今の派遣切りのニュースなど見ているとあれこれ考えてしまいます。まず思うのは,非正規雇用者が解雇されるのは当然のことなのじゃないのか?という。ある意味とかげのしっぽとして募集され,それに応募して雇用された段階で,そうなる覚悟はなかったのだろうか,と不思議に思ってしまうわけです。それがイヤだから,みんながんばって正社員になろうとするわけで,そこのがんばりをやらずに非正規雇用に甘んじていたのなら,今まさにそのつけを払うときが来た,それだけのことなんじゃないのかなあ。 と,あっさり斬り捨てられるほどの簡単なことじゃないのも分かります。経緯はどうあれ,それだけの量の人たちが一度に無職になったり家を失ったりしたら,そのことによる経済状況の悪化とか治安の悪化,税収の不足など困ることはたくさんあるでしょうから。しかしこれらの話って,好き放題やった金融機関が「救済しないと世界が大変だよー」とお金せびってるのと構造的には変わらないような気もします。 もし私がその状況だったら。自分の力量不足や運のなさで正社員にはなれず,とりあえず食うために派遣でもなんでもやるしかない,という状況だったら,とりあえず貯金。いつ首にされても,少なくとも向こう1年間は困らないだけのお金はまず確保しようとすると思います。その上で,気力があれば転職活動。気力がなければ首になってから就職活動,かな。パチンコだのくだらない娯楽は一切やらないでしょう。そんなものに興じる余裕は一切なしというか,将来が怖くてそんなことにお金を使えない。すでにがけっぷちの危機感です。当然結婚しないし子供も要らない。 こんなことをひとしきり考えてから,でもなぁ,とも思うのです。じゃあ今厳しい局面にいる非正規雇用とかの人たちは,単純に「自業自得」のみでその状況にあるのか?というと,そこまで世の中単純ではない,とも思いますから。もちろん,子供のころから遊んでただけだった結果,その仕事以外できるものが何もなかったという人もいるでしょうが,ただその仕事が本当に好きな人とか,想像もつかない事情のある人とか,努力してもどうしても報われずその立場にしかいられなかった人など。じゃあどこまでが自業自得でどこからが気の毒なのかなんて分からないわけですが,ばっさりはちょっと。 さらに,他人事のように行っている自分の立場はどうなんだ,とも思うじゃないですか。今でこそサラリーマンをやれている私ですが,自分は世間一般でやっていける人間なのかと問うと,はなはだ疑問が。だいたい,今の職場にいる私は運がよかっただけで,何が評価されたのか自分でも分からないくらいなのです。ただ,「危機感」について考えたときに,私は自分の小心さが自分を助けたのかもなあ,とは思います。 すでに長く書いちゃってますが,ここまでが前フリです。 私とはなんなのだろう,と,このごろ思うようになりました。それは,「生き物とは,DNAを受け継ぐための器に過ぎない」といった視点からの”なんなのだろう?”なのですが。先の人たちのことと自分を考えたときに,自分は恵まれているのだ,と思います。 私の家は,今思い返すと「お金はあるのに使わない」一家でした。ケチとも言う。そんな中に嫁いだ母親は大変だったようですが,母親も無駄遣いは好まない人でした。そういう中で私は,お小遣いは少なかったけれど,いざというときにお金がない,という経験は一切しないで育ちました。本を買うためのお金,塾に行くためのお金,アルバイトをしなくても,奨学金を取らなくても大学を卒業できるまでのお金。就職し自活し結婚し家も買った私ですが,どうも母親はまだ子供に渡す遺産のことを考えているらしい。 そうした単純な経済的な話だけでなく,そういう親を見て育ってきた自分の人格形成も,財産なのだなと思えています。今の私は仕事の都合で,子供の学費が払えなくて困っている人の陳情を聞く立場にあるのですが,その人たちのアレさを見るにつけ,自分が当たり前だと思っていたこれまでのことが,なんて守られたものだったのだろう,と思わされました。ドラマの中でしか聞かなかった「来月までには必ず払う」という言い訳。こちらから言われなければ平気でお金を払わない人たち。言われても無視,内容証明で警告が届いてから「うっかりしてた」と平気で言う。これらをループしながらなんとか乗り切ろうとするけれど,そんなわけないのに。 そして,そうした親と子供が結構な確率で似ていることにも気づかされました。こういうのは偏見だといわれればそうなのかもしれませんが,実際そうだもの。そうした親の場合,子供も連絡が取れなかったり,呼び出しても応じなかったり。