木村秀政先生の飛行機人生 鍛治壮一


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<航研機で世界記録樹立>

 飛行機について、マニア的な興味から専門的なものに変わっていったのは第一高等学校時代である。輸入ものだった初期の飛行機にも、少しづつ国産機が作られるようになった。その道の先駆者である伊藤音次郎や白戸栄之助の飛行機工場は千葉県の東京湾にそった津田沼や寒川にあった。潮が引いたときの広い砂浜を離着陸場に使うためだった。コツコツと1機づつ手作りする様子を一高生の木村先生は見学に通った。見るだけではなく、設計したり組立てている若い先輩に色々と質問をしてみた。みんな親切に飛行機の仕組みについて話を聞かせてくれる。木村先生の、飛行機の持つ本当の面白さは、ますます深くなり、「私は飛行機に一生を捧げよう。航空の専門家としてやっていこう」と決心したのである。

 大正13年4月、木村先生は一高から東京大学工学部の航空学科に入学し、さらに大学院に進んだ。父親がなくなった後、家計が苦しく、「母がときどき質屋通いをするほどだった」が、メーカーへ就職せず、昭和4年、東大航空研究所に入った。

 所員といってもはじめのうちは定まった給料もなく、地位も不安定だったが、昭和9年10月、木村先生は正式に航空研究所嘱託の辞令をもらい、やっと月給を支給されるようになった。というのも、航空研究所が長距離飛行記録を目指す航研機試作に全力をあげることになったからだ。この試作機は何型とか何号機という名前を持たないのも珍しい機体で、初めは試作機とか長距離機と呼んでいたが、新聞社が記事にするたびに航研機と書き、いつのまにか、航研機のニックネームがついてしまった。

 航研機の設計がスタートしたのは昭和8年で、おりしもフランス、イタリア、イギリスなどが長距離飛行の世界記録に挑戦していた。それまでの6年間に、直線飛行と周回飛行を合せて12もの長距離世界記録が作られ、次々と破られるフィーバーぶりである。

 木村先生は航研機の胴体、尾翼、操縦装置、着陸装置の設計担当を命じられた。

 それまでの長距離機は単発エンジンで細長い胴体と縦横比が大きい主翼の機体だった。重量の半分ぐらいは燃料で、長い滑走の末、やっと離陸することができた。また、すべて固定脚で車輪は引っ込まない。木村先生は「空気抵抗を減らし、航続距離を少しでも伸ばすため引込み脚の設計を命ぜられた。引込脚は日本で最初なので重要な仕事だった。航研機の重さは9トンしかないのに、車輪は直径1.2メートル、幅40センチという大きなもの。主翼は桁(けた)が通っているので、車輪はまず後方に移動し、それから内側に引上げるという2段モーションが必要だった。しかも計画した油圧作動がうまくいかず、手動式に改めた」という。

 昭和10年に、航研機の機体製作は東京瓦斯(ガス)電気工業株式会社ときまった。しかし、経験の浅いスタッフで世界記録に挑むということに対して、批判が集中した。「実地の経験のない学者に何ができるか」とか「学者は象牙の塔にこもっていればいい。学者の堕落だ」という軍部や大学の一部からの避難である。「たしかに私たちは実地の経験に乏しかったかもしれない。しかし、経験にしばられないため、大胆で思い切った設計ができたともいえる。当時の日本の技術レベルで世界記録に挑戦するなど、かなり大それたことだった。それを敢えてやったのは、無経験からくる大胆さ、自由さであったかもしれない」と木村先生は回想する。

 昭和12年4月、航研機が完成すると、木村先生は整備の責任者を命じられた。飛行機とくに1機しか作られない試作機では、実際に飛ぶとき、設計どおりに動かず、トラブルが発生するケースが多い。このため若い木村先生は、整備の担当者として、航研機がスムーズに飛行できるよう苦心することになった。

 木村先生にとって、学問的に飛行機について実証できたし、「後年、落着いて勉強するときのよい下地になった」という。

 学生時代には一滴のお酒も飲まなかった木村先生が、水準以上の酒飲みになったのは、このときである。「大勢の工員と心を一つにして、一緒に仕事をしてゆくのに、学者然とおさまっていては、彼らが近づいてきてくれない。とくに航研機は、われわれのように実地経験の少ないものの設計だけに、深い経験を必要とする装備関係によく故障が起こった。明日飛ぼうというときラジエータから水がもれたりする。さあ徹夜だというとき、私の部下だった工員たちは、ほんとうに気持ちよく引き受けてくれた。一緒に酒を飲んで騒いだことが大いに役だっていると私は信じている」。−−木村先生は夢中になって航研機と取り組み、喜びも悲しみも共にした。たしかに、一般の人の考えている学者らしくないかもしれない。しかし、この間、仕事を通じて人間的にも成長したことが自分でもよくわかるという。後年、木村先生について、アカデミックでない、と批判する人々もいたが、それは視野の狭い意見である。飛行機についての学問的研究、設計だけでなく、先生をしたってる人々と広く接し、文章を数多く書き、旅を愛した人柄は、このときから培かわれている。

 航研機は5月25日に初飛行し、2度、引込脚と自動操縦装置の故障で失敗したあと、昭和13年5月13日、新記録を目指して千葉県木更津の海軍飛行場で離陸した。木更津、銚子、太田、平塚の四角コースで1周400キロだ。これまでの世界記録はフランスのブレリオ101型の作った10,601キロである。3日目の午後、29周を終えたところで航研機は再び木更津に着陸した。11,651キロ、62時間23分、見事に世界新記録を樹立したのである。日本の飛行機が公認の世界記録を作ったのはこれが唯一のものとなった。



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