2006-11-29 最近購入した本

本を読む余裕がとりづらい昨今ですが、「論理トレーニング」の新版が出ていました。
手ごろな厚みで、海外発のロジカルライティングの本とは趣が異なり、日本語で論理的な文章を書くのに良さそうです。
ほとんど書き直してバージョンアップしているとのことで、私は旧版をきちんと読んでいませんでしたが、
本屋でちょっと読んでみて良さそうなので思い切って購入してみました。
2006-11-26 さて、マンガ研究のゆくえは

もういいかげん世代交代をしなければならない時期のような気がする。私くらいまでの戦後世代は右肩上がりの経済成長の恩恵を強く受けてきており、サブカルチャーの影響は下の世代にも大きな影響を及ぼしている。しかし、戦前にも豊かな大衆文化はあったのだし、自分たちの担ってきた社会や文化とはどのようなものであったのかをより客観的に見直すべき時期が来ているのだろう。しかしながら、往々にして人は自分の覚えたことこそ最も本当に知ってはいないのかもしれない。
竹内一郎氏の本について宮本大人氏がその問題点を指摘して、少なくともはてなでは多くの反応があったのを見た。毎日新聞の「マンガの居場所」で知っている人がいると思うが、緻密に論証を積み重ねていく正統的な学者であり、その誠実さは「マンガの居場所」の本からもうかがえるし、夏目房之介氏も絶大な信頼を置いている人だ。多少マンガを研究したいと思った人であれば夏目以後の研究成果として宮本氏の研究にたどり着くことはさほど難しくないと思うのだけど、それが見えないくらいにマンガが大きくなったというだけではないだろう。若手の気鋭の批評家がいてもその存在がよく見えないとすれば、私たちの世代までがそれを見えなくさせているかもしれないと思う。宮本氏に限らずマンガの研究に取り組んでいる学者は増えており、そのレベルは高くなっている。おそらくネットワークの発達によって90年代にどのような分野でも発展があったが、それがあまり知られていないということではないかと思うのだけど。ネットワーキングによる知の交流として、ブログやソーシャルネットは強力な道具になっていくだろうと思う。
マンガに限らずサブカルチャーと呼ばれてきたものがかつてそれに対してメインカルチャーと呼ばれてきたものから差別されてきたことには長い歴史があり、いまでも見かけ上ではなくなったようにみえるのはメインカルチャーと呼ばれたものが見失われたに過ぎないように感じられる。
また日本のマンガを海外に輸出して行く場合に、マンガに限らず文化的な産物を異なる文化を持つ社会に輸出するには単に商品の問題ではすまない課題がある。自分の国の文化を海外に紹介するならば説明する義務と責任を負わざるを得ないだろう。
私は80年代のマンガの変化について関心を持ってきたが、それを知るためには時代をさかのぼって調べなければと思いながらも、いろいろと脱線をして今までほとんど成果を挙げられずに来てしまったが、少なくとも証人の一人として何かを残すことはできるのではないかとは思う。カビたり傷んでいそうな本もあり、2000年以降の雑誌はまともに読めていないので、90年代の途中からのあたりはこれからの人に期待して守備範囲外になりそうだ。人生も後半でそれほど時間があるわけでもないのでここの更新はしばらく休んでやり残しに専念するようにしたいが、うまくいくだろうか。
2006-11-23 恐怖は一瞬だが苦痛はもう少し長く続く

いじめ問題が止まらずちょっとしゃれにならない感じだ。昨年の自己責任騒ぎとかでテレビも見ていなかったのでなんだか取り巻く状況にうんざりしていたが、いじめを苦にして自殺してしまうのは馬鹿馬鹿しいことだ。
もしかするといじめる側のほうが一人ではなにもできずに集団で同調してしか行動できないほどかよわいのではないかと思えてきたからだ。今ごろになってやっと少し認識が変わったのである。
長く生きていると物事には多義性、どんなに単純にみえても両義性があることが最近体験的に感じるようになった。
苦しみは避けられるに越したことはないが、早いうちに苦しむ体験が人生を豊かにする可能性がきっとある。
「勝ち組」の苦労知らずな人生も、老いて死を前にすれば自力では何もできずにひどい苦痛になる危うさを抱えているだろう。
いまいじめられていて苦しくて本当にどうにもならなければ、まず逃げてそして身近な人に助けを求めるように。
大人が助けることができなければ、もうそれは大人とは言わないだろう。
2006-11-19 千年の悩み百年の悩み