書類を持ってくるように言っても期日は守らず,やっと来たと思ったらそこで白紙を出すとか,「やってこなかった」のを「やれませんでした」と他人のせいにしたり。 そういう親子を見ていて,そういえば自分については結局いやらしい意味ではなく「お金は大事」ということを親から学んできたのだな,と思います。また,親からお金をはじめとする多くのものを引き継いでいることも。それらは親の親から延々と引き継がれてきた財産で,DNAが勝手に引き継がれるものとすれば,これらは親の努力によって引き継がれてきたものなんだなあ。 そうした流れを,今の私は断ち切ろうとしている。子供いらない,と自分の考えを言ってはいますが,私はそうした親の親からずっと引き継がれてきたものや財産を,本当にすべて自分のために使い切ってそこで終わりにしてしまうのだろうか。子供をつくるのには勇気がいりますが,受け継がれてきたものをばっさり終わらせるのも勇気がいることなのではないだろうか。血筋,なんていうものではなく,もっと重要な「我が家の叡智」みたいなものというか。いや,どれも当たり前のはずのことなんですけどね。 だらしない子を見たとき,それも親から受け継いだものなのかもな,と思うようになりました。なんでも親のせいというのも違うかもしれませんが,親の影響が大きいことなのも確かでしょう。今のマンションでも,時間外に親子でゴミ出しに来ているような人たちがいますが,きっとあの子もそのようになるのだろう,などと思います。よく経済的な方面について,スタートラインの違い(親が裕福だと子供もみたいな)が言われますが,こういう点も同じだと思う。違うとしたら,私は親のおかげでいいスタートを切れたにもかかわらず,コースをはずれてきている(それは子孫を残すことがゴールだとしての話ですが)ところがあって,そのことを親に申し訳なく思ったり,じゃあこれからでも子供を作るべきかと思ったり,そういうことのために子供を産むっておかしくないか,子供自身が望まれているかどうかを二の次にって間違ってるよと思ったり。 あ,話はそれますが,私の両親は努力を惜しまない人たちでした。特に母親のそれは今もすごい。世の中にいる「自分を高めるために努力をすることが苦ではない人」は,やはりそれは親からもいくらか受け継いでいるのではないかと思いますが,世の中でそれが一番貴重な財産なのじゃないか,と思う。私は引き継がなくてはならなかった,母親の持っていたそれを,「困らないようには努力する」というものに劣化コピーしてしまいました。おかげで今困ってはいないけれど,将来困るかもなあ,と思っていても特段努力をしていません。まあ,努力ややる気を親からの財産だとしている逃げ口上なんだろうか,これ。 話を戻しますが,追い出されかけている従業員の話を見るにつけ,そんなこんなで私は親に恵まれていたのだろう,と思うようになりました。彼らの親や育ちをバカにしているわけではないけれど,少なくとも自分が年内に家を追い出されるような生活に甘んじることなく日々を過ごせているのは,そのために自分が行ったささやかな努力も含めて,すべて親から引き継いだもののおかげ。ただ器が小さくてすでにいろいろこぼしてしまってるけど。そして,そういう過大なものを受け取ったことを,ちょっと重たく感じたりしています。今年は帰省するのですが,母親にはできるだけちゃんとしなければ。 まあ,親には感謝しているなんていうのは口だけなら何とでも言えるの代表みたいなもんなんですけどね…。 |
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ketketさんは消極的にですと仰るかも知れませんが、きちんとしてるひとだなあと思いました。そしてあまりひとに期待しないところ、それは一種の優しさなので、見習いたいと思います。 |
y 2008/12/25 15:10 |
見習うと大変なことになりますよ……それはともかく,私はきちんとなんてしちゃいないのです。が,世の中総体で見ると私よりびっくりするほどきちんとしてない人も(もっとしてる人もですが)たくさんいて,そのための努力を自分がしてないということは,これはもう親が育ててくれたおかげだなあっていう。 |
ketket 2008/12/25 18:35 |
いや別にバカにしているようには読めませんでしたよ。 |
y 2008/12/25 19:35 |
それならよかったです。いやびびりなものですから。 |
ketket 2008/12/26 15:23 |
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