飛行をしているうちにエンジンが故障し、青山練兵場に不時着した。街の中に33メートルもある飛行船がやってきたのも初めてだから、たちまちヤジ馬にとり囲まれた。その群衆の中に7歳の木村少年がいた。
- 「強烈な印象だった。いまでもあの時の情景をはっきり思い出せる。機械の調整のためか、長いガーター型の吊(つ)り船の上を行ったりきたりする乗組員の姿は、まことにたのもしく、自分もあんな人になれたらと思った」
- その2カ月後に初めて飛行機に出会うことになった。アメリカ人マーカスのカーチス機が見世物の巡業として目黒の競馬場へ飛んできた。木村少年は祖父につれられ見物に行くのだが、風が強く、飛行機は地上を離れるとすぐ翼端を柵にひっかけて破壊してしまった。わずか数秒の飛行だったが、木村少年は、そのあとが他の人と違っている。彼は家へ帰ると、ただちに、いま見た飛行機の模型を2枚のボール紙とマッチ棒で作ってみせた。「もっとも、私は正面からしか見なかったので、複葉の主翼の構造だけで、尾翼も車輪もついてなかったけど」
- 大正2年3月28日の出来事は木村先生にとって忘れ難いものになった。3機の飛行機と1隻の飛行船がまとまって青山練兵場にやってきた。今日でいえば、新兵器のデモンストレーションである。なかでも木村少年をとりこにしたのは、フランスから輸入したスマートなプレリオ単葉機だった。革の飛行服を着たパイロットが熱心に説明し、やがて、軽やかに離陸し、西の空へ消えていった。木村少年は早速、家でプレリオ機の絵を描き、友だちに見せながら興奮して、しゃべりまくった。
- 「そのうち、号外の鈴の音が聞えてきたんです。なんと、さっき別れたばかりのプレリオ機が、所沢上空で空中分解して墜落。乗っていた木村、徳川両中尉が日本初の空の殉職者になったという。ショッキングでした。8歳の私にとって、どんなに大きな心理的影響を与えたかわからない。たまたま木村中尉が私と同姓であったことも手伝って、私と飛行機を結びつける決定的な役割を果したことはたしかです」
- 大正6年4月、東京府立四中(現都立戸山高校)に入るが、飛行機に対する夢はますます大きくふくらむ。教科書やノートの余白は飛行機のスケッチで埋まり、設計図をひいては模型飛行機を作った。だが、やはり中学時代、記憶にもっとも鮮やかに残るのはイタリアのアンサルド・スパ機の来日だという。大正9年2月26日、ローマを出発した2機のスパは、苦労を重ねながら5月31日、代々木の練兵場に着陸した。第1次大戦が終わったばかりで、現在のような航法援助施設も空港もない。まったくの未開の南方航空路を開拓しながら15,200キロを飛んできたのだ。
- 「スパ機は塗装の色もあせ、くたびれ切ったという様子だった。3カ月もかけ、よくぞ飛んできた」と思った。中学生の胸に焼きついた長距離飛行の壮挙が、「いつかは自分も」という夢となって広がっていったに違いない。
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