2006-11-11 サントリー学芸賞の問題に絡んで

竹内一郎氏の本についてマンガ批評での議論が巻き起こっていますが、議論に応答する余裕があまりないために具体的にどことは記しませんけれども(ここでそもそもダメダメなのですが)、かつてこの本に批判的なことを書いたものとして、私自身の問題点を書いておかなければならないと思います。
まず長編マンガできちんと読み終えたものがとても少ないということ。これは世評によって優れた作品かどうかを判断しているということで、きちんと読んでみると予想していなかった展開になっていて驚くことがあります。マンガ読みには最初の数ページ読んだだけで全体がわかってしまうというような話がよく言われましたが、マンガそのものに大きな変化がある時に落とし穴になるあやうさを抱えています。また、マンガの点数が膨大なため、ガイドブックの類いも多いですがそれでわかった気になるのもあやういです。
私は特殊マンガ読みと名乗ってきましたが、いまやマンガの豊饒さを前にして特殊と名乗ることは時代遅れになっていることを認めます。また自分が批判しているものが自分の似姿であるというありがちなワナにまんまとはまってしまったというわけです。それに全く無自覚ということでもないので厄介なわけですが。
私は竹内氏の本を読んでいないので現時点でこの本にきちんとした批判をすることができません。私がマンガ研究の重要性を訴えているがゆえにろくに読まずに批判することの浅はかさは強調しておかねばならないでしょう。ただこう言うと自由にマンガを語ってはいけないのかということになってしまいこれも表現の自由に果敢に分け入ったマンガ表現を否定しかねません。表現の自由には自己責任を伴い、自由に批判されますが、批判というものは批判される者を決して否定するものではないというのが現時点での私なりの認識です。そして自己否定というのも実質的な意味のないコトバだと思われるのです。
tta,
2006/11/11 19:14
鋭い。
2006-11-05 連休もおしまい

