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●Webオリジナルコラム
リブロ・松下康子の人文復興
上原草の地方出版本は蜜の味。

吉永世子 アメリカ 文化 情報

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連載★第4回=アウシュヴィッツ収容所解放60周年
「遠くて近いアウシュヴィッツへの道(1)」

マディソンは雪景色です。昨晩降り積もった雪を踏んで、近くの保存森林を探索。兎と野生の七面鳥の足跡から目を離すと、10メートル先で若い牡鹿がこちらを見つめています。一瞬のうちに優美な動線を残して、雪の原に消えました。


1945年1月27日、ドイツ軍が去ったアウシュヴィッツに、初めて4人のソ連兵が足を踏み入れた日も、雪が残っていました。汚れた雪を掻いて、墓を掘っていたプリーモ・レーヴィの頭上に、宙吊り人形のように現れた4つの影。黙って見下ろす若い兵士の顔には、レーヴィたちがよく、ドイツ人の犯した非道な行為を見たり、経験したりするたびに落ち込んだ、あの「恥辱感」が浮かんでいました。


今年は、アウシュヴィッツ収容所解放60周年に当たります。ランズマンの「ショアー」を見て、資料を調べながら、ふと見上げた本棚にプリーモ・レーヴィの本。客間には祝祭のための蜀台、昔のユダヤ人の写真、ヘブライ語の壁掛け。たまたまP教授夫婦がイスラエルで研究している間、その家を借りることになり、ユダヤ人の知り合いも増えました。60周年をきっかけに、アメリカにいる私の現在から、「アウシュヴィッツ」に近づこうと思います。


昨年グリネル大学にいた頃、同僚のKが安息日の晩餐に招いてくれました。リトアニア人のKの家族は、ユダヤ人狩が始まる直前に森に逃げ込み、冷たい落ち葉や枯れ木の下で息を潜めて、何ヶ月も逃げ回ったそうです。捕まった子供は、ゲットー(ユダヤ人居住地区)に送られて飢え死にするか、家畜用列車の中で疲労死するか、絶滅収容所に着いてすぐガス室に送られるか、医学実験に使われたから、自分が生き延びたのは父親のおかげ、と語る70近いK。


その頃私は、パレスティナに対する、イスラエルの暴力が許せなかったので、Kの話も上の空でした。それにKの故郷のリトアニアは、領事だった杉原千畝が、日本政府の命令に背いて、数千のユダヤ人に旅券を発行し、国外に脱出させたところです。日本政府は、国内と占領地域のユダヤ人に関しては寛容で、ヒットラーの再三の要請にも拘らず、松岡洋右と近衛文麿は、最後までユダヤ人を隔離することを拒みました。日本の一般市民も、ユダヤ難民を暖かく保護した話などが記録されています。


ただし、日本政府がユダヤ人を隔離しなかったのは、残念ながら人道的見地からではありません。1938年に、近衛文麿が理由として上げた、「我が国が長年尊重して来た人種平等の精神」が、方便に過ぎないことは歴史を見れば明らかです。むしろ、戦時にユダヤ人の資本が必要だったことと、多くのユダヤ人を抱える米国を刺激したくなかった、という理由の方が本音でしょう。実際、日本に歓迎されたユダヤ人が、主に資本家や技術専門家であったのを見れば、政府が実質的な利益を当てにしていたことは否めません。


迫害に直接関わらなくとも、日本を見るユダヤ人の目は今も厳しいのです。ユダヤ人学生は、広島の平和記念公園に、ホロコースト慰霊碑があることに驚いて、「ヒロシマ」の横に「アウシュヴィッツ」を並べて、同列に扱うのはおかしいと言いました。「むしろ『南京虐殺』を並べて、原因と結果の因果関係を展示すべきではないか」と。また、ホロコースト生存者の映画を撮ったユダヤ人女性は、「原爆は日本への罰」と言いました。つまり、原爆の被害を受けた日本でも、ユダヤ人から見れば、加害者でしかないということです。


2003年に出た、「マニラへの脱出:暴虐のナチから恐怖の日本へ」という本の中で、日本占領下の上海港に着いた、1万7千のドイツ系ユダヤ難民の運命が語られています。フィリピン系アメリカ人の努力によって、1937年から毎年千人の枠でマニラ市に迎えられ、何割かは太平洋戦争以前に運良く、アメリカやカナダに渡ったのですが、マニラ市に残留した1万人のうち、一割近くが亡くなりました。ある者は日本軍が撤退時に放った火に巻き込まれ、ある者は日本軍に銃撃されたのです。


ユダヤ人は日本軍を怖れていました。レーヴィは、アウシュヴィッツに送られたイタリア系ユダヤ人650人の中で、生還した3人の一人ですが、ドイツ降伏後、故国のイタリアに帰る途中、他のユダヤ人と共に、10ヶ月もソ連軍にあちこち移動させられました。日本が降伏するその日まで、「いつか前線に送られて、塹壕を掘らされる」と怯えていたと言います。


マディソンは後から後から雪が降り積もります。25歳でナチの非道を経験したレーヴィは68歳で命を絶ち、彼に「恥辱感」を教えたドイツ人も、収容所を見たソ連兵も、多くはもうこの世にいません。新しい雪を掻き分けて、灰色の雪を掘り起こすように、60年前の非道に向き合うと、レーヴィを苛んだ、あの「恥辱感」が蘇ります。頭上で喧しくカラスが鳴きたてました。

(つづく)
                               
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