日本が戦争に敗ける昭和20年に木村先生は航空研究所員のまま東大教授になった。しかし、空と飛行機に自分の人生のすべてをつぎ根で込んできた木村先生にとって、続く7年間はもっとも苦悩に満ちた歳月となる。
日本を占領したマッカーサー司令部は、日本が民間航空を含むあらゆる航空活動を禁止した。航空に関する研究までも、やってはならないことになったのだ。
航空研究所は廃止となり、木村先生は東大教授も辞職する。日本人のだれもがそうだったのだが、木村先生も持っていたカメラ、交換レンズ、引伸し機、ゴルフ道具などを売り、メリケン粉やイモの食料を手に入れる生活となった。昭和22年9月、招かれて日本大学工学部に就職し、材料力学と振動工学の授業を受け持つようになる。しかし、やはり航空の研究は禁止されたままだ。そのときの心境を木村先生はこう語っている。
「戦後の7年間、ライフワークとして打ちこんできた飛行機の仕事ができなくなり、絶望のどん底に落ちながら、他の分野への転向など見向きもせず、航空再開の日まで耐えることができた。このときほど、私には東北人の血が流れていると感じたことはない。わが郷里の南部藩はコチコチの佐幕派で、明治元年になっても、なお奥州列藩同盟に加わって官軍に抗戦したり、同盟を脱退した津軽藩と野辺地で戦ったりした。目先のきかないことは驚くほどだが、とにかく初志を貫徹してやまぬ粘り強さは大したもので、私にとって大きな魅力である。この魅力のゆえだろう、私は郷里五戸町に強い愛着を持ち、青森県人であることに誇りをもっている」という。
昭和27年に日本の航空が再開され、戦後初の国産旅客機を開発するため昭和32年に輸送機設計研究会が設立された。木村先生はその技術委員長になった。機名は輸送のY、設計のSをとってYS11と名づけられた。
YS11は三菱重工、川崎重工、富士重工、神明和工業、日本飛行機という各メーカーが分担製作し、最終組立を三菱重工が行うというように、日本の航空機工業が結束して生みだすことになる。開発の目標は近距離の中型輸送機で、日本のローカル空港の標準だった1200メートルの滑走路から離着陸できること、双発のターボプロップ・エンジンにすること、運行費をできるだけ低くすること、だった。そのサイズ、つまり乗客数を何人にするかも重要なテーマである。当時、日本や世界のローカル航空路には、ダグラス社の傑作プロペラ双発機DC3が飛んでいたが、その乗客は約30人。木村先生らは今後5年から10年先の需要に適したオペレーションズ・リサーチを行ってみた。その結果「私は当時としては思い切って60人にするべきだと考えた。1200メートルの地方空港で使うには60人は大きすぎる、と反対の声も強かったが、航空旅客の伸びを予想して、あえて60人乗りとした」
昭和34年にYS11の開発は日本航空機製造株式会社に引き継がれ、37年8月30日に、第1号機が初飛行に成功する。YS11は全日空や東亜国内航空に導入され、一時は日本のローカル線はYS11一色になるほどだった。さらに海外へ輸出するため昭和45年にアメリカのFAA(連邦航空局)の型式証明も取得する。
YS11の生産数は182機にのぼり、その内訳は試作機1機、国内の民間航空75機、防衛庁、海上保安庁など30機、輸出は13カ国76機になった。戦後7年間の空白の時代を送った日本が、自分たちの手で旅客機を作り、アメリカ、イギリス、フランスという航空先進国を相手に70数機の輸出に成功したのは、YS11の適切なサイズ、安全性、経済性が世界から認められたからである。今後、旅客機の開発は国際共同開発が主力となるから、日本独自で生産した国産旅客機はYS11が最後になるだろう。
木村先生は日本大学の航空学科教授から理工学部教授、さらに副総長の要職につくが、つねに若い学生と飛行について論じ、学生とともに飛行機をつくることを忘れなかった。1952年(昭和27年)のN52、1958年のN58、1962年のN62軽飛行機、またN70モーターグライダーがある。また、学生の卒業研究として毎年、人力飛行機作りを学生とともに楽しんでいた。
どれひとつとっても象牙の塔にこもっている大学教授ではできない木村先生の業績である。飛行機への一貫した情熱と、幅広い知識、教養をあわせ持った木村先生のような人材は他に見あたらない。
その木村先生を大空への夢にかきたてたのは、身近に接した、あの山口式飛行船であり、カーチス機であり、ファルマン機であった。−−木村先生が開発にたずさわり、「搭乗するたびに、自分の子供のような愛着がわく」というYS11機を五戸町に永久保存することに、木村先生が両手をあげて賛成されるのが目に浮ぶようだ。