ここのブログの体裁を変えるか少し迷ったがあまり時間がない。休みが終わるのでちょっと記載。
以前ここで自分のことを全方位半可通と書いたと思ったのだけど、見つからなかった。
思いつきで書いているところと調べて書いたところがごっちゃになっているので、もちろん自分の書いていることがなんでも正しいなどとは思っていないのだけど、書かれたものはなんでも正しいと思い込んでしまう人が昨今はもしかすると多いかもしれないので(私自身にもそのような面はある)とりあえず控えておかないと思った(私はどちらかと言えばものを知らないほうだ)。
それどころか、自分と考え方が全く違う人からも学ぶことができるはずである。むしろ、なんでこんなことを言うのだろうと考えることは役に立つだろう。
経済について私はきちんと理解しているわけではないから、そこについては当たり障りのない感想を書いているつもりだけれども、もう少しきちんと学ばなくてはいけないなと思っている。
考え方の合わない私と父との間でも最近はそれなりにいろいろと話ができるようになった。父の中では高度成長期のインフレが頭にすり込まれているから、インフレとデフレのどちらがいいと単純に言えないことが理屈でわかっていても、家計は母任せなので昔の常識を真理のごとく言う。自分も自分で関心が持てないことについてはなかなか頭にはいらない。ただ高度成長期のインフレがいまの状況から見たらちょっと驚くようなものであったのはおぼろげに覚えている。
あとは自分で専門家のいろいろな意見を見て考えるしかない。ちなみに、私はマンガに関してそこそこ詳しいとは思うけれど、自分は匿名である以上は専門家ではないのである。アジテータ的に特に根拠もなく思いつきで言っていることも多い。
ただ、専門家としては言うのをはばかられるようなことが2ちゃんねるやその他に匿名で書かれることはあるだろう。また素人の言うことに一抹の真理が含まれていることも時にはあるだろう。
これもまた思いつきだがはてなと言うのはシリコンバレーをネット上にモデル化したものだと思った。ただその分、コンピュータを使いこなせるものの力が強くなるというのはネックだ。工学部出身の自分が人文を勧めるのはそこにある。
Wikipediaに書かれていることも役には立つが十分ではないところもある。プラグマティズムの項を見たが、クワインの名前が載っていなかった。英語版のWikipediaでPragmatismを調べると書きかけ状態みたいだがQuineの名前はちゃんと載っている。クワインの項目はあるがプラグマティズムの中でどのような位置を占めたのかは明確でない。プラグマティズムそのものが人によって思想がかなり異なりけっこう難解だからだろう。経済学にもそんな印象があるのでとっつきにくいが、自分が関心を抱いてきた哲学もまた然りである。人間自身に関することはそうそう簡単に割り切れるものではないということであろう。
2006-11-03 1985年のいじめ問題の記憶
ちょっとうつがこじれて実家で休養をとっていた。考えが堂々巡りするというのか脳みその燃料がなくなるという感じといえばいいんだろうか。連休が長いとそれはそれでくたびれることがあるので少し計画を立てながら気分転換できるといいのだけど。せっかくの連休だが子どもの頃から特別な目的がない限り旅行に行ったことがない。近場に人のあまりこない温泉とかあればいいのに。でもぼーっとテレビを見ていたら、やや音がうるさいもののテレビのエンターテインメントもけっこう面白いものだと思った。
かつて父と母のけんかから逃れるために家を借りたがひとりの生活はあまりきちんと行かなかった。父はうつではなくて怠け病だ、と言ったが、自分も最初うつという実感がわかなかったのでいろいろ本を調べたりした。ちょっと昔には父と母の気質の悪い部分を受け継いでいると思いこんでしまうことがあった。母は基本的に温和なのだがおしゃべりで父に対してはことばが攻撃的になってしまうし、父は本来人に気を遣うタイプと思うが屈辱を根に持っていて、自分から見たらバカみたいなことを山のように覚えている。温和で人に気を遣いおしゃべりでなく屈辱を根に持たない、というのは考えてみれば聖人君子であり子どもの頃はなぜか神童になっていたが、これはやはり無理な話で、日本は恥の文化と言うが、屈辱を根に持つのだけはやめようと思っているがのちにいろいろな本で読んだところのルサンチマンを拭うところまではいかないらしい。しかも恥知らずにみえる、というかまああれですね。
子どもの頃の私は父をものすごく尊敬していた(小学生くらいの頃はよくキャッチボールをした記憶がある)ので中学の頃に反動がきた。屈辱を持つと人は頑迷になるのだろうが子どもらしく反発があった。家族、というよりも家庭ってなんだろうと思うようになっていろいろ考えるようになったり少しこづかいが増えて音楽や本にはまったりし始めた頃である。
1985年くらいにいじめが社会問題になったと思い出したのでWikipediaを見てみたら、やはり「1985年」の世相のところに記載があった。驚いたのはこの年にプラザ合意があってここからバブルに向かったり、阪神が優勝したり新人類が話題になったり、とある。こんな騒然とした年だったのか、と思うが自分は学生としてはぼんやりしていたためにいじめ報道の過熱にばかり目が行っていたんだな、と思った。20年以上も前なのになんだかあまり変わっていないみたいな気がするのは自分の世代ゆえなのか。
買ったままきちんと読んでいないが、この本に対する批評は自分にもあてはまるのかもしれない。きびしい。やはり難題なのだな。
「私」のやっかいさということを考えていたので、そこらにあったのでこれも30分くらいちょっとめくってみたが、このシリーズはおそらく1990年代に発展した哲学史の研究成果を取り入れているのだろう、コンパクトで良書が多い。この本もちょっと驚く内容だったがそれなりに歯ごたえがあって読んでいて疲れるので途中で読むのをやめた。休み明けの直前に書くのを避けたが、これは連休の初日に書く内容じゃないな。
印象に残ったのは鏡に映る自分についての話で、相手と見つめ合った時に相手の瞳の中に自分が映るということがちょっと触れられていて、ああそうだ、確かにそうだなと。